見出し画像

ある酒場で見た光景

その世界の朝はどこまでも広がる白銀が眩しく、夜は静かにその地を凍らせた。

私がその街に暮らしていた頃には、外灯が点ると酒場に入り、グラス片手に色んな人間模様を目の当たりにしていた。
誰も自分のことを知らない心地良さを味いながら、内省と観察に心を傾けるには酒場が最適だった。

日々の酒場を嗜み、見知らぬ街の非日常が日常になる頃に、私はムーンリバーの店主と出会った。

彼は今まで私が出会ってきた中で、誰よりも風変わりで捉えどころのない人間だった。その街を思い出す度に、1度しか会ったことのない彼の記憶がよみがえる。

その夜私は、足跡のない雪道を歩きながら、街外れにある酒場の暖簾をくぐった。

地元の客で賑わう中、誰もいないカウンターに座り、ひとり麦焼酎の湯割を愉しんだ。
都会暮らしで身につけた自意識の鎧を外して味わう酒は、どこか重たくて鋭く染みる酒だった。

しばらくすると地元の常連らしき男が入ってきた。店主と挨拶を交わし、テーブル席が満席であることを知ると、男は仕方なさそうに私から1席空けてカウンターに座った。店主が熱燗を差し出すと、男はそれに口をつけて一口で喉元を温めた。

カウンターはその男と私だけだったから、酒が進むに連れて自然な流れで男が話しかけてきた。

「この酒場で呑んでいる9割はこの街で生まれ、この街で育った輩だ。残りは外の街で生まれて、それぞれの成り行きでこの街に住んでいる。つまりこの街以外、しかも東京からこの酒場に来たのはあんたがはじめてだ」

聞けば男は30年以上この街の酒場で呑んでいるという。

「田舎は入れ代わりがなくていい。みんな知った顔だし、酒の呑み方も知れ合った同士だ」

私が東京からきたことを知ると、男は田舎の良さを自分に言い聞かせているように酒をあおった。

酒が我々の距離を詰め、男の身の上話を聞く内に、いつの間にか2人で焼酎のボトルを空けていた。
午前2時近く、店が閉店になる頃に男は言った。

「バーが好きならムーンリバーに行ったらいい。きっとあんたは店主に魅了されるだろう」

酒飲みとして本能的に男が言っていたことが気になった私は、酔った足どりで雪が吹雪く中ムーンリバーに辿り着いた。

薄暗く味気ない装いのバーカウンターには、無作為に照明の光があたっていた。

店主は50代半ばぐらいで、私を見てから一旦張り詰めた空気を瞬時に緩めた。緩急に色気が灯る佇まいで男は私を見定めた。

照明の色が変わり、スピーカーからは80年代の洋楽が流れはじめた。ちょうど店仕舞いをしかけたところに私が現れたようだ。

カウンターの奥からは若い女が現れた。女性バーテンダーというよりは店主の手伝いをしている様子だ。

無言でオーダーを促されると私はジントニックをオーダーした。

店主の所作は滑らかで、状況に左右されない軸が感じられた。開店直後も閉店間際にも同じ味を紡ぎ出すことを美学としているのかもしれない。

そのジントニックは、トニックウォーターの甘さとライムの酸味が程よく混ざり、アルコールが溶かされ、清涼感に満ちた味わいだった。深夜に味わうには清らか過ぎるが、とにかく美味かった。

店主はジントニックの感想を求めることなく、本当に味わっている客と何気なく味わっている客の違いを語り、私を前者だと明言した。

「ここはバーというより、酒場だからあなたのような飲み方をする客は珍しい」

ジントニックを飲み終え、次のオーダーを考えていると、いつの間にかカウンターの中の女が声を出さずに泣いていた。

女はその涙を拭うことなく、氷をカットしていた。ただ頬から涙が流れているだけで、泣いているという素振りはまるでない。

そこには泣くことに伴うはずの心情的な仕種はなく、涙が流れるという生理的な現象だけが表れていた。あるいは生理的現象ですらなく、ただ頬に涙が流れる情景に過ぎないのかもしれない。

女の涙が顎に届くと、店主は無関心にそれを手で拭い、女がカットした氷の形を確かめた。

ここでは、女の涙よりも氷の形の方が店主の感心の的となる。それはバーにおいてのあるべき姿なのかもしれない。

役割を終えた目の前のグラスは店主によって下げられた。私はジントニックが美味いと感じたら次のオーダーはギムレットに決めていた。

店主は私を注視すると、オーダーを聞くことなく素早くライムを絞り、ジンを注ぎ、シェイカーを振りはじめた。その横で女は変わらず氷をカットしていた。

窓の外に目を向けると吹雪の勢いが増していた。
今ごろ銀座のバーでは、欲と品位のバランスを保った男がマティーニを、隣の女はパリジャンを味わっているのかもしれない。きらびやかな街に相応しい光景だ。

間もなく目の前でギムレットが注がれた。

スピーカーからはマイケルジャクソンのビートイットが流れていた。ギムレットに集中しようとすると、店主と同じ年頃の女が現れた。女はカウンターに座ることなく、店主と親しげに話しはじめた。涙が流れている女には、やはり感心を示すことなく、やがて女は店主に紙袋を渡し去っていった。

店主に紙袋を渡す女は、店主の嫁なのか。涙が流れる女は店主に想いを寄せているのか。

様々な可能性が頭をよぎるが、まずは目の前のギムレットを味わった。

それはどこまでも冷たく鋭利な味わいだった。酸味と甘味はお互いを譲り合い、補完し合っているようで、その中心にはジンの味わいが保たれた。総じて丸く滑らかな味わいだった。ジントニックと同じく深夜に味わうには、綺麗すぎるギムレットだった。やはり店主は、状況にも飲み手にも左右されず、いかなる時にも同じカクテルを紡ぎ出すのかもしれない。

目に映る情報に惑わされないよう、バックバーを眺めると涙が流れる女の奥には、ピカソの「泣く女」が無造作に置かれていた。
また店主の奥にはカクテルコンぺで受賞した数多くの賞状が無作為に並べられていた。

カウンターから新たな情報が見える度に、この空間の本質から遠ざかっていく。カクテルを味わうには情報が多過ぎるが、私はそのアンバランスな空間と、捉らえどころのない店主に魅了されはじめていた。

店主は私の視線の先に気付くと、過去の栄光を語ることなくその過ちを語りはじめた。

「僕は5年前にあることで捕まってね。みんなに迷惑をかけたし、色んな人を裏切った。それでも僕を信用してくれる人や僕のカクテルに魅了された人もいた。でも今はここであなたみたいに本当の意味でカクテルを味わう人はいない」

私はギムレットの最後の一口を味わった。最初の一口目と変わらない滑らかな味わいが保たれていた。

「ここはバーなんですか、酒場なんですか」

私が聞くと店主は、バースプーンを空のグラスの中で回しはじめた。

「バーは品位を保ちながら酒を嗜み、酒場では品位が剥がされ、本性が表れる。この街の酒呑みは酒場しか求めていない。だからここは酒場だが、あなたにとってはバーなのかもしれない」
店主の右手は美しく回転を続けている。

スピーカーからは音楽がとまり、女がカットする氷の音だけが響いている。

男の右手に惹き付けられた私は最後の1杯をオーダーした。
「最後にマティーニを」
私のオーダーに対して店主は右手を止めたが、グラスには回転の余韻が残っていた。

「もうやめておいた方がいい。外は吹雪いてるし、自分じゃ気付いてなくても、あなたは相当酔ってる。もし僕のマティーニが気になるなら、もう1度しらふの時に飲みにくればいい」

店主に言われるとアルコールが私の意識を支配しはじめた。

店主は自分のためにマティーニを作りはじめ、女の涙はいつの間にか渇いていた。

午前3時過ぎ、吹雪がより激しさを増す中、私は酔った足どりで帰路へと向かった。


東京の暮らしに戻った私は、再びバーで飲む日常に落ち着いた。
あの街の酒場と東京のバーで飲む人間の本質変わらない。どちら側から覗くかの違いだけだ。

東京での日常はあの街の記憶を日々上書きしているが、ムーンリバーで見た光景は、私の記憶に色濃く残っている。

店主は閉店前のマティーニを泣く女に飲ませていたのかもしれない。

この記事が参加している募集

この街がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?