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選択と集中、マルチタスクから考える普段の学習と試験勉強(No.23)

資格を取るために、年始から勉強を始めてニヶ月経った。先月からはそれと並行して自分の軸となるような学習もしている。

案の定当初はキャパオーバーで、仕事も含め学習を進めていくのはなかなか苦労した。ただ最近になってようやくリズムが掴めてきたのか、以前よりも心理的負担が少なくなってきたみたい。

隙間時間に見ているサッカー漫画のDAYSにも、「それぞれのチームに独特なリズムがある」みたいなことを言っていた。(この漫画知らなかったらごめんなさい🙏)

確かに、学習法や習慣、就寝時間、頭が冴えるタイミングなど人それぞれ独自のリズムを刻んで生活や仕事をしているなと振り返ると気づくことが沢山でてくるなーと。

資格と軸学習の両方を始めて約一ヶ月たったので、今日はそれぞれの学習での気づきや学びを書いていこうと思う。

こんな意見もあるんだなーって参加程度に見てもらえれば!


選択と集中 VS マルチタスク

こういう対比構造って数え切れないほどあるけど、今日はどちらが優れているとか一方を主張したいというわけではないんだよね。

目的に合ったやり方が存在するように、選択と集中やマルチタスクは目的別に使い分けた方が良いってことを僕は言いたい。

以前、ジラ谷さんのメルマガでこんなことを言っていた。

・選択と集中=自分がやるべきことと、やるべきでないことを分ける
・マルチタスク=自分がやるべきことの中で、バリエーションをつける

なるほど。僕の中では、

・選択と集中→一つのものにリソース(時間やお金など)を集中させる。

・マルチタスク→複数のものを同時に効率良くこなす。

という定義でお互い相容れない存在と思っていたので、ジラ谷さんの解釈はとてもわかりやすく腑に落ちた感覚を今でも覚えている。

ジラ谷さんの定義だとこのマルチタスクと選択と集中が共存できるのではないかと思い、自分の学習に役立てるのではないかと考えたのが元の始まり。

二つを実際に使い分けてみた

僕の場合だが、学習をざっくり二つの領域で分けている。名前は僕が勝手につけているので意味まではあんまり深く考えないで欲しい。

【主体的学習】→自分にとって心理的負担が少ない学習。趣味、自分から進んで選んだスキルアップのための学習など主に没頭状態になれるもの。楽しい、知りたいなどポジティブな感情が多い。

【受動的学習】→仕事や状況の変化などによって必要に迫られたりなど外部や環境の影響でする学習や勉強。やりたくないと感じることが多いもの。資格勉強や受験など。物理的メリット、デメリットで選ぶものに多い傾向がある。

それぞれ、

主体的学習→マルチタスク

受動的学習→選択と集中

の組み合わせがしっかりくるのが僕の結論。


【主体的学習】

マルチタスク=バリエーションをつけると紹介したが、主体的学習の多くは芋づる式の学びが多い。

例えばライティング一つとっても、ライティングの中の要素に、文法や語彙、心理学、脳科学、認知科学など様々なものが含まれて一つのジャンルとして成り立っている。一つを極まれば終わりということはなく、むしろ一つの学びを起点に知識や学びのネットワーク化が必要なんだよね。学びを進めていく中で、自分の脳内で違うジャンル同士を繋げる橋渡しも大事になってくる。言ってしまえば終わりがないパズルをやるようなものなので、飽きがこないように変化をつけたり所々で目標を設定をする工夫がポイントかな。範囲を意図的に決めてしまう選択と集中の戦略では相性が悪い。

僕は最近自分の軸を作る勉強として言語学を学び始めているが、普段馴染みが出てこない用語や概念が出てきた時は迷わずググったり関連書籍を購入したりする。積極的な脱線はそれだけで変化になるし、もっと知りたいという好奇心も生まれて新たな目標ができる可能性もあるからね。ただ主体的学習は際限がないので、自分は今何をやっているんだろうと現在地がわからなくなった時は脱線から元の学習に戻るのが一つの手かな。変化は強いと抵抗感が生まれてしまうけど、バリエーションをつける気持ちでいれば良い気分転換にもなる。バランスをとって自分で上手くコントロールできるのが理想。

【受動的学習】

他方で、受動的学習においては傾向と対策を見つけてパターン化するものによく見かける。基本的に範囲が決められている資格試験や受験、一つのジャンルを深く学習するために複数の書籍を読む時などだ。

受験勉強を例に挙げると、指定されている教科書の範囲内で出題される。さらに学校別の過去問である赤本を解いて徐々に出題傾向を掴んでいく。大学に受かるという目的がある以上、限られた時間で合格するために効率の良さを追求するのは必然だ。見落としがちなポイントとして、パターンを見つけるためには良く出てくる用語や概念、など内容理解以上に文章構造など枠組みに目を向けることかな。

レベルが高い大学ほどひっかけの解答を出してくるし、単語の意味を覚えているだけでは解けない問題も無数だ。意味の暗記は答えに辿りつくための道標であって、それを手がかりにどのように正解を導き出すかが問われている。

また、求める人物像や出題者の意図などいわゆる本質を見出すことで、科目が違えど似ている共通項を抽出できる。自分がやるべきこととやらないことの仕分けをするためにも、量をこなすことと分析が必要かな。これが選択と集中の戦略。

パターンを見つけるまでには量の問題があり、パターン発見後には対策に集中するために、仕分けが必要になる。僕が受けようとしている資格は4科目あるので、試験の傾向を掴むために覚えるべきポイントを仕分けしている最中だ。

一義的に見ないこと

以前、僕は職場の上司に「慮るってわかるか?辞書で調べてみな」と言われたことがある。ここでは言葉の意味を問題として取り上げないが、個人的には言葉の解釈を辞書に依拠してる人なのかなって。

辞書の意味が正しいと考えると会話に溝が生まれやすいと思うし、視点が一つしかないことと同じだなと感じた。言葉は話し手や状況が違えば当然意味も変わってくるし。一つの定義をそのまま事例に当てはめるだけでは、見えるものも見えなくなってしまう。

「やばい」という言葉一つとっても、

・それ選ぶのはヤバくない?(まずくない?の意で)

・(映画を進める時など)ヤバいから見てみて!(好意的な意で)

・ここのラーメンの量ヤバいから!(多い少ないの意で)

一つの言葉で文脈や話し手次第で意味は変幻自在。

そこで、僕が読んでいる本の中でこんな一節が出てくる。

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは、その著作『哲学探究』において次の有名な発言をしている。「意味を見るな、使用を見よ」。この言葉は、言語使用を見てそこで終わり、というように解釈されることが多い。なぜなら文脈内における言語表現の使用のほかには意味などというものは存在しないから、というわけだ。私はこれとは違うメッセージを受け取った。私の考えでは、彼が言っているのは、少数の使い古された伝統的な事例をもとに、語の意味とはこうであるはずだとするような先入観に捕らわれるべきではない、ということだと思う。

辞書も編集者が事例を集めて体系化したものと考えれば、やっぱり絶対の正解ではない。辞書の例を出したのは概念や言葉、事例が一つの視点からではより良い選択を掴めないこともあると伝えたかったから

話を学習法に戻すとここまで読んでお気づきかもしれないが、主体的学習と受動的学習はお互いを補完し合えるものと考えてて。

先の例でライティングのジャンルを挙げたが、あれも順序として先に狭く範囲を決めて深く学習し、徐々に広がる段階でマルチタスク的に他の分野の知識や情報を取り入れると相関的な理解を得られる事が多い。いわゆる、知の統合というやつだ。

分けるという仕分けは一つのものを理解しやすくするために分別しているのだと僕は解釈している。なので、最終的には分けたものを統合していく作業もどこかで必要になってくるだろう。学習法も巷に沢山のものが存在し抽象から具体的なものまであるが、これらの学習法を一つだけ使い続けるのではなく自分に合ったものを試して組み合わせ、リメイクしていくことが必要だ。

今日はここまで。


参考にした人や書籍↓

・ジラーチ谷川さん https://note.com/jirachi_freedom

・思考と意味の取り扱いガイド(レイ・ジャッケンドフ)

・思考と行動における言語(S.I.ハヤカワ)





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