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ぼくはおしゃべりランチができない

口から生まれてきたのかというマシンガントークな人とランチに行くと、彼ら彼女らは食べ物をほとんど飲み込むようにして、ずっとしゃべっている。

先日ある学びの場の先生とその参加者の方たちとランチに行ったのだが、先生は食事が来るまでずっと話していた。
先生が注文したハンバーグランチが来ても、やはり口に入れては噛まずに、飲み込むようにして話し続けている。

先生以外の全員が食べ終わり、先生だけ半分以上残っていることに気づいたのか、先生はその中で自分の次におしゃべりな人に話を振った。話を振られた人は嬉々として自分の話をし始め、その間に先生は残りの食事を一気にかき込む。。という一幕があった。

自分は食事の時、できるだけゆっくり味わいながら食している。
孤独のグルメというドラマに出てくる、食事中はじっくり料理と対話するように食べる井之頭五郎さんのように、誰かとわいわい食べるのも好きだけど、できればお食事は静かにゆったり食べたい派だ。

食事とは、命を頂くことである。
高校生の時に家庭科でみた映像で、暗い倉庫の中で芽生えたカボチャの芽が光に向かって一生懸命に伸びていくというものを見た時「野菜も生きている」と思ったし、他の命を奪わないと生きていけない人の業のようなものを感じた。

食事とは、命を頂くこと。しかし誰かと一緒にいると場の目的は食事と言うより交流、しゃべることになる。これがどうも苦手だった。
私も会食の場ではあの先生みたいに、食事をモノのように飲み込んで話し続ける人にならないと世の中やっていけないのだろうか。。

そんな悩みを、友人にちょっと話してみた。友人はベテランのマナー講師で、大企業の研修も数多く担当している。そんな彼女の答えは「会食・食事はプレゼンの場じゃないよ。相手に心地よい時間を過ごしてもらうためのものだよ」というものだった。

会食の場ではだまって食べている人より、食事そっちのけで華やかに話し続ける人の方がなんだかすごそうに思える。
でも人はずっと自分のことを話し続ける人よりも、相手の話を聞きたいという姿勢でいる人とまた会いたい思うものだ。

たしかに料理でも「俺の刻みテクニックすごいだろう!」という一方的に見せつけてくるような料理より「ひとみちゃんはお出汁のきいた料理が好きだったね」と自分のことを想ってつくってくれた一品の方が心に染みる。

「話せなくても、お料理の味にうっとりしてしまっても、相手との間にあるものを大切にできればそれでいいんだよ」という友人の言葉になんだかホッとした。

人は基本的に2つのことに焦点を当てられないと言われている。ランチ会食の場などでは料理そっちのけで話し続ける人、だまって料理を味わう人のだいたい2種類いるのは、人は2つのことを同時にやるのは基本的に難しいからだ。

そしてどちらかというと黙って食べている人より、食べずに話し続けている人の方が光が当たりやすい。
でも自分と相手が心地よく時間を過ごしてくれるように心を配ることができれば、むりに話さなくても、反対に黙って静かに食べなければいけないものでもない。

自分にできないことを目の前でされると、自分もああなければならないのかな・・と思ってしまうのは私の心の癖だ。
でもどんな状況もいつも自分が一番ごきげんでいられるように。そうすることで相手の方や周りの方も楽しい時間が過ごせるようにしたい。

🍀

本日のnoteタイトルは山田詠美先生の名作『ぼくは勉強ができない』から頂きました。
勉強や学校で先生に好かれるような立ち振る舞いは全くできないけどなぜか女性にもてまくる男の子が主人公です。わたしも立ち振る舞いとか気にせず、人類にもてまくる人になりたいわー。



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