銀歯

目を覚ますと、既に太陽は高い位置に差し掛かっていた。
枕元のスマホを見ると、示された時間は昼前。このままでは一日を無駄にしてしまう、そう思い、自らの体を奮い立たせるように声を出しながら体を起こす。
まずはキッチンへ。ここでポットにお湯を入れ、その間にと洗面所に向かい、顔を洗う。
お湯が出るまで時間のかかるこの家では、眠気を覚ます意味も込めて冷水で顔を洗うのが日課となっていた。
キッチンに戻り、お湯が沸けたのを確認するとコーヒーを入れる。冷水での洗顔とコーヒー、これこそ最強の組み合わせだ。
さて今日は何をしようか、何気なくテレビをつけながらコーヒーを飲んでいると一本の電話が入る。
「え……なんでだ?」
表示された名前を見て戸惑う。
「はい、もしもし。」
「あ、高森さん!よかったー。今、電話大丈夫ですか?」
「はい、もちろん。どうかしましたか?」
「いえ実は、主人のことで。」
「先生の身に何かあったんですか?」
起きて間もないにもかかわらず、高森の心臓はバクバクと鳴り始めた。
「そうなんですよ!歯が痛いのに歯医者には行かないって言うんです。」
「へ?」
予想だにしない角度のことを言われ、思わずアホな声を出してしまう。
「絶対虫歯なのに、嫌だ嫌だって言って部屋から出てこなくなっちゃって。」
「はあ。」
なんだそんなことか、と正直ホッとしたような、鼻で笑いたくなるような、そんな色んな感情で曖昧な返事をする。
「そんな気の抜けた返事しないでくださいよ。他人事じゃないんですよ?」
「いやでも、それは先生が決めることですし。」
「本も書けないほど痛い、って言ってるんですよ?」
「すぐ伺います!」
電話を切るとすぐに高森は外出の準備を始め、電話を切った5分後には家を出る体勢を完全に整えていた。

本来であれば作家とさえ連絡先を交換していれば問題ないのだが、雨相という男に関しては行方をくらましたり、連絡が取れなくなることが今までも少なくなかったので、結婚をする時待った時点で、両者同意のもと、朱里と連絡先を交換していたのだった。
正直、雨相は結婚してからというもの、今まで以上に真剣に執筆活動に取り組むようになり、連絡もなく締切を過ぎることはなくなったため、朱里と連絡先を交換したのは心配のし過ぎだったのかもしれないと思っていたが、やはり心配はしておくにこしたことはないのだ。

インターホンを鳴らすとすぐに朱里は高森を出迎えた。
「部屋にいます。」
朱里に案内され、雨相の部屋の前に立った高森は静かに二回、ノックをした。
「先生、高森です。」
「たかも、りさん。」
痛みを堪えながら、返事をする雨相。
「奥さんから電話を貰いましたよ。」
「すみません、しごとちゅなのに。」
「いえ、今日は休みでした。」
「「え?」」
雨相と朱里は同時に驚きの声を上げた。
「お休みだったんですか?」
「はい。」
「ええ。それなのに突然電話してしまって、申し訳ありません。」
朱里は深々と頭を下げながら謝った。
「頭なんて下げないでください。これが僕の仕事ですから。」
「ごめん、なさい。」
部屋からも小さな声でそう聞こえてくる。
「ということで、もうわかってますよね。先生。」
高森はあえて少しだけ口調を荒らげた。
「はい。」
「大丈夫です。銀歯でも何でも、治療方法なんていくらでもありますから。」
「でも……」
「でもじゃない!」
子供を叱る親のように、ピシッとした口調の高森。
「ここ来るまでの間に良さそうな歯医者さんは調べましたから、行きますよ。」
「うう……」
そこまでいうと、半分泣きながら雨相はドアを開けてやっと部屋から出てきた。
「さあ、行きますよ。」
高森は雨相の腕を取るとそのまま玄関口へと向かう。
「あ、でも髪ボサボサ、だし。」
「じゃあ帽子かぶって、もう早く行っちゃいますよ。」
そして朱里を含め、三人は高森が調べた歯医者へと向かった。

「本当、お休みだったのにすみませんでした。」
雨相の治療を受けている間、二人は診察室で待っていた。
「いえいえ。でも朱里さん、いいですか。雨相という男はああ見えて、基本的にはませてる子供です。いざと言う時はピシッと言ってあげてください。」
「はい。」
朱里は、診察室の方を心配そうに眺めている高森を見て、この人は過保護な母親みたいだな、とそう思うのだった。

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