プライベート

打ち合わせと言えばあの喫茶店。それが二人の中での暗黙の了解、というか、もちろん実際に打ち合わせをするとなれば事前に約束はするわけだが、あの喫茶店で行うのが当たり前のことになっていた。
しかし今日は違う。珍しく出版社内での打ち合わせであった。
いくら人気作家の一人といえど、慣れない場所となればやはり緊張するもので、朱里のアドバイスで珍しく正装をした雨相は高層ビルを前に一度深く深呼吸をし、そしてゆっくりと入っていった。
ここから慣れない手続きをしなければならないのかと少しばかり気が滅入っていると、遠くから聞きなれた声が。
「先生ー。」
もちろんその声の主は高森である。
「高森さん。どうしてここに?」
雨相は高森の声を聞くと一気に晴れ晴れしい表情になり、そう尋ねた。
「いえ、先生こちらまで来ていただいたことがあまりなかったので、もし手間取ったらあれだなと思いまして、お迎えに上がりました。」
雨相は高森に、まるで自分の心の中を見透かされているような気がしたが、しかし結果論として決して嫌な気はしなかった。
「ここは素直に、ありがとうございます。」
「いえいえ、じゃあここで受付だけしてもらって、上がりましょうか。」
高森が横にいたおかげですんなり受付を済ませられた雨相は高森に連れられるままエレベーターに乗り、会議室らしき部屋へと連れられた。

昔一度来たことがある会議室な気もしたが、正直雨相からすれば違いなど分からず、もしかしたらここは初めてかもしれなかった。
「では、こちらに座ってください。」
雨相は高森に言われるとおりに席に着いた。
「ホットコーヒーでよろしいですか?」
「ああ、はい。」
緊張から思わず丁寧語になってしまう雨相。
「少しお待ちくださいね。」
そう言うと高森は部屋を後にした。
高森が席を外した時間など、正味5分やそこらだったはずだが、緊張で心臓の鼓動が鳴り止まぬ雨相にはとても長い時間に感じられた。
トントン、というノックの音と共に扉が開き、高森が入ってきた。
「お待たせしました。」
高森は小さなお盆の上に紙コップを二つ載せてやってきた。そしてその一つを雨相の前に、そしてもう一つのコップを置いた場所に自分自身が腰を下ろした。
「すみません、他の編集が出てしまっていて自分で用意しなくちゃならなくて。」
高森は少し笑いながらそう言った。
「いえいえ。」
やはり丁寧語は止まらない。
「先生、緊張しないでくださいよ。僕と先生しかいませんし、コーヒーもある。いつもの喫茶店と変わりません。」
身振り手振りを使って説明する高森。
「まあコーヒーの味は劣りますが。」
最後にそんなシャレも言ってみせた。
「まあ、そうですね。」
「そうそう、それでこそ先生です。」
二人は少し笑いあった。
「じゃあ、早速本題の方に入ってよろしいですか。」
至って真剣な表情を浮かべる高森。雨相も一度座り直して姿勢を正した。
「先生は基本的に顔出しをお断りしていますよね。」
「そうですね……え?」
「いや、何もテレビに出ませんか、なんて話じゃないので安心してください。」
「ああ、良かった。」
まさかの角度からの提案を覚悟していただけに少し胸を撫で下ろす。
「ズバリ、サイン会をしてみませんか?」
「サイン会、ですか。」
サイン会、もちろん知ってはいたが、自分には縁遠いものだと思っていた雨相にとって思ってもみない提案だった。
「先生の元によくファンレターも届いてると思うんですが、是非やって欲しいという意見もたくさん届いておりまして。」
「そうなんですか。」
確かにそういったメッセージが今まで届いたことがあるのは知っていたが、だからといってやってみよう、とまでは思わなかった。
「もちろんサイン会を開かれることで、今後プライベートで気づかれることもあるかもしれません。そうすると先生としては不本意かもしれない。でも、そうだとしてもきっと得るものもあると思うんです。」
 高森はそう力説する。
「なるほど。」
「いかがですか。」
「そうですね……正直急な話なので今すぐ決めるのは難しくて。」
「そうですよね。」
 神妙な面持ちで頷く。
「一度持ち帰ってもいいですか。」
「もちろん。どんな結果になろうと、僕は先生についていきますので。」
 高森はにこやかな表情でそう言った。
「じゃあこのまま打ち合わせをしますか。」
「いや……」
「どうかされましたか。」
「もし可能なら、いつものところに。」
「もちろん。僕は先生についていきますので。」
 高森は笑いながらそう答えた。

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