イカ

やや肌寒い、そんな陽気の一日。
吹奏楽部の朝練を終えた陽乃は、教室の窓の外を眺めながらゆったりとした時間を過ごしていた。
「陽乃、おはよー!」
「涼ちゃん、おはよう。」
涼は教室に入ってくるなり、陽乃に声をかけた。
陽乃と涼は、小学校からの付き合いで、部活こそ違ったが、未だに仲が良かった。
「今日も朝練?」
「うん。」
「すごいなあ、私だったら絶対起きられない。」
涼は笑いながら言った。
「私も早起き得意じゃないけど、意外と慣れるものよ?」
陽乃も笑った。
「あ、そうそう。陽乃、昨日の夜、駅前にいなかった?」
そう尋ねられ、陽乃は昨日のことを思い出してみた。
「えっと、あ、うん。部活終わりにお母さんと合流して、買い物とかしたの。」
「やっぱりー、あれ陽乃だったんだ。」
「え、涼ちゃんも駅にいたの?」
「うん。お父さんが飲み会で遅くなるって言うから、お母さんと楓と、三人でお夕飯食べに行ったの。」
「楓ちゃん、最近全然会ってないかも。え、今いくつ?」
「もう小学一年生よ。」
「えー、もう楓ちゃんも小学生なんだ!あんなに小さかったのに。」
涼とその妹の楓は少しばかり年が離れており、小学生の頃などはよく涼の家に行っては、楓を可愛がっていた。
「今度また会いに来て。すっかり生意気になったから。」
「えー、あの楓ちゃんが?」
 陽乃は信じられないといった顔をした。
「そうよ。口なんかも達者で、大変よ。」
涼はほとほと疲れたような表情を浮かべた。
「というか、せっかく見つけてくれたなら声掛けてくれれば良かったのに。」
「ご飯食べたら楓がうとうとし始めちゃって、帰ることにしたの。」
「あ、そうだったんだ。」
「そうそう。それこそ昨日はね、回転寿司に行ったの。駅ビルに入ってるでしょ?」
「ああ、あそこね。いいなあ、回転寿司なんて羨ましい。」
「いや、ていうのもね、妹が最近よく家でイカのお寿司、イカのお寿司、って言ってて、そんなことばっかり聞いてたらみんな食べたくなっちゃったの。」
「へえ。え、楓ちゃんまだ一年生なのにイカのお寿司好きなの?渋いね。」
「違うの違うの。」
「違うって?」
「自分の身を守る、防犯のお約束の頭文字をとってイカのお寿司、なの。」
「ああ、そういうのあったね。」
「知らない人についてイカないとかね。」
「はいはい。じゃあ楓ちゃんはそれをよく唱えてたんだ。」
「そうなの。なんか学校で習ったらしくて、毎日私にも注意してくるの。」
「え……可愛すぎない?」
 陽乃は思わず真顔になり、決して大きくない声でそう呟いた。
「こっちからしたら毎日言われて、いい加減分かったからって感じよ。」
「贅沢な悩み!」
「贅沢なの?」
 涼は笑いながら聞き返した。
「打ちなんて下の兄弟もいないから、そういうの憧れるなあ。」
「そういうもんかしらね。」
「とりあえず、今度絶対会わせてね!」
「分かったから、落ち着いて。」
 陽乃の予想以上の気迫に、涼は制するように言った。
 始業を告げるチャイムが鳴る。
「じゃあいつ家来るか、またあとで話そ。」
「うん、あとでね。」
 教室のドアが開く音がした。

この記事が参加している募集

スキしてみて