ルアー

「やっと繋がった!先生、原稿は上がりましたか?」
「いえまだです。」
「やっぱりですか。ちなみに進捗状況は?」
「ほぼ手付かずですね。」
「なんでそんな冷静に答えられるんですか!早く書いてくださいよ。」
 高森さんは半分泣きながらそう訴えた。
「先生、今何してるんですか?」
「今からつろうと思って。」
「え……今なんて?」
「つろうかと思ってます。」
「早まらないでください!」
 思わず耳から携帯を離したくなる声量で高森さんが叫ぶ。
「確かに今の先生はスランプかもしれません。でも僕は、先生を信じてます!」
「信じてる?」
「ええ!理由は単純、先生が天才だと信じているからです!」
 沈黙の時間が二人の間を流れた。
「先生、今どこにいるんですか?すぐに向かいます。」
「今は海にいます。」
「海、ですか?」
「はい。」
「えっと、樹海って意味ですか?」
「いえ、普通の海です。」
「普通の海?つろうと思ってる……まさかとは思いますが先生、海釣りに行ってませんか?」
「御名答です。」
 はぁ、という大きなため息が聞こえたかと思うと、高森さんはさっきよりも大きな声で畳みかけてきた。
「先生、小さい頃に教わりませんでしたか?世の中にはやっていいいたずらとやっちゃいけないいたずらがあるんですよ!大体先生はいつもそうやって……」
 そっと携帯をポケットに入れて釣りの続きを開始した。
 海はいい。何でも受け入れてくれる、そんな気がする。生命は海から生まれたと聞いたことがあるが、だから海を見ていると落ち着くのだろうか。そうだとしたら今胸に抱いているこの感覚は帰巣本能なのかもしれない。
胎児のときも人は母親の胎内で水に満たされている。間違いなく人間が一番長く水の中にいられるのはその時だ。しかしその瞬間を人間と呼べるのだろうか。法律的にとか生物学的にといった話ではない。もっと感覚的な話である。
「先生?先生!聞いてますか?」
 受話器を耳に当てる。
「聞いてますよ。」
「聞いてませんでしたね。」
 こういう時の高森さんは鋭い。
「一つ質問をしてもいいですか?」
「先生、話をそらそうとしてませんか?」
「いえ、そんなことないですよ。次回作に関することですから。」
「それならいいですよ。」
「急な思い付きで海に来たんで釣竿をレンタルしたんですよ。」
「そんなこと思いつくくらいなら新作の案を思いついてほしいもんですけどね。」
 わざと刺さるようなことを言ってくる。
「でもやってるうちに楽しくなっちゃって、今度釣竿でも買おうかな、と思って。」
「原稿さえ上げてくれれば何でも好きにしていいですから。」
 高森さんは呆れたようにそう呟く。
「で色々調べてみたんですけど、ロッドとかルアーとか色んな種類があるんですよ。色んな魚の形したルアーがあったり、ロッドなんてそれなりにいい奴は十万はくだらないんですよ。」
「そうなんですね。それで、聞きたいことは何ですか?」
「高森さんって、カメラが好きじゃないですか?」
「そうですね。」
「カメラってこだわりだしたら結構お金かかるって聞いたんですけど、そこにお金をかけるのはひとえに愛ですか?」
「愛、だけじゃないですね。」
「他には何があるんですか?」
「うーん、意地、もありますかね。」
「意地?」
「単純に自分はカメラ好きだという意地、もっといい写真が撮りたいという意地、ここまでお金をかけたから引けないという意地、愛なんてそんな大それたもんじゃないですよ。」
「なるほど。愛が海なら、さしずめ意地は底なし沼、ってとこですね。」
「なんか鼻につきますね。」
「電話切りますね。ちょっと、思いついちゃったんで。」
「待ってました。その言葉が聞けたら僕はもう安心です。よろしくお願いしますね、雨相先生。」
 そういって高森さんは電話を切った。
 海は本当に素晴らしい。万物の母である。

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