毛糸

「大将、掃除終わりました。」
「おお、ありがとう。」
 樋口は包丁を研ぐ手を一旦止め、古河(こが)の方を向いて答えた。
「もうあがっていいぞ。」
「はい。」
 しかし古河はその場を動こうとしない。
「どうした?」
「あの……もしよければ、大将が訪朝研いでる姿、見ててもよろしいですか。」
「勝手にしろ。」
 樋口はまた包丁を研ぎ始めた。

「お前、ここで働き始めてもうどれくらいになる。」
「四年くらいになりますかね。」
「もう四年も経つのか。時間が経つのは早いもんだ。」
「そうですね。」
「今でも覚えてるぞ。随分若いのに、何度もここに通ってくれてな。」
「はい。始めは当時の職場の上司に連れてきてもらったんですけど、大将の味に一目ぼれして。ここに来るために働いてました。」
「それはありがたいことだけどな。でも、それで弟子入りまでするってのは、相当な変わりもんだよ。」
 樋口は渋い声で笑った。
「はじめて弟子入りを頼んだ日のこと、覚えてらっしゃいますか。」
「ああ、確か店出ようと思ったら、お前が店前に立ってて、弟子にしてくださいって言いながら履歴書渡してきてな。」
「そうです。その履歴書見て大将が、『ふるかわっていうのか』って。」
「懐かしいなあ。」
 樋口はさっきまで研いでいた包丁を布巾で綺麗に拭いた。
「大将って、お休みの日とかは何されてるんですか。」
「そうだなあ……でも、家にいることが多いな。」
「なんか趣味とかあるんですか。」
「昔から好きなのは、編み物だな。」
「編み物ですか?」
 古河は思わず大きな声を出してしまった。
「そんな驚くことか。」
「いや、はい。普段の大将からは想像もつかない趣味だったもので。」
「うちの母親がそういうのが得意でな、小さい頃から余った毛糸でなんか色々作ったりしてたんだよ。」
「なるほど、それが今になっても続いてる感じなんですね。」
「そうだな。」
「編み物って、どういうところがいいんですか。」
「なんだ、やったことないのか。」
「そうですね。家庭科の授業で触ったくらいですね。」
「まあ編み物じゃなくても別にいいんだけどな、没頭できる、それがいいんだ。」
「没頭、ですか。」
「例えば、まあこれからの時期に向けてマフラーを編もうとするだろ。」
「はい。」
「なんとなく初めに完成した姿を思い浮かべるわけだ。」
「そうなんですね。」
「そしてその目標に向かって、無心で、ただただ編んでいく。」
 古河は頷く。
「その間は、他のことは何も考えない。ただひたすらに、編み続ける。そうすることで、日々の嫌なことだったり、辛いことが消えていくんだよ。」
「なるほど。」
「まああれだ。俺にとっての瞑想、みたいなものかもしれない。」
「瞑想ですか。」
「生きていればどうしてもつらいことはある。その逃げ道を自分で作っておかないと、パンクしちゃうからな。」
「ありがとうございます。」
「おお。もうこんな時間か。」
 樋口は時計を見上げてそう言った。
「本当ですね。」
「明日も朝からなんだ、そろそろあがれ。」
「はい、じゃあお先に失礼します。」
「お疲れさん。」
 古河の背中を見送ってから、次の包丁を研ぎ始めるのだった。

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