裏垢

「おい、大丈夫か。やっぱり元気ないぞ。」
 ゼミが終わると、俊作は大河にそう声をかけた。
「ああ、俊作……」

 つい90分前のことである。教室に着くとそこには、いつもなら時間ギリギリに着くはずの大河が既に席に座っていた。
 珍しいこともあるもんだな、と俊作は近づき、
「おお、大河もう来てたのか。」
 と、声をかけた。
「ああ……」
 いつもなら元気に返すはずの大河だったが、どうにも意気消沈しているようだった。
「どうした、なんかあったか?」
「いや、何でもない。」
「いや、何でもなくないだろ。」
「大丈夫だよ。」
 そういう大河のどこか物憂げな表情を見て、俊作はそれ以上何も聞けなかった。
 そして、いざ授業が始まっても、大河はいつものようなふざけた発言はせず、普段なら大河を諫める進藤教授ですら、少し心配する素振りを見せた。

「今日、バイトあるか?」
「いや、休み。」
「じゃあ、うちで飲もう、な?」
「え?」
「話なら聞くから。ほら、行くぞ。」
 寂しそうな表情を浮かべ、どうにも無気力な大河をなんとか立ち上がらせ、引っ張るようにして俊作の家へと向かった。

「とりあえず、入れよ。」
「ああ、お邪魔します。」
「まあ適当に座って。」
「ありがとう。」
 大河は黒い無地のクッションの上に腰を下ろした。
「とりあえず、ビールでいいか?」
「ああ、うん。」
 冷蔵庫の方から声をかける俊作に大河は少し身を乗り出して答えた。
「はいよー。」
 少しすると、俊作は缶ビールを二本とスナック菓子を持ってきた。
「今全然ないから、後でなんか買いに行こうぜ。」
「うん。」
「じゃあ、これ。」
 二人して缶ビールの蓋を開ける。
「乾杯―!」
「乾杯。」
 俊作はいつも以上に元気な声で乾杯の掛け声をしたが、やはり大河は元気がないようだった。
「ああ、美味しいなあ。」
「うん。」
「で、だ。どうしたんだよ。」
「いや……」
「さすがに元気がないことくらいわかるぜ。」
「うん。」
「進藤先生だって驚いてたからな。」
「え、マジ?」
「ああ。それに気づかないんじゃ、相当来てるな。」
「うん……いやでも本当、くだらないことなんだよ。」
「あのな、悩みにくだらないも何も、そんなもんないんだよ。」
「ありがとう。」
「とりあえず、話してみろ。」
「うん。俺が前から応援してるって言ってたアイドル覚えてる?」
「ああ、なんか言ってたな。」
「花華(はなばな)っていうアイドルグループの倉敷 楓姫(くらしき ふうき)ちゃん。」
「はいはい、思い出した。なんだっけ、ふー姫(ふーひめ)だっけ。」
「そうそう!」
 俊作が覚えていたことがよほど嬉しかったのか、大河は少しだけ嬉しそうに言った。
「それで、まさか恋人がいたとか?」
「いや、違う。」
「じゃあ、卒業?」
「それでもない。というか、ふー姫が卒業という選択肢を取るなら、俺は応援する。」
 大河は嫌に熱を込めてそう言った。
「おお……それじゃあ、どうしたんだよ。」
「ふー姫と一番仲が良かったメンバーのSNSの裏垢がバレて……」
「そのメンバーに恋人が発覚した、みたいな。」
「うん……しかもそれだけじゃなくて、他のメンバーの悪口まで書き込まれてたんだよ。もちろん、ふー姫の悪口も。」
「おお、マジか……」
 俊作にはどんな声をかけていいものか、全く思い浮かばなかった。

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