痛覚

「ですので、この順番で読むわけです。分かりますか?」
榎木田は黒板に大きく書いた漢文の一文を指示棒で指しながら説明した。
二時間目ということもあり、普通ならまだ眠くなるような時間帯ではなかったが、榎木田の授業はそうとは言えない。
クラスの3分の1近くが眠気と戦っており、既に5人ほどノックアウトしている生徒もいるのだった。
「まあこれも、慣れるまでやってみないと覚えられないものです。予習復習をしっかりしてですね、まずは身につける。積み重ねが、大事ですよ。」
少しだけクラスがざわつく。そう、積み重ねが、大事ですよ。は榎木田のキラーワードだったからだ。
「大丈夫ですか?続けますよ。」
そして榎木田が次の文章を書き始めた時、教室の扉がガラガラと開いた。
そこに立っていたのは、右腕をギプスで覆い三角巾で吊った圭佑だった。
「おはようございます。」
「ああ、大菅くん。おはようございます。腕は、大丈夫ですか?」
 大丈夫でないのは自明の理だが、こういう状況では聞かずにはいられまい。
「とりあえず病院に入ったので、大丈夫だと思います。」
「そうですか。まあ決して無理はなさらずに。」
 漢文の授業で無理も何もないかもしれないが、榎木田はそう声をかけた。
 少しの間、ざわついた教室だったが、榎木田の授業が始まれば、また眠りの中へと誘われる生徒が増えていくのだった。

 授業が終わると皆首を揃えて圭佑の席に群がった。
「大菅、どうしたんだよ。昨日の練習で怪我したのか?」
 まずそう切り出したのは同じくサッカー部の浅井陸(あさいりく)だった。
「いや……」
「そうだったら監督に言わないとだろ。」
「いや、そうじゃないんだよ。」
「え、違うのか?」
「うん。」
「じゃあ、もっと前から違和感があったとか?」
 陽介も会話に割って入った。
「いや、そうでもなくて……」
「じゃあ、どうしたんだよ。」
「今朝ね……」
「今朝?今朝どうしたんだよ。」
「あの……」
 どうにも口ごもる圭佑。
「はっきり言ってくれよ。」
「いやだから、今朝起きたら階段から滑って落ちて。」
「「ええ?」」
 周りの生徒が皆一斉に驚き、次の瞬間、皆どっと笑いだすのだった。
「だから言いたくなかったんだよ。」
 それでも周りの笑い声はまだやまない。
「いやすまんすまん、つい、な。」
 陸は圭佑の左肩をポンポンと叩いた。
「まあ怪我は怪我だ。それには変わりない。」
 圭佑は複雑そうな顔をした。
「それで、すぐに病院に?」
「いや、はじめは恥ずかしさもあって気にしないようにしてたんだけど、なんか本当に痛くなってきて、それで病院行った方がいいんじゃないか、って。」
「結局骨折、だろ。」
「うん。」
「じゃあちゃんと病院に行ってよかったじゃないか。」
「いや……痛いと思わなきゃこんな恥ずかしい思いしなくて済んだのに。」
「痛覚は大事だぞ。」
 勇樹がぼそりと呟く。
「そのおかげで今ちゃんと対処出来て、大事に至らなかったんだ。」
「おお、松野の言うとおりだ。」
 陸が大きな声で言う。
「まあ、利き手の負傷は痛いかもしれないが、こればかりは仕方ない。」
「手伝えることがあったら言ってね。」
 陽介も声をかける。
「ありがとう。」
「よし、じゃあとりあえず、ギプスにメッセージでも書くか。」
「それいいね!」
 陸の提案を聞き、勇樹はすぐにその場を離れるのであった。

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