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北斗の拳みたいな世界観の中学校でからあげを盗まれながら学んだ「生きる環境を選ぶこと」の尊さ



僕の通った中学校は「どこの北斗の拳だよ」ってくらいに、めちゃめちゃ荒れている学校でした。



ガラスが割れることは日常茶飯事、週に一回は火災報知器が鳴るし、グラウンドにバイクの集団が入ってきて追いかけっこ。



昼休みは血気盛んなヤンキーたちが一般生徒を巻き込んで「天下一武道会」なるものを開催し、勝手にトーナメントを組まされ、「今日はお前とお前ケンカしろ」と強制ファイト。



お昼休みにお弁当箱をあけると明らかに主力のおかず(から揚げやハンバーグ)があったであろう場所に何も入ってない。グルメなうちの母がひじきだけでお米を食べろと言うわけがないので、誰かが盗んでいるわけです。



そしてそれが誰なのかはだいたい想像がついている。でも基本は泣き寝入りです。北斗の拳の世界なので、下っ端を倒しても親分が出てきます。目の前の敵を倒しても、何も解決しないのです。



反旗を翻した事もあります。僕は身体が大きかったので、「君はどう考えても戦闘タイプじゃないよね」というヤンキー君を返り討ちにしたことがありました。



でも次の日、親分に後ろから殴られて、袋叩きにされました。ヒャッハーを倒すとサウザーが出てくるのです。



ちなみに、中学校版北斗の拳ではサウザーは他校のジャギやユダと繋がっています。これはリアル北斗の拳にはない世界観です。



漫画では「身内に優しいヤンキー」が描かれるけど、うちの学校はそうじゃありませんでした。悪そうなやつはだいたい友達で、隣の中学(もっと荒れてる)の不良が校門でたむろしていることもありました。怖すぎです。



14歳の僕にとっての中学生活はこれが当たり前だったので、まあなんというか、偏った青春を送っていたと今では思います。



この光景が異常だと気づいたのは、高校に進学してからでした。



偏差値60くらいの高校に一般入試で入って、いざ高校生活がはじまってびっくりしました。クラスにヤンキーが1人もいない。授業が荒れない。弁当も取られない。



校則が厳しくて男子は刈り上げか丸刈り。先生に逆らう生徒がいない。部活をマジメに頑張ってる生徒が妨害に遭わない。「あれ?ヒャッハー達はどこに行ったの??」と不思議に思いました。



むしろうちの高校は「中学はヤンチャしてたけどさすがにヤバいなと思って受験勉強頑張った」という『高校逆デビュー組』がちらほらいるくらい、ピシッとした空気だったのです。



とにかく、受験という競争を経てたどり着いた『あたらしい世界』には、「目立ちたかったらグレるんじゃなくて勉強か部活で結果を出せ」という健全な集団構造があって、「邪魔されずに努力できること」が楽しいことだと知りました。



そう考えると、教育熱心な親が「何とかして有名私立に子どもを入れたい」と思う気持ちもわかる気がします。特に思春期の子供にとって学校は『社会の全て』ですから、少しでもいい環境で切磋琢磨して育って欲しいと思うもの。



僕だって娘をあの頃のあの中学には入れたくないですもん。母校もかなり落ち着いてマトモになったと聞いていますが、住んでいる地域で通う場所が決まってしまう公立の小学校や中学校は『ガチャ』すぎる。



いくら14歳の僕が自分の人生のために『厳然な努力』をしても、理不尽な暴力で全てを潰されてしまう可能性がある。



いいことと悪いことの区別がつかない中学生の暴力は本当に怖いです。本気で殺されるかと思ったことも何度かあります。暴力する側は笑ってるんですけどね。それがまた怖い。



漫画の影響もあると思います。当時は「学年で1番ケンカが強いヤツを決めるトーナメントをする」ってヤンキー漫画が流行ってたんですよね。で、暴力を覚えた中学生はそれを真似する。悪いところだけ。



何の抵抗もしない一般生徒の頭に平気でハイキックを振り下ろすんですよ。今なら東〇リベンジャーズとかブレイ〇ングダウンとか、学校で真似してる子たちたくさんいるんじゃないですかね。



(ちなみにコンテンツとしては大好きで楽しく見てるので、作品や番組を批判したいわけじゃないです)



それが普通になっちゃう。誰も「おかしい」って言いませんでした。



人はいいも悪いも環境に左右される生き物です。



僕はその環境を生きてきたことで、抜け出す努力をした(別に抜け出すために受験したわけじゃなかったけど、結果的に)ことで、「この世界が全てではない」ことを知りました。


大人になった今、「どこで生きるか」を選べることの素晴らしさを教授しているつもりです。僕は僕が輝く場所に自分で選んでいけるから。



あの時の僕は中学生だったから「自分で環境を選ぶ」という選択肢がありませんでした。だから「抜け出したい」とも思えませんでした。大人になる事がこんなに楽しいとは、思いもしなかった。


この文章を読んでいる人はほとんどが大人でしょうから、自分の生きる場所は自分で選べるはずです。



なのにどうして苦しい思いをしながら、「自分にはここしかないから」と自分に制限をかけて、不平不満を垂れながら今日も昨日と同じ1日を送っている人がこんなに多いのでしょう。



僕は理解できません。今の仕事だって、家庭だって、環境だって、「自分で選んで」いるはずなのに。『人生は1回であなたは中学生ではない』のだから、何にでもなれるし、どこへでもいける。



個人の権利が保障されたこの国に生まれる事でさえ、70億人いる人類のうち数%の確率なのに。そこまでスーパーウルトラレアを引いといて、まだ「やらない理由」「挑戦しない理由」を並べるのは、無理があるじゃないですか。



「来世に期待」ってよくネタで言う人いるけど、もし万が一生まれ変わりがあったとしても、この時代のこの国に生まれ大人になれた以上の幸運を生まれながらに手にするのは、宝くじを100回連続で当てることより難しいのでは?と思ってしまうのです。



僕は小さなひとり起業家です。守ってくれる会社はないし、安定収入もないし、これから大きく失敗して苦労することもあるだろうと思います。



ただし、どれだけ失敗をしようと、あの中学時代以下になることはないと腹を括っているので、何も怖いものはありません。家族に見捨てられようと、破産しようと、その辺でのたれ死のうと、「自分で選んだ道ならそれが実力で本望だ」と思えるからです。



自由であること、自分の人生を自分で決められること。理不尽に遭遇しても逃げられること。活躍する場所を選べること。大人はみんな持っているはずです。「持っていない」と思うなら、それは「持っていないと思わされているだけ」なのかもしれません。



僕たちは自由です。生き方も生きる場所も選べます。選べば「選んだ先で同じものを選んだ仲間」と出会えます。選ばなければ「選ばなかった先で同じように選ばなかった人」と出逢います。



どんな環境に身を置くかが全てです。その全てを僕たちは選べます。「選べない」と思わされてるだけです。僕たちは選べます。選べるのです。



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