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『稼ぎたい人』よりも『稼ごうとしている人』が好き


僕は稼ごうとしている人が好きです。みんなお金が欲しいので「稼ぎたいなあと思っている人」はいっぱいいるけれど、本気で稼ごうとしている人は目が違います。具体的に何が違うのかというと、目と話す言葉が違います。稼ごうとしている人は覚悟の決まった目をしています。稼ぐことによって生じるリスクを受け入れています。時間や労力、お金といったコストをかけることにも前向きです。

ですから言葉も変わってきます。稼ぎたい人は「稼ぐ方法を教えてくれ」と言いますが、稼ごうとしている人は「自分の稼ぎ方に対してどう思うか」という質問をしてきます。

この温度差は人と触れるとすぐわかります。甲子園のスタンドでやーやー言ってるおじちゃんと、実際にプレーしている甲子園球児くらい熱量が違います。どちらも甲子園を楽しむという意味では正しいのですが、僕は個人的にプレイヤーが好きです。僕自身もプレイヤーだからです。

僕は個人で稼ぐことを発信していますが、僕自身も個人で稼ぐことをやり続けているプレイヤーです。自分発信で人間関係を作り続けて、自分のサービスを売って、食っている人間です。プレイヤーだからこそわかる苦悩も、実際にやっているからこそ感じられる幸福感や没頭感もずっと経験し続けています。

甲子園のマウンドに立つ緊張感は甲子園のマウンドに立ったピッチャーにしかわからないように、プレイヤーの感じている悩みや感覚はまたプレイヤーにしかわからないのです。だから「この人はまだプレイヤーじゃないな」って空気もわかります。肌感覚的に、僕に直接問い合わせてくるような熱心な読者でさえ、8割以上はまだプレイヤーじゃありません。スタンドでやーやー言ってるおっちゃんです。

それはどれだけ「稼ぎたい」と思っているかには関係なくて、実際にプレーしているかどうかでプレイヤーなのかスタンドさんなのかの見分けができます。プレイヤーは具体的な話をします。「あのときあのバッターにインコース低めを投げたのは、そのバッターが前回の打席でインコースを見送ったからだったが、見事に狙い撃ちされて打たれてしまった。自分の判断はどこが間違っていると思うか?」と聞いてきます。スタンドのおっちゃんは「勝てる配球を教えてよ」とだけ言います。

この差がわかりますか?実際に行動している人間なら「勝てる配球」なんてものが存在しないことを知っているので、そんなこと言いません。でもスタンドのおっちゃんはマウンドに立っていないので、勝つとか負けるとか、球のスピードが速いとか遅いとか、あそこの監督がいいとか悪いとか、視点が遠すぎるのです。

だからこそプレイヤーが気づかないことにも気づくことがあるのかもしれませんが、おっちゃんはプレーしていないので、机上の空論を脱しません。プレーしないとわからないことがある、ということをおっちゃんは知らないので、おっちゃんはスタンドで選手のことを知った気になっています。本当のことはプレーしないとわからないのに。

プレイヤーとしては気分の良いものではありませんが、知った気になったおっちゃんがいないと興行がなりたたないので、まあ仕方ないかなと思っているのかもしれません。プレイヤーとはおっちゃんにやーやー言われることも仕事のうちなのです。

話を戻します。起業したい人の中にも、実際のプレイヤーとスタンドのおっちゃんの感じの人がいます。ぎくっとした人はたぶん、おっちゃん側の人です。具体的に何をやってますか、と聞かれて「何もやってねえな…」と思うなら、あなたはおっちゃんです。「ブログを書いて…本を読んでる??」くらいの人は、スタンドとグラウンドの間の『関係者用通路』を歩いている感じです。

マウンドに出るというのは、実際にお金をもらってお客さんと相対しているかという基準で判断してもいいでしょう。スタンドで腕を組んでいる人、マウンドに立つために関係者通路を歩いている人、実際にマウンドに立って試合をしている人。それぞれに使う言葉が違うなあ、と思った今日この頃であります。

マウンドに立てよってことじゃないです。観客席におっちゃんがいないと試合は成り立たないので。でも、プレイヤーやりたいのにいつまでもそっちにいていいの…?とは思いますけどね。投げたいならブルペンまで降りてきて肩作っておいで、ってね。野球と違って個人起業にベンチ入りメンバーの発表はありませんから。自分の出たい試合に出れる。ここがおいしいところ。


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