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娘の息が止まりかけて、生きている奇跡を痛感した話


今日、とても肝が冷えるできごとがありました。生後5ヶ月の娘が授乳が終わって縦抱きした瞬間にむせはじめて。声にならないような声をあげて、身体をぐいーんと反って、顔を真っ赤にして苦しみ始めたんです。母乳が気管に入ってしまったみたいでした。


奥さんがすぐに適切な対処をしてくれたおかげで大事には至らなかったんですが、その姿を見た瞬間に一昨年心臓発作で死んでしまったうちの猫ちゃんの姿がフラッシュバックして、とっても怖くなりました。帰ってきてくれて本当によかった。


呼吸が元に戻って泣きはじめた娘の声がとても尊く感じました。ホッとして涙が出ました。5ヶ月前にはじめてこの声を聞いた時も涙が出たはずだったのに、いつの間にか当たり前になってたんだなあと感じました。


赤ちゃんを育ててみて、命を育てるというのは本当に気が抜けないことなんだと痛感しています。四六時中している抱っこも、手が滑ってしまったらもうアウト。こけてしまったら。寝ている間に吐いて窒息してしまったら。動き回るようになって変なものを食べてしまったら。親ごと交通事故に巻き込まれる可能性だってあります。


生きていること自体が奇跡で、毎日奇跡を積み重ねて命が続いている。これは赤ちゃんに限った話ではなくて、僕たち大人もそうなのかもしれない。誰ひとり例外なく赤ちゃんだったわけだし、記憶になくても1度や2度は死にそうになったこともあるかもしれない。そこでたまたま『戻って』これただけで、そこで命が終わったしまう可能性も0ではなかった。


そう考えると、僕たちはもっと「今日を生きているということ」に感謝してもいいのかもしれません。何も成し遂げられなかったと感じている今日も、膨大な数の奇跡の上に成り立っている今日なのではないでしょうか。


頑張ったとか頑張ってないとか、目標を達成したとかしてないとか、思い通りにいったとかいってないとか。そんなことって本当に些細なことでしかなくて、今日を迎えられなかった自分がいたかもしれない可能性について、考えてみてもいいと思うんです。


一昨年死んだ僕の猫ちゃんは、何の前触れもなく急に発作を起こして、戻ってきませんでした。奥さんが必死に蘇生活動をしてくれている中で、僕は死についてリアリティが持てず、「え?まさか死んだりしないでしょ?」とあたふたしている間に息を引き取りました。食べかけのカレーが冷めるよりもはやく。一瞬のできごとでした。


生きている限り死はすぐ近くにあります。一線を越えたら、どんなに身体を鍛えていようとお金を持っていようと、戻って来れなくなってしまう。生きている限り僕たちの致死率は100%です。いずれ必ず死ぬ。その日が遅いか早いかだけの差でしかありません。


奥さんとか娘が急にいなくなってしまったら、僕はどうなってしまうんだろう。考えたくないけれど、その可能性は存在する。いくら気をつけていても病気になる時はなるし、事故にあうこともあります。戦争やテロに巻き込まれてしまう確率だって0じゃない。


そんな可能性がたくさんある中で今日も大切な存在と1日を迎えられる事は、とても尊いことだと思うのです。今日、死ぬ可能性があった。だけど死ななかった。それってすごい事じゃないですか。


僕は昨日誕生日で29歳になったんですけど、調べてみたところ今日(2022年3月13日)は生まれて10593日目らしくて。10592回死ぬ可能性があった今日を生き抜いた。そしてあと1時間と少しで10593回目の死ぬ可能性を越えるわけです。


だから何が言いたいかって、もう生きてるだけですごいですよ。僕たちはとんでもないことを成し遂げている。それを毎日毎日積み重ねている。それだけでもすごいのに、星の数ほどあるブログの中からぼくの書いた文章を読んでくれてるわけじゃないですか。もうどんだけ奇跡起こせば気が済むんだよって感じ。これ以上なにかを求めるのって欲張りすぎな気がしてきませんか?


ということで今日は自分が起こし続けている奇跡を実感した話でした。今日を無事終えられたことを喜ぼうよ。人の文章が読めるだけの余裕があって、明日を迎えられる身体があって、明日も会いたいと思える大事な人がいるのなら、それはもう十分すぎるほど幸せなことなんじゃないかな。奇跡を感じながらかわり映えのない日々も楽しんでいこうね。では!




文中に出てきたねこちゃんのことを書いた記事を置いておきます






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