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可視による不可視の表現:『透明人間』

 映画狂御用達のホラー映画監督、ジョン・カーペンターのレトロスペクティブが現在、全国的に開催されている。1月7日にこのレトロスペクティブは封切られ、順次全国を巡回している。土地によってはもうすでにこのレトロスペクティブ上映が終わっているところもあるのかもしれないが、まだ始まってすらいない地域もあるだろう。ちなみに、レトロスペクティブというのは、あるテーマ(今回のように映画監督がテーマになることが多い)に基づいた映画の回顧上映のことである。

 僕はこのジョン・カーペンターのレトロ・スペクティブを訪れていない。なぜなら、今回のレトロスペクティブで上映される3作品『ゼイリブ』『ザ・フォッグ』『ニューヨーク1997』はU-Nextという動画配信サービスで配信されているからだ。
 映画を観るにあたっての、その映画体験の濃度や没入感や映画産業への貢献という観点から考えると、もちろん、映画は映画館で観るべきだ。自宅で映画を観ていても、スマホを見てみたり、ギターを持ってみたりして、映画館で観るよりはその映画体験の質は劣る。ミニシアターで自分の好きな映画を観るということは、その映画館を経済的に応援するということでもある。
 だからと言って、お金は無限にあるわけではない。観たい映画全てを映画館で観ていては、大学生の僕の限られたお小遣いはいくらあっても足りない。1年間に約400本の映画を観るとして、(もちろん、配信にはあるけれど、映画館では上映されない映画もあるが)1年間で400,000円を使うことになる。いかに安く多くの映画を観るかというのは、学生映画狂人間にとって重要な死活問題であるのだ。日本を代表する映画批評家、山田宏一も子供の頃はトイレなどから映画館に忍び込み、ただで映画を観ていたらしい。

 ということで、僕は自宅でジョン・カーペンターのレトロスペクティブを開催したのだ。『ゼイリブ』『ザ・フォッグ』に加えて、『透明人間』という映画の3本を1日に鑑賞した。この中で『透明人間』がいちばんグッと来て、衝撃を受けた映画であった。
 この映画は、大雑把に言うと、ひょんなことから透明人間になってしまった主人公が、幾多の困難を乗り越え、最後は愛する女性と一緒になってハッピーエンドを迎える物語だ。こんな大衆娯楽映画的な起承転結の鮮やかな物語の中に、芸術的で素晴らしい映像表現が詰まっていたのである。

 主人公の透明人間は、周りの人間には見えない。当然、観客である僕らにも見えてはいけない。かと言って、なんらかの方法によって主人公が画面の中にいることを示さねば、映画として成り立たない。ならば、可視で不可視を表現しようというのが、ジョン・カーペンターの思惑である。つまり、見えるものを使って見えないものを映す。
   例えばそれは、透明人間が身に纏っている衣服や手に持ったモノが宙に浮かぶ様子であったり、体内に吸い込んだたばこの煙が肺の輪郭を形作ったりする。化粧をすることで顔が視覚的に認識できるようになり、レストランでの食事中に口を拭くと化粧が崩れてグロテスクな表情になるという小ボケも用意されている。愛する女性と一緒にいる時に雨が降ると、主人公の身体の輪郭に沿って水滴が浮遊する。この瞬間はお互いがお互いを視覚的に認識できる瞬間であり、この映画いちばんのメロドラマ的展開を迎える。
   主人公が見えないからこその、見える/見えない、可視化/不可視化の表現の方法が、ジョン・カーペンターの視覚的イメージのセンスを浮き彫りにする。

 物語の展開、映像の表現方法共に興味深く素晴らしい本作、普段映画をみない人でも、映画に狂っている人でも楽しめる一作である。どうぞご覧あれ。

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