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金沢出身、京都経由の神奈川在住が考える「地域アイデンティティ」

まず一つ、注意書きとして申し添えておかなければならないのは、筆者の専門分野が国際関係論であり、安全保障論であることで、要すれば「別に地域や地元に関する文化人類学的な素養は全くない」ということである。

さて本題に入ろう。
私は地元が好きだ。地元、金沢が大好きだ。
金沢の町が、人が、食事が、風景が、空気が好きだ。
出身外の方に「いいですよね、金沢!」とか言われようものなら、それがお世辞だろうとなんだろうと「ですよね!!!!!!!」と肩をバシバシ叩きかねない。
そんな金沢人だが、大学時代の4年間は京都で過ごした。
京都もいい地域だった。私は京都も好きだ。私に第2の故郷というものを考えるとすれば、それはまごうことなく京都なのだ。第2のアイデンティティを確立した地ともいえる。
文化的にも金沢と近い。公家文化と武家文化という違いはあるが、出汁の取り方や方言のイントネーションなど、金沢もまた「関西系の文化」を持つ地域なのだと思った。
おやつに八つ橋は食べない。カップルは鴨川等間隔。不法駐輪はしない(京都は回収・罰則が厳格なのだ。貴重な市の財源。)。春と秋はバスに乗らない。堀川通の市バスはF1より速い。叩きこまれた4年間だった。

現在は事情があり神奈川に住んでいる。先日の横浜開港祭をはじめ、いたるところで「横浜(ないし横浜人)アイデンティティ」というものを強く感じているところだ。
横浜も好きだ(自らのアイデンティティを求めるほどではないが)。

はて、私はなぜ横浜が好きなのか。別に住んでいるのは横浜市ではないのに。少し考えてみた。
まず、広い港町が好きだ。金沢も港の町だった。海が多い県だった。でもそれ以上に親近感があったのは、おそらく「東京が間近にあるのに地元民のアイデンティティが確立されている」という状況が、大阪を近くにもつ京都人の感覚に似ているところを感じたのかもしれない。
結局きっと自分は「地域アイデンティティの確立が見える地域」が好きなのかもしれない。なるほど、金沢、京都、横浜。3つの都市は共にその地域独特の文化を持ち、独自の魅力を持つ。関西・京都が好きなのも、もとの文化圏の近さに加えて、そこにある強烈な「地元感」もあったのだろう。

そう考えるとさらに面白いのは、「下宿暮らしの大学生(即ち地元が京都ではない大学生)」があんなに多い地域なのに「京都」がしっかり「京都」として認識されている(→地域住民の地域観が確立されている?)ことである。多くの移民を受け入れてなお京都なのか、それとも「多くの移民を受け入れてこそ」の今の京都なのか。いや、その両方なのだろう。元来より京都に住み続ける方々の「京都人としてのアイデンティティ」が、独特の若気を持つ大学生が多く集まり交わることで「京都アイデンティティ」を地域を包括して形成されてゆく。「大学生の町」というのは、単に大学が多いだけではないのかもしれない。つくづく不思議な都である。

ここで視点を横浜に戻そう。現代横浜市民のアイデンティティを見てみるとそれは大半が港町であることに立脚しており、要すれば幕末~明治維新期に確立されたもののようだが、ということはifの世界線で横浜が開港されていなければアイデンティティの確率はここまで強固ではなかったのか?
そこに問いを立てるのは酷であり無茶な話なのだろう。京都だって1300年前に都が置かれなければ、金沢だって「加賀100万石」の素地がなければ、今ほどのアイデンティティはあるまい。結局のところ、「その地域を一言で語れる「地域アイデンティティ」の有無とその大小が、そこに住む人に「地域人としてのアイデンティティ」と地元愛を与えるのだろう。

話題が散らばってしまった。要するに何かこの論考に結論を与えるとすれば、それは「わたしゃ地元が好きだよ」ということなのだ。ここに中身があるかどうか、それを考えるのは読者の皆様に一任することにする。さて、本業の論文の執筆に戻ろう。

最後に、冒頭でも述べたが、本記事に記載される全ての文言は私の体験であり所感であるため、学問的知見に立脚して理論づけられたものでは全くない。当然、内容が類似する学術論文などの有無も知らない。(むしろ有ればこの内容を専門とする方と意見を一致することになるので光栄である)

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