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「経験」か「学歴」か。両方かゼロか。

中学生の従兄弟と一緒にゲームをしていた時に放たれた、何気ない一言が自分には案外深く刺さった。「無名の高校」という一言だった。なんのことはない、私の出身校についてだ。

受験界隈では「僻地健闘枠」ともされるような、一応SSHに選ばれ理数科を設置するような高校ではあるのだが、筆者が育ったような田舎ではこれが限界、というような高校だったのだが。しかし、年に10人も20人も東大京大医学部に突っ込むような高校ではないため、自分も「無名」であることは理解しているつもりだった。

そういえば、大学受験が終わり、進学先が決まった時期に同期からも同じようなことを言われた。「へぇ。偏差値50の大学ってあるんだ。」そんな彼は県内トップの超進学校から医学部に進学していった。ぼくはその後の大学在学中も幾度となく同期から、先輩から、そして周囲の大人たちから「そんな、○○大なんかダメじゃん」と言われ続けてきた。ありがたい「ご忠告」をくださった人々の薄ら笑ったような、あるいは心底心配するような顔は忘れられない。

そんな8月終盤、twitterを賑わせていたのが「学歴重視より経験重視を」というとある起業家のお嬢様の発言だ。聞けば、小学校から留学を繰り返し、広い世界をよく見てこられた御仁のようである。その後は某「私学の雄」に進学しているらしい。田舎の公立小中学校を経て同じく田舎の高校に進学し、そのまま受験戦争に敗れ偏差値50の小さな私大に進学した筆者とは雲泥の差がある「高嶺の花」な世界に生きる方のようだ。

「履歴書に書ける経験」は往々にして、コネとお金で買うものだ。今の大学院で周囲を見たときに心底痛感する。長期留学に行く。その資金は。ボランティアに行く。その資金は。たくさん旅行に行く。その資金は。親は。間違っても毒親家庭で育ったらこんな体験はできない。田舎でも難しい。現に、先程出た「県内トップの進学校」は、当時の筆者の家からは片道2時間を優に超える距離があった。これでは通えない。そして「履歴書に書ける」という修辞がここでは大切であることは言うまでもない。言論の中に「留学経験がないならいじめられた経験でも書けばいい」というありがたいヒントがあった。暴論である。そもそも履歴書の経験欄に(それも採用の可否を判定する比重が今より高くなった世界で)「いじめられた」と書く人間と「長期留学」だの「帰国子女」だのが並び、その経験で決まるのだ。百歩譲っていじめられた経験を書いたとしても、並んだ時点でスケールが違いすぎるのだ。

反対に、大学院に進学した友達には「働かない毒親の元で必死に勉強して国立大に進み、奨学金で大学院に通う」という人間がいるのもまた確かだ。彼らはそういった「履歴書に書ける≒金がかかる経験」こそ少なかれど、彼らの持つ頭脳を精一杯に活かし、社会に還元することを望んでいる。

非常に単純な話となり、そのため短くなったが、述べたいことは述べられただろう。要すれば、「経験を金で買ったから就活にも勝った➡高給取りになって子供も経験を金で買った」上流社会と「経験を金で買えなかったから就活でも勝てなかった➡薄給の中で子供の経験も乏しくなった」下流社会で完全に分断される。そしてその中では、「上流階級の子供たちが何らかの理由で都落ちする」ことはあっても、その逆はあり得なくなる。結果、上流下流に分断された社会はさらにピラミッド化が進み、社会分断は政情不安を生み、現代版アンシャンレジーム(言語的には超絶矛盾している)が生まれることは言うまでもない。

この際この格差の発生の倫理的是非は議論の対象としないが、「自分ではどうしようもないことで自分の運命が定められ、取り返すことができない」という現象を、世の中のどれほどの人間が受け入れられるだろうか。そこのところを、お嬢様達にはもう少しリアリティをもって想像していただきたい。土台無理な話であることは百も承知の上なのだが、少なくとも「社会の流れがそのように決定される」ことは無いことを望むばかりだ。

ここまでの文を読んで理解されたであろう、題名の通り「ゼロ」の人間から、せめて一方を持つ「強き人」を想い述べた文章だった。

追伸
「いじめられた経験」はその程度によって壮絶なものであり、思い出したくないほどのトラウマ、PTSDを抱える人や、それによって人生を破壊された人も大勢いる。簡単に「思い出させる」ことすら残酷なことであるのは言うまでもない。
また、言うまでもないがこの日本において学歴とは「学部」で決まる。どこの大学院を修了していようが、「学部の大学」で決まる。大学院について諸外国以上に理解がないばかりか、「学歴ロンダ」なる最低極まりない言葉が広く認知された社会だからだ。そして「学部の大学」を決めるのは「高校」である。そこのところを理解したうえで人の高校を「無名の高校」と貶してほしいし、そういうからには少しでも頑張って世の中学生諸君らには高校受験に励んでもらいたいものだ。日比谷でも洛南でも筑駒でも明大中野でも慶應志木でも清風南海でも北野でもラサールでも横浜翠嵐でも渋谷幕張でも堀川でも鶴丸でも嵯峨野でも膳所でも何でもいいから、持たざる者ほど精一杯勉強してほしい。

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