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自称カサンドラ症候群の増加から見える発達障害ブームの弊害
最近「カサンドラ症候群」という言葉をよく目にするようになった。
ウィキペディアによる定義は以下の通りだ。
アスペルガー症候群を持つ配偶者、あるいはパートナーと情緒的な相互関係が築けないために配偶者やパートナーに生じる、身体的・精神的症状を表す
(中略)
症状としては偏頭痛、体重の増加または減少、自己評価の低下、パニック障害、抑うつ、無気力などがある。
カサンドラ症候群とは正式な医学名ではなく、海外では差別を増長する言葉として問題視する声も多い。
実際SNSでの使用文脈を見てみると、家庭内で生じた問題の原因を発達障害者(とされる人)に押しつける手段として使われているケースがほとんどだ。
つまり責任転嫁を正当化できる便利な言葉として使用されているのである。
増え続ける自称カサンドラ症候群
夫婦や家族の不和など誰にでも起こり得る話だ。
身内に発達障害者がいる人に特有の話ではない。
そして一部の例外を除けば、たいていお互いが被害者であると同時に加害者でもある。
ところがカサンドラ症候群という魔法の言葉を使えば、相手は一方的な加害者となり、自分は罪なき被害者となれるのだ。
SNSを見ていると、被害者とされる側(自称カサンドラ症候群)に強い攻撃性や他責性が見られることは少なくない。
彼らはあらゆる不和の原因を相手の"発達障害的な特性"のうちに見出す。
自らに非がある可能性はつゆ疑わないのだ。
ひどい場合には憶測で相手を発達障害と決めつけているケースすらある。
最近では夫を勝手に発達障害だと決めつけてコンテンツ化し、夫に対する不満を飯の種にする人間まで出てきた。
診断で他者からの理解は本当に得られるのか?
発達障害を診断する目的に「他者からの理解」はよく挙げられる。
だが現実に目の当たりにするのは理解よりも偏見であることのほうが多い。
たとえば少し前にYahooニュースで、とある芸能人が発達障害を公表したことが話題になった。
そのコメント欄で支持を集めていたのが以下のような主張だ。
うちの会社にもおそらく発達障害と思われる人物がいますが、自分勝手な振る舞いに周りは迷惑しています。
本人は診断によって楽になったかもしれないけど、本当に大変なのは周りのフォローする人たちなんですよ。
こうしたコメントやその共感者の多さを見る限り、少なからぬ者が発達障害に対しネガティブな印象を持っているように思える。
しかもその多くは憶測や誤った情報によって作られた偏見である。
おそらくDSM(正式な診断基準)に目を通した者は1割にも満たないだろう。
彼らは発達障害者をひとりの人間としてではなく、自分たちとはまったく別の、そして均一的な生き物として見ているのだ。
以下は発達障害を公表した元アナウンサー小島慶子氏の発言だが、世間一般の発達障害に対する捉え方がよく現れている。
そうしたら、82歳の母が手に発達障害の本を持ってて、なんだか勉強してるらしいのよ。それで、私としゃべるたびに「あ、これね。この過剰さってこれでしょ?」って。
(中略)
またしばらく経ったら、「あ、待って待って。ほらほら書いてある。反抗。やっぱりそれね」とか言うの。めっちゃ腹が立って。母にとったら、私は小島慶子という人間じゃなくて、自分の娘でもなくて、発達障害って妖怪になっちゃってるわけですよ。
(中略)
そうすると、私の一挙手一投足すべてが、「やっぱりね。ADHDだからか」みたいになるんです。
このエピソードに登場するのは理解ではなく偏見である。
だがこうした反応は彼女の母親に限った話ではないだろう。
一部の要素だけを見て、すぐさまそれを全体に適用してしまう人間は決して珍しくない。
身近にいる発達障害者やどこかで見聞きした発達障害者の特徴を、あらゆる発達障害者に当てはまる共通項であるかのように勘違いしてしまう。
著述家ウォルター・リップマンの言葉を借りれば、彼らは個々の人間ではなく自分の「頭の中にある写真」を見ているのだ。
思考を停止させるハンマー
英語には
「If all you have is a hammer, Everything looks like a nail」
ということわざがある。
日本語に訳せば
「ハンマーしか持っていなければ、あらゆるものが釘のように見える」
といったところだ。
ひとつの手段に頼りすぎると、偏った物の見方しかできない。
ある人物について発達障害という病名からすべてを説明しようとすると、その人に固有の人間性が見えなくなる。
あらゆる現象や問題を「発達障害だから」の一言で解決してしまう。
これは発達障害に限らずほとんどの精神疾患に言える話だろう。
「分かる」とは「分かつ」ことでもある。
分かつとは、別々にする、切り離す、という意味だ。
発達障害という言葉を「分かった」ことで、発達障害者とそれ以外の人間を別々に切り離して考えるようになる。
分かる前と同じようには見えなくなる。
このような人間のあり方を小林秀雄は巧く表現した。
言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心のなかでお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。
カサンドラ症候群という言葉の根底にあるもの
身内の発達障害者に苦しめられている人間がいないとは言わない。
だが同じような悩みや不満は、彼らが言うところの「健常者」同士でも当たり前のように生じる。
そこにわざわざ発達障害という概念を持ち出す必要性がないのだ。
たとえばあなたがフランス人のAという人物に傷つけられたとする。
この場合、A個人を批判すれば済む話であり、「フランス人は~」という形で特定の人種をひとくくりにして攻撃するのは差別主義者のやることだ。
同様に、夫への不満があるのなら夫個人を批判すればいい。
「発達障害の夫は~」という形で、個々に生じた問題を特定の属性に帰属させるのは差別以外の何物でもない。
以上のように、カサンドラ症候群という言葉は発達障害に対する偏った見方を拡散し、差別感情を増幅させる危険なものである。
この言葉の根底にあるのは肥大した被害者意識や差別精神であり、その本質は人種差別やジェンダー差別とそう変わらない。
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