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あの日の約束

いつも夢のなかで誰かに呼ばれている気がする。

誰がわたしを呼んでいるのか、目の前には靄がかかっていてよく見えない。
その声がする方へ行こうとするけれど、
上手く身体が動かない。

「…起きて!…ちゃん起きて!」
その呼び声でようやく目が覚めた。

「どうしたの?随分とうなされていたようだけど…」
目が覚めたとき隣にいたのは、わたしの弟だった。
「ありがと…」きっとわたしが唸っているのを心配して隣の部屋から駆け付けてくれたのだと思った。

よく見ると手汗をびっしょりかいていて、鼓動がバクバクと脈打っていた。時計の針は4時を指している。あと1時間しか眠れない。
そう思うとどこか憂鬱な気持ちになった。
弟にお礼をいったあと、ふたたび布団をかぶり今更眠れもしないのでカチカチと時計の音を聴きながら物思いに耽った。

わたしは産まれたときから龍神として、この森を守っていかなければならないと親に教えられてきた。
代々それは受け継がれているものだから大切にしなければならないとも言われていた。

なぜ、我が家はそんなことをしなければいけないのか…
親に聞いても、「それはうちの家系の定めだ」としか教えてもらえなかった。

理由もなくのしかかる重圧は、
当時まだ幼かったわたしにとってはあまりにも辛いものだった。

そしてわたしが10歳になる頃には、親から厳しい鍛錬を受けなければいけなかった。
毎朝5時には起きて精神統一を約1時間したあと、空へと登って大気を治める練習をしなければいけなかった。

しかしどちらかと言うと生まれつき身体の弱かったわたしは、何度やっても体力が持たず空に登るのがやっとだった。

そして「なぜ、上手く出来ないのか」
きつく叱責されるたび、
どうして他の子がしないような辛いことを、
自分だけがこうやって毎日しなければならないのか納得が出来ず苦しかった。

普段は人間として暮らしているから余計にそう思うのかもしれない。
親からは何度も叱られ、こんなことじゃこの森と水は守れないと言われた。

歳の離れた弟にはその責務はまだ重く、わたしも出来るようにならなければいけないと言われた。わたしが14歳になった頃、遂にこの鍛錬が嫌になって練習を抜け出しサボったことがあった。

その日もシトシトと雨の降る日だった。
気づけばわたしは家の傘を持って、最近あたらしく出来たばかりの喫茶店の前に立っていた。

店内では珈琲を立てているのか、わたしが立っている外までいい香りがした。何だか懐かしい、そして心がほぐれるような匂いだった。

どのくらいその前に立っていたのかはわからない。キイ…という扉が開く音がして、中から短い顎髭を生やした中年の男の人が現れた。

その人は厳格なわたしのお父さんとも違う
落ち着いた雰囲気の人で、とても優しい目をしていた。

思わず、「わたし、上手くお母さんのいうこと聞けへんの…。何度やっても上手くいかへん」
とその人に言ってしまった。

誰かに心のうちを聞いてほしいと思っていた。

暫く男の人はわたしを見つめていたけれど

「お母さんと喧嘩したのかな?
良かったらあったかい紅茶でも飲んで行くかい?」と喫茶店のなかに招き入れてくれた。

中からはホワッと温かな空気が流れ込んできた。
熱いお湯を沸かしてケトルで紅茶をいれてくれた。何という紅茶かは分からなかったけれど、心の底から温まる美味しい紅茶だった。

紅茶を飲んでいる間その人は優しく色々なことを語りかけてくれた。

都会から奥さんと子どもを連れて、最近越してきたこと。このけぶるような緑や自然が大好きだってこと。

そして皆んながいつでも気軽に来れるような喫茶店を作りたいこと。
そしてその人はわたしの雨で濡れてしまった髪の毛をタオルで軽くたたきながら

「大丈夫だよ、誰しも総て上手く行くことなんてない。そういう時はね、深呼吸して自分の気持ちを整えるんだ。
そして願ってごらん。絶対上手くいくって」と言ってくれた。

嬉しかった。
今までそうやって、わたしの心に寄り添って話しを聞いてくれる人は居なかったから。
その人と別れた頃にはすっかりと雨は上がっていた。
そのときのわたしは、
もうすっかり生まれ変わってしまったように見える景色は変わっていて
この人のためにわたしは森や自然を守ろうと思った。

そして「よーし、やるぞー!」と晴れた空の下勢いよく飛び出していった。

それから十数年の月日が過ぎ、
わたしはすっかり大人になってしまった。
あの頃の泣きべそをかきながら何度も失敗していたわたしはもういない。

あの日決めた約束
「上手く森を護れるようになったら、あの人に逢いに行く」
その約束をもしかしたら、あの人は覚えていないかもしれないけれど
だけど、ありがとうの気持ちを伝えたい。

わたしは雨の降るなか、ドアを押しカランコロンと鳴る店内へと入っていった。

あの懐かしい温かい紅茶をもう一度飲むために…



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