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【書籍レビュー:歴史系】『陰謀の日本中世史』著:呉座勇一

 口癖は「ほう、炭酸抜きコーラですか、たいしたものですね……」(眼鏡クイッ)な筆者による書籍レビュー(眼鏡掛けてないけど)、第1回。 物欲レビューは大体ふざけていますが書籍レビューは割とマジメにやりますのであしからず。

 今回レビューするのは呉座勇一著、『陰謀の日本史』。
「いや、コレやーばいでしょ、この本。もうね『令和の預言書』と言っても過言ではないの。もう完っっ全に来ちゃってる、パンドラの箱は空いちゃってるの。この本読んでるか読んでないかで、既に人間の選別は始まっているの、わかる?」
(上述の「マジメにやる」とはなんだったのか?)

……マジメにレビューすると、本書は日本中世史学者である著者が平安~江戸時代におけるいくつかの事変・政変にスポットを当て、巷に囁かれる陰謀論(「実は○○が黒幕だった!」的なアレ)との関連性やその真偽について学者の立場から論じています。また同時に、陰謀論そのものを頭ごなしに否定するのではなく歴史学上からみても時の為政者によって図られたとみられる陰謀について述べてもいます。自説に拘泥したりトンデモ論に走ることなく常識や一般論に照らし合わせてバランスよく論じられていると思います。
 最後の章では現代の視点に戻って、(専門家以外の)市井の人々がなぜ巷にはびこる陰謀論に心惹かれてしまうのか、その特徴や構造や危険性について、そしてまた専門家であるはずの学者や学会はなぜそういった状況を放置しておくのか、その辺の事情や構造、功罪について述べています。

 本書を読んでいて思ったのは、著者は様々な『立場』を意識しながら著述しているという点でした。
 歴史というのは勝者が作り出し、紡ぎ出すものだ、とはよく言われます。確かに我々が一般的に知っている歴史というのは『勝者が作った歴史』なのかもしれません。ですが、敗者がいるからこそ勝者が存在するわけで、勝ちとか負けとか正しいとか正しくないとかといった単純な二元論ではなく、過去から今この瞬間にまで繋がる歴史というものを立場を変え、視点を変えて見ることにより、新たな景色や違った事情も炙り出されてきて、我々が今まで積み重ねてきた歴史というものがより味わい深いものになってくる事が重要なんじゃないかと思います。
 折しも多様性が叫ばれる現代、過去の歴史だけではなく今のこの状況も様々な角度から見ることの必要性にも繋がっているようにも感じました。

 歴史ということで戦争や平和といった点について言及すると、日本が積極的な意味で関与した最後の戦争が太平洋戦争であり、それが敗戦という結果で終わったり国民としてもトラウマやアレルギーっぽくなっている部分もあるので日本では戦争や平和について議論する時、負けた側、仕掛けられた側、被害者的(もしくは加害者からの自虐的)なアプローチからの論調が多いように思います(日露戦争について語る時はあまりそうでもない気がする不思議)。ならばその逆、こうやったら勝てたとかこういう落としどころで決着できれば、日本発信でこうこうこういう世界秩序が生まれたかもしれないとか、勝った側、仕掛ける側からのアプローチの論調を加えて議論するのも一種の思考実験として意味があるように思いますし、いろんな意見があって喧々囂々しつつ、前に進んでいくのが民主主義のあるべき形だとは思いますが、やはり読む人によってはかなりセンシティブな内容にもなるとは思うのでいつか有料記事で触れてみたいと思います。

 そもそも陰謀って秘密裏にこそこそやるもんなわけですから、「アレってひょっとして陰謀だったんじゃ……」なんて後に噂されてる時点で陰謀としては30点なわけです。100点満点の陰謀ならそもそも公にもならず噂にすらならないんでしょうね。
 陰謀からちょっと話はずれますが筆者は日本におけるSAT(特殊急襲部隊)のエピソードを思い出しました。

特殊急襲部隊(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E6%80%A5%E8%A5%B2%E9%83%A8%E9%9A%8A

 TVドラマや映画等の題材にもされますが、いわゆる警察機動隊ではなく特殊急襲部隊いわゆるSATは日本でも1977年頃、昭和の時代から創設(創設当時は警視庁特殊部隊=SAPと呼称)されていて、組織の性質上存在自体を極秘事項とされていました。創設後SAPが出動するような事件がしばらく起きなかったという事情もありますが、SAPは1995年に起きた函館ハイジャック事件を制圧した際に初めて公に存在を知られるようになり、翌年の1996年に警察庁が改めてSATとして存在を公表した、というエピソードを思い出しました。
 (年齢バレそうだけど)筆者も函館のハイジャック事件をTVで見た記憶がありますが、大昔ならいざ知らず既にTVのみならず携帯電話すら一般的に普及し始めた時代にかけての約18年もの間、秘密部隊として存在し続けられた事になんとも厨二心をくすぐられたのを覚えています。
 さらに脱線ついでに言うと、忍者っていうのも主な仕事はスパイや諜報員なわけですから、その存在が知られたり目立ったりしては存在意義がなくなるわけです(映画とかでよくある敵国のシンジケート相手にドンパチやるのがスパイかって言われるとそれはちょっと違うかなぁ、と思いつつ)。
 忍者はそれを逆手にとって、ステレオタイプな頭巾姿のアレをパブリックイメージとして世の中に植え付ける事により、普段のリアルな姿をぼかして自らを忍びやすくさせるというイメージ戦略を取ったのかも、と筆者は妄想したりします。もっとも、あの黒ずくめの頭巾姿がイメージとして広まったのは江戸時代以降の創作物の影響によるとのことですが……
 そのせいもあってなのか知名度の割に忍者に関しての学術的な研究って今まであまりされていないような気もしますし、そういう意味では彼らは現代まで本当の意味で忍びきったともいえる、歴史に息づく一種の陰謀めいたロマンを感じずにはいられないのです。

 話は戻りますが、著者によると学者(少なくとも日本史では)というのは仮に陰謀だの何だのあったとしても、真の首謀者とかそういうモノには興味も無いし、もっと言うと研究対象にしてもあまり意味が無いそうです。現代に生きている学者にしてみれば過去に『(何か)起こった』のは事実として判っているわけですから『実は今まで知られていない首謀者だったり黒幕の存在』なんかよりも、研究対象となりうるのは『起こったその後のことやその陰謀が以降の歴史に及ぼした影響』なのだそうです。
 なるほど以前の投稿でも触れましたがいわゆる科学者が心霊を研究対象として扱わない理由も判ったような気がします。カタツムリの通った後じゃないですけど幽霊が現れたとして当事者の記憶というフワッとしたもの以外、後に何も残さないから研究対象にならないんですよね。幽霊も現れた後に何か物質的なものを残していったりしてくれれば学術的に解明しようとする人も出てくるんでしょうけどね。

 日本史の登場人物って親兄弟の名前が漢字一文字違いだったりでそこそこ日本史に詳しい人でも油断すると頭の中がこんがらがってミスリードしてしまいそうになりますが、そこさえクリアして読み進めると非常に興味深く読み進められます。
 ま、こうやって筆者が本書をレビューしているのも、とある『組織』からの陰謀が絡んでいるんですけど、その時が来れば触れていきたいと思います(笑)
 信じるか信じないかは読者次第、それではまた次回。



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