#004 / 大阪在住時代 001 - Living in OSAKA -

バブル崩壊直前の1989年、社会人として一歩を踏み出した。

当時はまだギリギリバブルの恩恵を受けていた日本経済。そんなバブル景気を体験出来たのはある意味幸いであったのかも知れない。
学生という身分でアメリカツアーに参加し「飲んで」就職をしたような物であったが、テレビ業界に足を踏み入れた自分。これまでやってきたコンピューターとは180°方向が変わった。
業界に入るにあたり、自分の中で一つ目標というか目指す所があった。それは「ディレクター」になりたいという物であった。特に「CM」という、あのわずかな短い時間の中で物事を表現する事に魅力を感じていたため、目指すは「CMディレクター」であった。

ただ、最初に就職したのが、局付けの照明会社であったため、その時点でディレクターへの道とは方向が異なっていた。

仕事は体力勝負だったためきつかった。しかし、刺激的でとても楽しかった。バブルを背景に給料も決して悪くは無かった。

京都から大阪に住居を移し、自分の給料で家賃を払い、親からの独立も果たせた。

そして、大阪に引っ越しをしてから、仕事の合間を見て週末に「クラブ」へ出入りをするようになりはじめていた。

照明会社に就職をして1年。色々な事を経験し、学ばせてもらったのだが、自分のやりたかった「ディレクター」とは方向が違うことにストレスを感じ始め、1年勤めた後に会社を辞め、ディレクターが出来る小さなプロダクションに転職をした。

某薬局のボランタリーチェーンの本部内にあったプロダクション。全国のチェーン店に毎週「番組」として映像を制作し、その時々の情報を配信(当時はVHSを郵送)していた。
社員は、社長と先輩ディレクターそして自分の3人のみ。収録時には協力会社の人間が数名参加してくれるが、小さなプロダクションが故に、ディレクターだけではなくカメラや編集など技術的なことも全て自分達でこなさなければならない。

企画内容によってはロケなどにも出かけることもあり、毎週金曜の収録までにやる事は沢山あった。
しかし、金曜の収録が終わり、土曜日にビデオの発送が終われば、週末は決まって休みが取れた。
そして、土曜の夜は毎週、大阪キタにあったクラブ「ピエロ」に顔を出す生活が始まった。

毎週通っていると、いつしか顔見知りというのは増えてくるもので、徐々にダンス好きの仲間が増えてくる。
そんな仲間たちと毎週末ワイワイと楽しみ、仲間達からは「PAJA (パジャ)」というニックネームで呼ばれるようになっていた。
そんな頃、ときどきピエロに顔を出し、挨拶を交わす程度の1人のダンサーがいた。

その彼はダンスが上手くスタイルがカッコいい。
彼が店に現れると、少し離れたところから彼の踊りをなんとかして盗もうと、チェックをしていた。
その彼というのが、勝手に俺の憧れであり、同時にライバルでもあると今でも思っている、当時大阪でイケイケのダンスチームだったColorsのケンジである。

コレは20年以上経ってから知った笑い話なのだが。
実は当時、同じ思いをケンジ自身も俺に持っていたらしく。
彼は彼で、俺の踊りを盗み見していたそうだ。
今でこそ仲良くさせてもらっているが、その当時はある意味お互いがライバル心でお互いを見ていたらしいのだ。

ピエロというクラブは、期間限定でオープンした「屋台村」の一角にあった。
そして、その期間が迫り、クラブは閉鎖されることになった。

ある意味、自分のホーム的な場所だったクラブが閉鎖され、次なる溜まり場をキタからミナミへと移すことになる。

ただ、なんとなくピエロほどの居心地感のあるクラブには出会うことができず、クラブ アンテナやQooなどをメインにその時々の気分で箱を選んで遊びに行っていた。

そして最終的に落ち着いたのがQooの日曜だったかな〜。

曜日によってかかる音楽が変わるQoo。
日曜はHIP-HOPがかかり、そのDJを我らがGM Yoshiが担当していたからである。

GM Yoshiは、正に日本を代表するトップDJ。世界に日本のDJを知らしめたレジェンドである。

ミナミで遊び始めてしばらくした頃、自分の人生を大きく変える出会いが訪れることになる......。

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