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疫学的エビデンスをもつ倫理的要請=自粛が、分散型社会と「令和ルネサンス」を培養する。散文。


鴨長明『方丈記』から。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたる例(ためし)なし。

世の中にある、人と住処と、またかくの如し。

火災・竜巻・飢饉・地震と天変地異のフルコースだった平安時代末期~鎌倉時代初期を生き、人世の諸行無常を描いた随筆である。その結論に対する賛否はさておき、なにかと天災の多い日本において、このたびの新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大はどのような倫理的・社会的影響をもたらすだろうか。

本考察はマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のアナロジーから始まる。射程は福祉レジーム論(昭和の企業・家族福祉の解体)や民主主義情報化(IT)革命(第四次産業革命)の進展と市場構造、そしてWELL-BEINGという「ルネサンス」あたりまでとし、唯心論・唯物論いずれにも偏らぬよう最大限の配慮とともに、文章の分かりやすさ・読みやすさに気をつけたつもりだ。本稿を踏まえた闊達な議論を期したい。

・・・なお筆者は大学で多少の社会学や政治学をかじっただけの猫ちゃん (=^・・^=) なので、お手柔らかに、お願いします(笑)

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疫学的エビデンスをもった倫理的要請としての「自粛」により、
いまコロナウイルスという「原罪」意識が「蔓延」している。

この時代に求められる適切なマナーとはなにか。「あなた自身がすでに感染している前提でふるまいなさい」である。・・・この教えはまるで「原罪」意識の示唆に似てはいないか? 原罪とはキリスト教においては、アダムが神に背いた結果、全人類がそれを継承することになった罪のことである。自身が罪を犯した(感染した)という事実の有無にかかわらず、自身には罪があるという前提で考え、ふるまうことが社会的に要求される疾患は、これが最初のものではないだろうか?

精神科医の斎藤環氏による上記noteでの論考は大変興味深い。
この「あなた自身がすでに感染している前提でふるまいなさい」という倫理観すなわち「コロナ・ピューリタニズム」は、まさに日本においてとりわけ強く観測されるように思われる。

日本では「ロックダウン」すなわち、外出や移動、店舗営業といった活動を厳しく取り締まる代わりに、生活保障として現金直接給付や社会保障費・納税面での優遇等の経済措置は、あまり積極的には行われていない。
代わりにあるのは「自粛」という、あくまで「倫理的要請」だけである。

しかしながら、この倫理的要請は確固たる疫学的エビデンスをもつため、実質的に経済・社会活動は大部分で停止あるいは鈍化させるに至っており、そこかしこに経済的・社会的影響が生じている。
とりわけ飲食業や観光業をはじめ、中小企業・フリーランスといった事業者、さらにはアーティスト、子育て世代などの様々な社会層が、早い段階から甚大な被害を受けている。

このような「謎の『空気』を作って従わせようとする」様子が先の戦時中を思わせるとして、批判の声も上がっている。

そんな「自粛」という特有の倫理観を持ち出してコロナを抑え込もうという日本では「コロナ・ピューリタニズム」が色濃く「蔓延」していると言えよう。


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さて、このようなピューリタニズムは日本社会にどのような影響をもたらすだろうか。というかそもそも「ピューリタニズム」って、なに?という方もいらっしゃるだろう。

まずは冒頭述べたようにマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のアナロジーで考察してみる。この「プロテスタント」のイギリス呼称が「ピューリタニズム」との認識で、おおよそ良いだろう。なお原著の内容については以下に簡単に解説するが、こちらも分かりやすいので参照されたい。

巷でもよく引き合いに出される通り、当時ヨーロッパで流行したペストと、現在のコロナウイルスの感染拡大は相似する点が多い(としよう)。前者ではどのような倫理観の変容があったのだろうか。それを論じるのがこの『プロ倫』である。

ペストの流行に対して、当時支配的な権力をもっていたカトリック教会はフッガー家と組んで「贖宥状の発行」という措置をとった。これにはサン・ピエトロ大聖堂の建設費を捻出することを念頭におきつつ、広く社会的な混乱を抑え込もうとした旧体制側の思惑がみえる。
しかしこれに対して反発が起こり、宗教革命へと歴史が紡がれる。主にルター・ツウィングリ・カルヴァンなどによる16世紀の宗教改革の中心的思想はプロテスタンティズムと呼ばれている。

そのうちの一人であるルターは「内的な信仰のみが人間を義(正しい)とする」という信仰義認説を唱え、やがて「天職 (Beruf)」概念の基礎を築いた。

またカルヴァン派の思想であるカルヴィニズムは根本に「ひとはみな、現世に生を受ける以前に、すでに神によって ≪誰が救われ、誰が救われないか≫ をあらかじめ定められている」という思想すなわち「予定説」をもつ。
人々はこの「予定説」のやるせなさ(現世でなにを為すとも救済の有無には影響することができないという虚しさ)に戸惑い、より強く「自分が救われていることを確信するための方法」を求め、次第にただ厚く祈るだけでは満足できなくなった。ペストの恐怖が相当のものだったことがうかがえる。

そこで導入されたのが「神の栄光のためになされねばならない天命としての労働」という観念である。これが先述の「天職」と結びつき、人々は「『自然のままの人間』がなしうる以上の行為によってしか救済は保証されない」と考えるようになり、
教会で神に祈りを捧げているだけでよかった生活態度が、禁欲的に労働に勤しむ姿勢へと変化した。労働の結果としての利潤はさらなる投下資本として使用され、財の再生産がおこり、
これら全ては当事者たちにとって「世俗において神の意志を成し遂げんとする努力である」と認識されていた。

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和製英語である「プロ」の大元「プロフェッショナル」という英語の語源は「プロフェス(profess)=告白する、公言する」であり、これを「公然にて宣誓する」と解釈するのが定説だが、一方で「あらかじめ(神が)告げる」と読む説もあるほどだ。天職とは、神にあらかじめ定められたものなのかもしれない。

このようにして ≪信仰義認説+天職+予定説+労働観≫ で主に構成されるプロテスタンティズムは、禁欲的労働による資本形成を促し、近代資本主義の礎を築くうえで大きな役割を果たした。カルヴィニズムのエートスが近代資本主義の精神の形式である「合理性」を「培養」したのである。ただし最後に付け加えると、プロテスタンティズムも聖書や神を否定していない点などから、全く新しい倫理観というよりむしろ多くの点でかつての宗教観を受け継いでおり、実に絶妙なバランスのなかで「資本主義の精神」が育まれてきたことも重要である。その後資本主義が「鉄の檻」となるまでは、その中心となった精神は新旧まざったものであったのだ。


また、ペストを環境要因のひとつとして新たな倫理観がうまれ、宗教革命が起こったことは、上記のような経済的影響のみならず、当時の政治および文化にも影響を及ぼしている。

まず政治レイヤーについて。この時期の宗教革命の帰結として主に挙がるのはドイツとイギリスである。

先述したルターの「九十五ヶ条の論題」にはじまるドイツ宗教革命の担い手たち「プロテスタント」は、はじめは神学上の議論であったが、やがてその思想は諸侯や農民に広がり、ドイツ農民戦争やシュマルカルデン戦争に発展した。皇帝やカトリック派との抗争を経て、アウクスブルクの和議にて領邦教会制が確立し、皇帝権力が弱体化する反面で領邦諸侯の世俗権は伸長し、神聖ローマ帝国に代わって主権国家の形成が促された。すでに300ほどの領邦が存在していたことが土台となり「地方分権」的な統治形態に移行したといえる。ただし宗教選択の自由は領邦単位に限られており、全ての人の信仰の自由が認められたわけではなかったため、農民の不満は残った。またドイツ統一を巡る各領邦間の対立やカトリック国・教会との対立は残存し、これが後に最大の宗教戦争となった三十年戦争を招いた。

一方で同時期のイギリスは百年戦争に敗れ領土を失ったばかりであったため国としてのまとまりも強く、ドイツのような内戦に発展することはなかった。結果として首長法の制定で英国教会(ローマ教皇ではなくイギリス国王を教会の長とする制度)が成立し、カトリック修道院は解散・土地や財産を没収されて、国王による絶対王政に繋がる「中央集権」的な政治体制となった。なお英国教会は教義上は主にカルヴァン派を採用したが、儀式的な面ではカトリックの慣習も色濃く残り、制度上の改革は成功したものの宗教上の革命は中途半端に終わった感が否めない。それらの抜本的な改革は後のピューリタン革命・名誉革命を待たねばならなかった。

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このように宗教改革はドイツでは「地方分権」に、一方のイギリスでは「中央集権」に繋がり、政治的帰結を迎えた。しかしそれぞれ、信仰の自由を認められなかった農民の不満や領邦間の対立、儀礼上のカトリック的慣習の残存など、改革前を引き摺る部分もあった
ちなみにフランスは戦争が泥沼化し一時プロテスタントの信仰の自由も認められたが、その後に禁止されると多くのプロテスタントが逃亡して強固なカトリック信仰に染まる(しかし残存したプロテスタント(仏語呼称ユグノー)によって資本主義化が推進されたというのがヴェーバーの見方だ)。またベルギーではカトリックが、隣接するオランダではプロテスタントがそれぞれ優位となり、これが経済上の発展の要因のひとつとなってオランダによるベルギーの併合に至ったとされている。


続いて文化的な影響については、かの有名な「ルネサンス」が挙げられよう。ルネサンスの潮流自体は宗教革命以前から存在していたため直接的な因果関係には結びつけられないものの、種々の改革によって旧体制が弱体化したことが追い風となったことは確かだ。そもそもルネサンスの初期に活躍した人文主義の文献学者エラスムスはルターの思想に大きな影響を与えており、宗教改革は「エラスムスが卵を産み、ルターが孵した」とも言われている。

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ルネサンスとは「再生」を意味し、ギリシア・ローマの古典文化の「復興」を掲げていた。特徴としては、神を絶対視し人間を罪深いものとして抑圧してきた中世カトリック教会の束縛に反発し、人間本来の精神を解放せんとする人間中心主義(ヒューマニズム)や、個性の尊重といった近代(近世)社会の原理の基礎となるような思想を主張した。主要な担い手たちなどの詳細は以下を参照されたいが、ここでは敢えてルネサンスが貴族的・保守的な側面も残し、多分に神学的であったり不合理な要素をもつ点も指摘しておかねばなるまい。


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上記のような宗教革命に対する考察を踏まえ、重要な点として、革命的な新潮流も、部分的には旧体制を受け継いでいるということを改めて強調したい。

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プロテスタンティズムはカトリックに反発したものの、神の存在や信仰それ自体を否定することはなく、ある意味で「地続き」な部分も多かった。政治的・文化的変化においても、かつての体制や思想を引き摺る部分があることは上記で確認した通りである。

昨今のコロナウイルスの影響を論じる様々な文章にも、現在起きている劇的な変化を懐柔しつつ、その新潮流を部分的には半直線的に今後も受け継がれるものとして意識するものが多い。アフターコロナで世界がまったくの「元通り」になるとは予見されないし、それは割と期待されてもいないように感じる。

つまるところ、コロナウイルスのもたらす影響を考えるとき、これまでの世界と ≪地続き≫ な部分と、これからの世界で ≪革命≫ される部分を考えることが、まずもって重要なのである。

それではようやく、次章からその2点を意識しながら、経済・政治・文化という3つのレイヤーを反復横跳びしつつ、今後の「革命」を論じていきたい。


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さあ、ペストの連想から『プロ倫』そして宗教革命の解説まで、長々と耐えていただいた。ようやく本題に入ろう。まずはコロナウイルスの感染拡大によって社会的に(≒ 政治・経済・文化的に)どのような影響が起こるか、私の考えを述べたい。

…ここで、『プロ倫』をよく理解した読者は「あれ、まずは『プロテスタンティズムとは~』みたいに、どんな倫理観が出来上がるかについて説明してから、それが社会にどう影響するか、って順番で話すんじゃないの?」と思われることだろう。それこそが唯物史観に対するウェーバー・テーゼなので貴方は大正解なのだが・・・なにを隠そう、筆者はその倫理観の輪郭をつかみきれず、またイマイチいいネーミングを思いつけなかった(笑)

だから仮にも「令和プロテスタンティズム」とでも名付けておこうか。なんかキャッチーだし。念のため付記しておくと、これはルターやカルヴァンの「プロテスタンティズム」との連続性や同質性はなく、ただ「抗う(プロテスト)」という意味においてのみ「プロテスタンティズム」という呼称を採用している。要するに先述のような禁欲や勤労の精神とはなんの関係もない。ついでにいうと元号制がウンタラ~も関係ない。

そして経済・政治・文化のレイヤーで私が予見する変化を先立って述べて、それらを横串するような新しい倫理観(ネオ・プロテスタンティズム)の全体像をぼんやりと理解してもらえたなら(あわよくば誰かそれを体系化して名前を付けてくれたなら)幸いである。

あ、ちなみにこっからは本当に私見ゴリゴリなんで「ん?」って思ってもご容赦ください。まだまだ未熟な、いち学徒のボヤキみたいなもんです。建設的な批判やご意見はぜひ頂戴したいので、お願いします。わたし、猫なんで。お手柔らかに。

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これまでと ≪地続き≫ なことについて


● IT化(情報化革命, 第4次産業革命)

まちがいなくIT化は進展するだろう。情報化革命、第4次産業革命といってもいい。
冒頭で指摘した「自粛」という倫理的要請により、働き方が在宅リモートワークになった方も多いと思う。そのワークスタイルを支える技術こそITテクノロジーであり、こうしたIT産業は、第1次産業(農業, 林業, 漁業など)・第2次産業(工業, 製造業, 建築業など)・第3次産業のその他の業種(サービス業や観光業など)への著しい打撃をよそに、今なお成長を続けているところが多い。もちろん例えば「製造×IT」や「観光×IT」などの掛け合わせの業種で深くダメージを受けているところも多いため一概には言えないが、少なくとも情報化が進展することは間違いない。

そういえば先の『プロ倫』においても、プロテスタントたちの「識字率」の高さが資本主義システムの構築に影響したとされている。当時の一大発明品であるグーテンベルクの活版印刷がルターらプロテスタントの主張を全欧に広めるに役立ったことに示される通り、プロテスタントたちは文字が読めた。この「識字率(リテラシー)」の高さは、文字通り「ITリテラシー」の高さに読み替えうるのかもしれない。
これまでテコでも動かなかった会社のテレワーク化や教育現場のオンライン化が「自粛」によって倫理的に「やらねばならない」ことへと変わり、急速に推進されている。もはや「ITリテラシー」は必須とされ、インターネットの世界で「字が読める」ことは前提となった。本来であれば何年もかけて漸次的に移行するはずのことが、ここ数ヶ月で劇的に進んでいるのである。

欲を言えば5Gさえ間に合っていたなら!間違いなく劇的なターニングポイントになっていたであろうになあ。


● 福祉・労働レジーム

SNSでみかける「 #自粛と補償はセットだろ 」のタグ。しかし日本では継続的な国民全体への直接手当はあまり期待できないだろう。せいぜい一人当たりマスク10万枚と現金2円かな(逆)。

福祉・労働レジーム論を参照すれば、戦後日本が家族福祉と日本型雇用によって支えられてきたことがわかる。要するに日本では、エスピン=アンデルセンの指摘する通り介護や子育てといった「ケア労働」は家族内で負担する家族主義が前提であり、それを企業が「終身雇用×年功序列(×企業別労働組合)」というメンバーシップ型雇用で支えてきた。こうして福祉は主に家族と企業が担い、国家はそれを補完するだけでよかった。

しかしその仕組みも限界を迎えている。かつては「高度経済成長×性別役割分担意識」という一時的かつ性差別的な社会構造によって運営されていたものの、グローバル化や晩婚・未婚化を受け、現代では労働と再生産の主体である現役世代が福祉の担い手でもあるという状況はいよいよ苦しくなってきた。速やかに代替方法を再構築しなければそれぞれの家族や個人の単位で時間的・金銭的リソースが圧迫され、疲弊していくだろう。

加えてコロナ禍にあっては抵抗力が相対的に弱い高齢者への感染を避けるため帰省による接触が「自粛」され、これが家族内でケア労働を負担するという従来の倫理を否定するにあたって疫学的エビデンスという「建て前」として機能しており、アフターコロナで「家族内ケア労働離れ」という風潮に繋がる可能性もある。そのときケア労働の外部化がすすみ、一層の保育サービスの拡充や介護職員の社会的地位向上が必要であろう。おっと、これは ≪地続き≫ なことではなく ≪革命≫ されるべきことだった。

一方で労働レジームについては、コロナを受けて日本で変化が起こることはあまり見込めないだろう。法的には非正規雇用でも社会保険に入れるのだが、現状は企業側の負担も大きく、全国的な規模でみると加入に至らないケースが多いため、失職と同時に収入が止まることも珍しくない。コロナの影響から様々な助成金が投下されているが、どれも「国家→企業→労働者」という間接的な社会保障体制を維持していくことが前提となっている。

これは評価の分かれるところである。批判するなら、企業が事業活動を持続し雇用を確保することが社会保障の根幹と見なされいる現在の状況は、非正規労働者や小規模自営業者、フリーランスにとって厳しいものだ。欧米の対応のと比較すると、日本の経済対策は後手後手にまわっている印象も受ける。一方で肯定するなら、ロックダウン(経済・社会活動の制限または停止)と直接給付が抱き合わせで実施されるとき、政府権力はかつてなく増大する。この状況下でスペインのようなBI(ベーシックインカム)の導入や中国のような感染経路の把握のための監視体制の強化を主張する声もあるが、これは権力集中を許すことにもなり、アフターコロナで良くも悪くも後戻りできない影響力を政治権力に付与してしまう恐れもある。

総括としては、現状の福祉・労働レジームは大きく変化することはないだろうというのが私的予見である。あくまで「倫理的要請」でコロナ禍を乗り切ろうというのが国家戦略の大綱であろう。脱商品化レベル・脱家族化レベル・階層化レベルの観点から、日本がこのピンチを利用してより「よい」労働・福祉制度に移行できるかという問いは、なにが「よい」方向性かという土台に対する問いから掘り起こして、慎重に議論・実践が行われる必要がある。


● 「ていねいな暮らし」観

もっと身近な話をしよう。この自粛期間中に「#おうち時間」という建前で、普段あまりしない料理を始めたり、映画をみたり、屋内トレーニングを始めたり、居住空間の快適さのための投資(家具の購入やDIYなど)を行った、なんて方はいるだろうか?「 #STAYHOME 」というキャンペーンは個人的には好かないのだが、これを機にゆとりが生まれ、「暮らし」が慎ましくも豊かになり、案外よかったかもな、そう感じる方は少なくないかと思う。

そのような価値観は「ていねいな暮らし」と名付けられている。

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戦後の主婦の暮らしをテーマとする『暮らしの手帖』の編集長であった松浦弥太郎が提唱したことに始まる「ていねいな暮らし」は、家事労働が機械によって代替されていくなかで家事それ自体に娯楽性・趣味性をもたせることで、家父長的な古い家族観における主婦の存在意義を維持するものであった。男女雇用機会均等法の成立などを経て日本が「サザエさん(大家族)」から「クレヨンしんちゃん(核家族)」の時代へと移行し、高度経済成長も終わると「働く女性はカッコいい」という新しい価値観に対するアンチテーゼとして標榜されることもあった。このVUCAな時代にこそスローフードなどを取り入れて、ゆったりとした時間を過ごそうという懐古的なライフスタイルを指すこともある。極めつけは東日本大震災だろう。普段の暮らしがあっけなく瓦解することを経験して、私はなんのためにどのように暮らすのか、と内省することが促され、地方移住やデュアルライフ、アドレスホッパーなどの生活様式が生まれた。

このような暮らし観の変遷においてなんとなく ≪地続き≫ になっている「ていねいな暮らし」、そのどことなく慎ましくもゆとりある豊かさは、既にウィズコロナでも憧れと憎悪を生み出している。これからの「新しい生活様式」における豊かさとして取り入れる者もいれば、そんな悠長なことやってられるかという反発もある。
おもえばかつてのプロテスタンティズムもまた困難な状況下で現世にいかなる「幸福」を抱くかという葛藤の末に編み出された倫理観であり、この「ていねいな暮らシズム」といえるような価値観も似たようなものかもしれない。


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【これから ≪革命≫ されることについて】


前章にて、これまでと ≪地続き≫ な部分について概観した。それを踏まえながら、コロナ禍で社会的になにが変わるのか(いやもはや「私がなにを変えたいと思っているのか」とさえ言っていい)、以下に続ける。


● 経済の「縮退」

コロナ禍とリーマンショックを比較して、今回は実体経済への影響だけで金融経済は影響ないので不景気はそこまで大規模にならないだろう―そんな言説も2月頃には息をひそめたように思う。確かに着眼点自体は間違っていないのだが、実際の実体経済への打撃は想定以上に甚だしく、その影響が金融経済にまで及んでゆくことは自明だ。

そんな様子を眺めていると、ふと思わないだろうか。「富が集中し格差は拡大する一方なのに、なぜ資本主義は成長しつづけるのだろうか?」と。

経済はいま「縮退」している。そう論じるのは長沼伸一郎氏である。ここでは残念ながら紙面の都合を加味して経済や市場原理についての子細な検討はせず、約1ヶ月前に出版された『現代経済学の直観的方法』を参照し、あくまで「直観的」に語るに留めたい。

下図を見てほしい。これまでの資本主義経済は右のように、様々な企業の相互作用関係によって成り立ってきた。しかし現在の経済構造は左のように、一部の大企業や巨大機関投資家の関係性が経済をまわしている。そしてほとんどの企業が経済の仕組みからマージナライズ(追い出し)されている状況なのである。このような変化を長沼氏は「縮退」と呼ぶ。

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(上図: https://note.com/tabear_newcrib/n/nad003b8ab69a より)

世界時価総額ランキングや世界長者番付をみれば、経済界のビッグ達はGAFMAと呼ばれるIT企業へとそのポストを譲ったものの、依然として経済構造における「縮退」化は進んでいることがわかる。

資本主義にとってカネは血の巡りみたいなもので、常に経済全体を循環していなくてはならない。しかし「縮退」した経済においては、狭い金融市場の中で投機マネーがまわるばかりで、実体経済は置いてけぼりとなり、マタイ福音書の教えである「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という法則は健在なのである。そしてそんな偏った寡占的な構造でも一応カネがまわるもんだから「もうこれでええやん」ってことで野放しにされ、なかば隠蔽されてきた側面がある。

そんな溜まりに溜まったツケが、このコロナによって白日の下に曝された。SNSでは自粛ムード、果ては「自粛警察」によってなぶり殺しにされる苦しみを訴える声が散見される。コロナが引き金と考えられる自死のニュースすらある。



困窮する彼らの多くこそ、実体経済からマージナライズされた事業者たちであり、そして日本の企業の9割近くを占める中小企業や、自営業者、フリーランスといった少なくないひと達がその苦しみに共感している。富の集中は格差の固定化と再生産を助長させる。本来的には自由競争原理をもつ資本主義も「縮退」にあっては健康的な市場構造を保つことは難しいのである。それは日本のお家芸である「自己責任論」で片付けるには、あまりに残酷すぎやしないか?

どうかコロナ禍が経済上の多様性を見直すきっかけになってほしい。SDGsでもなんでもいい、生態系の豊かさを取り戻すことこそが真のレジリエンスに繋がる(仮にインターネットの世界でこの規模のウイルスが蔓延したらどうなるか、想像してほしい)。天災を抜きにしても、VUCA時代には複雑系の構築こそが生存戦略として重要ではないだろうか。



● WELL-BEING

先の「ていねいな暮らし」観を引き継いで、ウィズ・アフターコロナの「幸福」について、そして震災後の復興神話と「祈り」について考える。

…唐突なんですけど、このYouTuberに最近ハマってます(笑)
彼女は「ていねいな暮らし」の文脈上、どのような位置づけになるだろうか?

都市的なワンルームに白く無機質な内装、無印良品を中心にシンプルな家具や衣服のコーディネート…この世界観を新時代の「ていねいな暮らし」と表現することは、的外れではなかろう。サザエさん、クレヨンしんちゃんの次に、都市に単身で慎ましく「ていねいに」暮らす彼女の生活を位置づけると、ついに「ていねいな暮らし」は家父長制のなかに女性の暮らしの歓びを押し込める前提から脱したとすら思う。
自分のために家具を選び、自分のために料理をし、自分のための服を着る…そんな暮らしこそが今「ていねい」と評されるのではないだろうか?

地理性(都市)、年齢(おそらく20代)、所得、性別…様々な要因を加味してなお、現代の「ていねいな暮らし」には、このような個別化された「幸福」の手触り感を大事にする趣向が顕れてきた。これこそ革命的な変化であり、そして現在おおく観測される「#おうち時間」には、そんな価値観が滲み出ているように感じられるのだ。

コメント 2020-05-09 235139

先の「ていねいな暮らし」論でも述べた通り、このような一種パフォーマンスを含んだ「ていねい」さを巡る承認欲求の争いは、憧れとともに憎悪も引き出す。「#STAYHOME」というある種の暴力性をもった倫理的要請である「自粛」によって、「ていねい」どころか「暮らし」自体がのっぴきならない状況の人々も多くいるのだ。それはなにも激務と高ストレスの医療従事者に限らない。この状況下でも出勤せざるを得ない仕事、感染の恐怖に耐えながらレジを打つひとから風俗勤務、そしてリモートワークが導入されていてもなお「働いている実感が湧かない…」とガス欠状態なひとまで。犬を撫でて、紅茶を召して、テレビを見る。そんな見たくもないはずなのにSNSでどうしても見掛けてしまう他人の優雅さに、イラっとくることも事実である。

このような個別化された「ていねいな暮らし」こそ「WELL-BEING」と呼ばれるものであると私は考えている。「WELL-BEING」という言葉には、なにが「WELL」であるかを個人(BEING)が選択することが想定されている。良くも悪くも「自粛」中に内省的になって自らのWELL-BEINGに目覚めるひとは増えているのだ。そしてその様子はまさに個人化とヒューマニズムを加速させた、かつての「ルネサンス」に重なる。ペストと宗教改革によって加速したこの人間中心主義的な運動のアナロジーとしてのWELL-BEINGは、さながら「令和ルネサンス」として、コロナ禍の現代日本における新たな倫理観へと育つだろうか。なるほどそういえば記録的な注目を集めた「メメント・モリ(死を思え)」を描いた作品もあったな。既に先日、四十九日を迎えた彼は、すでに多くの方の日常から忘れさられてしまっているのかもしれないが。

また一方でWELL-BEINGという「令和ルネサンス」が憎悪され、分断を生んでいる側面も忘れてはならない。後者の現象はWELL-BEINGの概念それ自体に対する批判ではなく、それがある種の理想状態として強迫観念化することへの抵抗なのである。それではそのような分断を乗り越えて、ひとりひとりがWELL-BEINGに向き合えるためには、なにが必要なのだろうか。それが「神話」の解体であり、「祈り」への抵抗である。次節へ進もう。


● 震災後の「神話」と「祈り」

五輪が延期されてしまった。安倍総理もとい自民党は、改憲などの思想や政策上の特徴からみるに、一貫して戦後日本からのアップデートを目指しているように思われる。そのとき五輪というビッグイベントが国民に与える精神上の影響は大きい。万博と併せて、戦後の復興を力強く国際社会に対して印象付けた、あの昭和の東京五輪のように、なんらかの象徴的な効果を期待したのだろう。それはなにか。震災からの復興である。

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しばしば「復興神話」という言説が語られる。日本は遂に東日本大震災から「復興」し、ついでに色んな社会問題(語彙力!しかし実際のところそれくらい雑な解像度だろう)からも「復興」して、まさに「アンダーコントロール」、来るべき時代の国際的なリーダーとしての矜持とともに発展してゆくのだ…ストーリーはだいたいそんな感じだろうか。その晴れ舞台が2020, TOKYO五輪である。映画『Fukushima 50』なんかはタイミングもシナリオも絶妙だった。まさに神話のクライマックスにふさわしいプロパガンダである。

さあ、この「神話」に心から咽び泣き、歓び祝福される者は、いま、どれほどいるだろうか。

ときに天為は人為を暴く。天災を人災に転換するのはやりすぎだが、ときに自然災害は残酷なほど人間社会のいびつさを露呈させるものだ。震災で明るみにでた安全神話の嘘、深刻な地方格差、杜撰な生活保障…そんな問題も時の流れとともに風化させられ、約10年のうちにほとんどオリンピックムードへと置き換えられてしまった。そこに突然の天災、コロナウイルス。非情にもそれは日本がなんとなく雰囲気で隠蔽してきた社会問題を再び表に引き摺りだし、震災後に築きあげてきた「復興神話」はまだ多くが嘘で塗り固められた虚構であることをクリティカルに指摘してしまった。

ひとつ取り上げるなら格差問題。相対的貧困率の上昇は、結局のところ労働・福祉レジーム論においても、実体経済の「縮退」においても、さらには「ていねいな暮らし」もといWELL-BEINGにおいても、なんなら教育とかの文脈にすら通底する。センシティブな話なのでエビデンスが重要であろう。確かに相対的貧困率の各国比較とジニ係数の経年変化のデータだけでは、再分配所得格差や高齢化の影響を加味していないため実体を捉えるには不十分である。有効求人倍率は伸びていても賃金や正規/非正規労働者間の収入格差は残存している。ジェンダーギャップ指数は?教育は?…いちいちとりあげたらきりがないため、ここではあまりドラスティックに一面的なことを言うことは控えながらも、それでもひとつ主張したいのは「復興神話」なる虚言に舞い踊る熱は冷めたよね、という実感の話である。

少々乱暴なことは承知のうえで、この「神話」の検証より先に「祈り」へと話を進めたい。

そう、たとえ「神話」が完全に正しいとして、一体どうやって日本は「復興」したのだろうか? なんというか、みんなで頑張ったから、報われた、救われた、そんなマインドが蔓延してやいないか?
あのとき24時間テレビでひたすらに「絆」が訴えられ、東浩紀がweak tie理論を持ち込み「弱い繋がり」としてもてはやされ、その後有象無象のコミュニティブームが起きたこと…それこそ震災時に興った「プロテスタンティズム」のようだった、当時の盛り上がりを思い出す。あの時のエネルギーを骨抜きにされて「敬意・感謝・絆」という「鉄の檻」にされてしまって果たしていいのだろうか。

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復興神話という虚構は、それ自体への「祈り」によって成立する。逆にいえば「祈り」なくしては「神話」は成り立たない。私達が真に覚醒し、神話に現実が隠蔽されることを拒むのなら、そのとき「祈り」を積極的に棄却し、世界を直視する姿勢をとる必要があるだろう。それは様々な地域やレイヤーで「コミュニティ」が立ち上がったあの時のエネルギーを改めて思い出すことだ。

さてペストを受けて社会が変容したことを振り返ってほしい。ドイツでは地方分権に、イギリスでは中央集権に繋がった話だ。ロックダウン×直接給付を選択した欧米では、後者の色が濃くなっていくのだろうか。また一方で「自粛」という倫理的要請を戦略的に採用した日本では、前者の性格が強まってゆくのかもしれない。少なくともコロナに対する対応では、既に地方自治体の単位で大きく差が開いているように思う。企業単位でも、学校単位でも、コミュニティ単位でも、私達はいま手元で様々なポリティクスが蠢いている音を確かに感じている。個人的にはSociety5.0ブロックチェーン的世界観が分散型ネットワークとして生活空間に実装されることに繋がるものと期待したい。ともかく、相変わらず震災からの「復興」という曖昧な「神話」への「祈り」を要請する旧体制と、自らが生み出す分断に苦しみながらも現実を直視し、権力を取り戻していこうとする人間中心主義的な「令和プロテスタンティズム」。コロナ禍でひとりひとりが選択する倫理がいま、問われていると思う。

コメント 2020-05-10 130950

コメント 2020-05-10 131003

(図:https://www.pwc.com/jp/ja/about-us/member/assurance/assets/pdf/vision-2025.pdf)

はたまた、地方自治体への分権性が強まるように見えて、実はこれも地方自治体への「自己責任論」だったりして…? 企業レベル、自治体レベルの分権性という希望か、それとも所詮「自己責任論」というディストピアなのか…それもまた私達の倫理的選択なのだろう。

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かなり発散した文章となってしまった。一体わたしはなにが言いたかったのだろうか。もはや他人に伝える気があるのかというお叱りを受けても致し方ないだろう。
それでも、この状況でなにも書かないということには耐えられなかった。粗削りでまとまりのない散文で本当に恐縮ですが、なにかに繋がれば幸いです。

「要するにさ、やっぱり愛とロックンロールだぜ?」書き始めたときは、なんとなくそう締めちゃいたいと思っていた。その前はなんなら、もっとアジテーションっぽくして革命色の強い思想的な文章にしてやろうとも思っていた。でも今思うと、なんだかそれも強引だな。
結局、私の文章が着地するのはいつも、こんな泥んこなんだよな。


最後に、最前線で働く医療従事者の方々、ならびにこの状況下でそれぞれの持ち場で感染防止に努める皆さんお一人お一人に、敬意を込めて。どうかお元気で。

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書くための、酒と音楽にぜんぶ使います。