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「デス・ゾーン  栗城史多のエベレスト劇場」  河野啓

初版 2020年11月 集英社

両手の指9本を失いながら“七大陸最高峰単独無酸素”登頂を目指した登山家・栗城史多(くりき のぶかず)氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ、SNS時代の寵児と称賛を受けた。しかし、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。

彼はなぜ凍傷で指を失ったあともエベレストに挑み続けたのか?
最後の挑戦に、登れるはずのない最難関のルートを選んだ理由は何だったのか?
滑落死は本当に事故だったのか? そして、彼は何者だったのか。
謎多き人気クライマーの心の内を、綿密な取材で解き明かす。
(アマゾン商品紹介より)

生前の栗城さんについてはたしかNHKのドキュメンタリーを何回か観て、自撮りしながらエベレストに登ろうとする素人登山家ユーチューバーみたいな人が出てきたな、という印象であった。それは時代の必然とも思えるし、面白いじゃないの、と。以来なんとなく興味を持ち、ニュースやドキュメンタリー番組への出演に気が付けば、必ずチェックして動向を追いかけるようになった。ただ実際のネット中継は観たことがない。このころ私は俄然ネット音痴で動画はもっぱらTV派だったから・・。今だにネットは弱いけど。
 すこし見ていくうちに、ああ、この人はいわゆる植村直己さんのような冒険家とか、ましてや登山家という属性ではないな、という思いに至る。
素人がとてつもないことに挑戦することを、素人動画映像で伝えることで、夢や希望が持てずに苦しんでいる若者たちに夢や希望を与えたい。という人なんだと。
その「とてつもない挑戦」の舞台が、たまたま山だったというだけの事で。
特に素人というところがポイントで、僕はあなたたちと等身大の素人(弱者)代表なんだよ。だからマッチョな冒険家や登山家であってはいけないんだ。
と言わんばかりに、カメラの前で泣いたり弱音を吐いたりしながら、むしろ弱さを強調していたように私の目には映った。
しかし、それをやるにはエベレストは過ぎた舞台だ。
ヒマラヤなめるな。と専門家筋から批判が出るのは必然だろうし、小説読んだり、映画観たりしていれば、それがいかに無謀かは山の素人でも容易に想像はできる。
私もかなり批判的な見方になっていった・・。
こんなものは夢への挑戦でもなんでもない。なんの根拠もない無謀な自殺行為だ。
ネットの反応も年々批判的なものが多くなっていったようだった。
しかし、批判が多くなればなるほどに、弱者代表としての遇像もまた肥大化していく。
批判に敗けないで!頑張ってください!応援してます!
と熱烈なファンも数多くいたことは確かなようだ。
こうなってくるともう自分の意志とは関係なく、偶像が一人歩きをはじめ、引くに引けず。
栗城さんも否定の壁を超えるカリスマになろうと、いや、純粋にその声に応えようと素人ながらも必死にエベレストの氷壁にとりついて、彷徨したのだろうと想像する。
そして2018年5月。栗城さん滑落死のニュースが届く。
申し訳ないが私は、来るべき時が来てしまったな・・
と思ってしまった。
 ここまでが本書を読む前までの私の栗城さん像だ。
ここから本書の感想と、読後、私の栗城さん像がどう変わるかという話をしていく。
(前置きながくてゴメン!) 
 本書は登山家の矜持を描く山岳冒険ノンフィクションだけでは終わらない。
むしろ、不況のさなかに8回にも及ぶエベレストへの遠征資金を集めた栗城さんの、営業力に焦点を当てたビジネス書のような様相となっている。
著者は栗城さん本人ではなく、北海道テレビのディレクターで、まだ有名になる以前の栗城さんの創成期から密着取材をはじめた。約2年間の密着取材の後、栗城さんが初めてエベレストに挑戦する頃、訣別することとなる。その後付き合いは断絶していたが、栗城さんの死後、彼の生を総括できるのは自分しかいないという思いで再び取材をはじめ、書き上げたのが本書ということだ。

もともとお笑い芸人になりたかったという栗城さんには、アホなほどの行動力と企画力があった。良くも悪くも深く物事を考えないで突っ走る前向きさ。それを成功させてしまう基礎体力や体幹の強さ。若さと熱情があった。
そんな彼を困ったちゃんながらも憎めない奴、と目をかけていた大学の恩師が、栗城さんの夢である「7大陸最高峰単独無酸素登頂」を応援しようと、彼のもつ政財界の人脈と栗城さんをつなげる。
そこで出会った一部の人に気に入られた栗城さんは、得た資金で、公演会や自己啓発セミナーなどを開催。
はじめは「何を話せばいいんですかね~」と戸惑いをみせていたものの、
ひとたび話始めれば、すらすらと言葉巧みに会場を惹きつけ
「夢は口で十回唱えると叶うんです」などと、聞こえのいい言葉で人心を掴んでいく。
と、このあたりまでは、やんちゃ少年のサクセスストーリーにも思える。
 ただ、人が集まるところ、その裏にある数字と金の匂いを嗅ぎつけて、灰色勢力が集まってくるというのも、大昔からの世の常で。(これは現在のYouTubrのバズりの構造とも似ている気がするが・・)
政界、財界、宗教界、占い、スピリチュアル商品関係、マルチビジネス、などなど彼の人脈は多岐にわたってゆく。
そんな中でも著者の視点はつねに冷静で、その裏に潜む危うさを見つめていく。
心象と勢いで突っ走り、講演やネット上で、実体のない観念的な言葉を連ねる栗城さんと、それと当てつけのように、過剰なまでにウラをとり、一つ一つの言葉に整合性を確認しながら配慮と責任をもって事実だけを描こうとする昔堅気のTVデレクターである著者との、内面にくすぶる静かな対立構造が面白い。(面白いとは語弊があるかな。本人たちは切実で、著者はこのあたりの考えの違い、契約上のトラブルもあり、栗木さんのへ取材を断念することとなる)
 著者が密着取材を止めた後も、栗城さんは「夢の共有」とか「NO LIMIT」とスローガンを掲げてエベレストに挑んでいくわけだが、結果8回跳ね返される。後年は「下山家」と揶揄されるようになり、言葉に実が伴っていないということからか、多くの批判、誹謗中傷にさらされることとなった。
 これは、我々にも身近な話として、現代のネット、SNS投稿における発言の責任意識の問題。誹謗中傷厳罰化問題などタイムリーな話題にも通じるものがあって、教訓になるところが多い。という意味でも面白いと思ったわだけれども・・。

栗城さんは晩年、夢をかなえたい若者とそれを応援したい人を結びつけるアプリの開発をして、「応援しあう世界」を作りたかったのだという。
しかし自身は膨大な誹謗中傷にさらされ、「全く逆の社会を生み出してしまった」
「もっと人にやさしい社会を・・・」
と、虚ろな顔で街をさまよっていたと、友人の証言が描かれている。

私はこの栗城さんの言葉に、若干の違和感を覚える。
この期に及んでまだ、遠くの頂ばかりを見て足元を見ていないなぁ~と。
著者の視点も全体的に批判の色合いが多く含まれている気がする。特に、栗城さんの掲げるスローガンに対して・・。
本書の感想として、故人の傷口に塩をぬるようなところが酷いという意見も多いようだが。
私は、著者が本書で描いていることの本質は、故人に批判を重ねる事ではなく、彼の失敗を直視、検証して我々の未来に教訓を得ることだと思う。
それが彼への弔いにもなると信じて。

 ここに私の考えを挟ませていただくと、基本的には著者の考えに同意するが、栗城さんのような心象と勢いの発信にも酌量の余地はあると思う。
何を隠そう私のこの文も心象と勢いのよるところが大きいし。
素人の無責任な言動にも1部の真実が潜んでいることもあるだろうし。
勢い任せの無責任な言葉だからこそ、そこに打算も計算も無い、率直な感情があり、そこが面白かったりもする。私は素人のネット記事は、それなりの読み方で楽しむことにしている。
これからますます多様化する情報化社会の中で、発信者として責任と配慮を忘れてはならないという事はマストとして、その先に重要になってくるのは読み手として、様々な言葉を読み分ける嗅覚ではないかと思う。
著者も言っているが、もちろん公人、有名人と、素人では責任の重さも違ってくる。
背後に多くの人、金を背負っていればいるほどに、それに伴う責任も重といわれればいたってその通りだ。
その意味で栗城さんは少なくとも責任と配慮が必要な立場のひとだった。
しかしその意識に欠けていた。
悪意は微塵もなく、本人はいつまでも、素人代表のつもりだったのではないかな。
そしてその結果、山よりも、自分の言葉とネットに追い詰められていたのではないだろうか。
そんな状態の人間の侵入をヒマラヤは許すはずもなく・・・
最後の南西壁へのルート変更は・・
憶測はいろいろできるが・・著者も明言はしていない。
そこはそんなに重要ではない気がする。
いずれにせよ、顛末は同じだったんじゃないかな。

さて、読後の栗城さん像がどう変わったか。
今回この本を読んで初めて知ったけどエベレストに8回も挑んでいたとは・・。
ということは登頂に失敗しながらも7回は生還したのだ。
登山家としても単なる素人ではなかったんだな・・と。
そこは考えを改めなければならない。
そして8回諦めなかった不屈の精神。それを支えた資金調達力。
人に夢と希望を与えたいという純粋な思い。
そこに1点の悪意もなかったこと。
それは率直にすごいと思ったよ栗城さん。

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