「自分がより自分らしく居れる」という愛

あまり大っぴらに言うことじゃないと思うけど、わたし結婚式が苦手なんすよね。

素人の男女が、ケーキを「あーん」と食べさせ合うのを見届けるこは、もはや拷問に近い。
唯一「両親へのお手紙朗読」コーナーは共感性羞恥心を感じずに済むけど、はて、第三者の我々が拝聴する意味があるのかという気もしてくる。

だけど昨日は、大学時代に愛した後輩のひとりが結婚するというので、迷いに迷って断ることが出来ず、式と披露宴に参列した。

結果、目頭が熱くなってしまった。

何故かと言えば、後輩である新婦が、彼女が私と出会った18歳の頃のまま、いやそれ以上に無邪気に愛されていることが伝わったからである。 

彼女とは大学のサークルの先輩・後輩として出会った。私の所属するサークルの新入生歓迎コンパに、天然記念物ものの天真爛漫さで乗り込んできた九州女子だった。

コンパ会場の居酒屋で他の新入生女子が当たり障りなく先輩たちと盛り上がってる中、何故か居酒屋の畳で突然スライディングをかまし始めた彼女。

当時彼女は、無責任な友人から言われた「痩せたら香里奈に似てるよ」という言葉を間に受けており、ダイエットに励んでいた。
お腹が空いたらダイエットコーラを飲む「くぅちゃん(倖田來未)式ダイエット」がどうたらとか、18時以降は麦茶しか飲まないダイエットを実践しているという話を何度も聞かされた。

何度もそんな話を聞いてると、久々に会うとなんだか痩せた気がしてくるもので、「少し痩せたんじゃない?」と声をかけると、「え!香里奈に似てますかね?」と食い気味の返事。うるせぇよ。

そんな無邪気すぎるほど無邪気で、明るくて正直で、そしてなによりひとに対し惜しみなく心を尽くす子だった。

そしてそれゆえに誤解されたり、傷つくこともあったと思う。

わたしはそんな彼女を自分がかけられるすべての言葉を尽くして、肯定したいと思った。
それは彼女の明るさと無邪気さに、当時の自分が救われていたからである。

そんな彼女と新郎は、新卒の入社同期だそうだ。
急接近のきっかけは、新婦の誕生日。

誕生日に近所の居酒屋でひとりで飲んでいた(泣ける)ところに、偶然今までまともに会話したことのなかった新郎が同期友人と同じ店に訪れ、彼女は「今日はわたしの誕生日なの!」だと、彼らを巻き込んだらしい。
このエピソードも、なんだか彼女らしい。 

彼女を愛しそうに見つめる新郎に嬉しくなり、写真撮影の際に「いい人に出会ったんだね」と声をかけると、彼女は「こんなわたしを好きになってくれた人が居ました~!!」と目をうるうるさせながら言った。

そんなの、当たり前じゃんか(号泣)。

一部始終、感情のままに笑ったり涙したり、時に目の前の食事に食い意地を見せる自由な花嫁を初めて見た。

そんな様子を見ながら、私はこの記事のことを思った。

「愛とは誰かのことを好きになることだ」。この定義自体はもちろん間違っていませんが、今僕が付け加えたいのは、愛とはむしろ「他者のおかげで自分を愛することができるようになることだ」と、そういうふうに考えてみたいと思います。
あの人の前でなら自分は思いっきりリラックスして、素直になれて、いろんなことをさらけ出せる。他の人の前では決してできない。
不幸にして、人間の関係には終わりが来ることがあります。喧嘩別れしてしまうこともあれば、死別してしまうこともあるかもしれません。誰かを失ってしまう悲しみはもちろん、その人の声が聞けない、その人と抱擁できない、いろいろなことがあると思いますが、もう一方で、「その人の前でだけ生きられていた自分を、もう生きることができない」という寂しさがあるのではないでしょうか。
あんなに自由にいろんなことをしゃべれたのはあの人の前だけだった。あんなに素直になれたのはあの人の前だけだった。あんなに馬鹿なことをしてあんなにくだらないことをできたのはあの人の前だけだった。
その人がいなくなってしまって、自分はもう、好きだった自分を生きることができない。それが別れの悲しみなんじゃないでしょうか。
逆ももちろん真なんです。僕は誰かから「あなたのことを愛してます」と言われれば、有頂天になりますね。「やったー!」と。しかし、誰かから「あなたのおかげで自分のことを好きになれた」と告白されたなら、あるいは「他の誰といる時よりもあなたといる時の自分が好き」と告白されたなら、それはなにかもっと胸に迫ってくるものがある気がします。
自分の存在がそんなふうに他者の存在を肯定させているんだということには、なにか感動的な喜びがあります。人間はそんなふうに、好きな自分っていうのを一つ見つけるごとに、生きていくための足場というのができていくんでしょう。

私が今回何よりも嬉しかったのは、彼女が歳を重ねても、精神的に不自由になることなく、むしろ新郎から愛されることにより、さらに自由に彼女らしくなっていることだ。

そして式の間も、「自分を貫いて」「自分らしく!」と、至る場所でメッセージしていた彼女。
それは彼女自身の半生が紡ぎ出した答えなのだろう。

その答えを強固な足場の一つとして、これからも夫婦を超え、家族を超え、世の中の多くの人に、その底抜けに明るい笑顔をたくさんの人に見せてほしいと願ってしまう。 

世の中「どんな人からも受け入れられ、愛される人」なんてどこにも居ない。

しかもそのうえ、「居心地の良い自分」「好きな自分」で居させてくれる人は、ほんの一握りだ。

だからこそ、「愛」とは特別で、人を自由にするものなのだと思う。

ありのままの自分で愛し愛される関係を築いたことで、心から自由になった彼女。
芸能人になんて寄せる必要がないほど、本当に美しく、晴れやかで伸びやかな花嫁だった。

 

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