『君たちならどう終わらせるか』
前代未聞の映画体験に襲われた。
久方ぶりのジブリ作品や!とドキをムネムネさせながら、椅子に腰掛けスクリーンの光に照らされること2時間4分。
「我々は一体、何を目の当たりにしているのか?」
疑念と混乱が脳髄を握り締めて離してくれない。
本編が終わり、エンドロールも全員が終わりを見届け、誰一人として立ち上がることはなかった。いや、立ち上がれなかったと言うべきか。
上映終了後の周囲の反応もかつてない未体験のものだった。
あらゆる観客が言語能力を奪われたかのような異様な静謐に包まれる劇場空間。
この感覚どこかで…と過去を遡り、辿り着いた記憶は旧知の知人の葬儀。
宮崎駿監督の10年振りの作品『君たちはどう生きるか』は紛れもなくスタジオジブリの異作である。
そして、日本のアニメーション業界を牽引してきたプロダクションの集大成の最新作でもあり、
何より、宮崎駿という伝説の最期を飾る遺作としか思えなかった。
ここからは、異作であり遺作と感じた所以を記したい。映画の内容はネタバレしない。でも、ネタバレとか、なんかもうそういう概念を無に帰しちゃう作品だとは思う。
異作である所以。
其の壱:事前情報一切無し
事前に明かされていた主な情報は宮崎駿が原作・監督・脚本を担うこと、公開日、タイトル、ポスタービジュアルのみだった。
商業映画としては異例である。直近であれば、『THE FIRST SLAM DUNK』が先駆者として挙げられる。
しかし『THE FIRST SLAM DUNK』はどれだけ情報を絞っても、古くからのファンはそれが『SLAM DUNK』だと分かった上で劇場に足を運ぶ。
その点『君たちはどう生きるか。』は完全新作であるから、当然古参のファンなどいない。
“宮崎駿監督の最新作”という最強ネームバリューがあることを考慮しても、拭えない不安はあったはずだ。
加えて、ジブリのような業界トップが広告宣伝費を使わないと大作だけしか生き残れず、映画業界の格差が進み衰退してしまうという声もあった。
そういった懸念にも耳を貸さず、宣伝無しに振り切った今作は公開前から"異作"の雰囲気を醸していたのは周知の事実だろう。
其の弐:ジブリの単独出資
昨今、アニメーション制作現場が金銭的に潤わない状態が続いていることが問題視され、アニメーションスタジオMAPPAなどは「チェーンソーマン」の制作を製作委員会方式ではなく、自社の単独出資に踏み切っている。
『君たちはどう生きるか』もまたスタジオジブリの単独出資で製作されていることから、宮崎駿監督のこだわりが極限まで濃縮された作品に仕上がっているのでは?という期待も多かった。
創造者である監督のこだわりにどこまで商業性を持たせ得るか?プロデューサーの手腕にますます期待大。
宮崎駿と鈴木敏夫という往年の名コンビが今作でもタッグを組むのだ。
だからこそ、この二人が世に放った商業映画が、
社会へのメッセージはなくまさか、創造者としての遺言。
ゆえに、脚本ではなく遺書。
したがって、仕上がったものは映画ではなく走馬灯。
であったことに愕然とせざるを得なかった。
「ぼくたちはこの映画をどう受け取ればいいのか?」と。
結果、謎に徹夜した。
映画に寝させてもらえなかったのは人生初だ。
遺作と思われる所以。
人間は何かを産み出しながら生きている。
文を綴る、絵を描く、喋る、息を吐く、傷をつける。
世界と自分の隔たりを埋めるあらゆる行為が創造であり、その結果が作品となる。
誰かに届けたいから人間は創造をやめられない。
中でも映画作品は”総合芸術”と定義されるほど様々な顔を持つ創造の産物だ。
ストーリー、音楽、イラスト、演劇etc..
たくさんの要素が互いの性質を生かし合ってつながることで、映画という一つのコンテンツとして産声を上げる。
そんなあらゆる創造的な営みが集結する映画の絶対的な掟。
映画は観客のためにある。
上映時間の中で、観客の脳内に起承転結を生成し、自我を癒すメッセージを放つ。
それが映画というコンテンツの掟だった。
だが、今作が異作であり遺作である所以は、この不文律の掟を何食わぬ顔で破っていることだ。
この映画により最も慰められるのは創造者である宮崎駿監督自身だ。
こだわりが強すぎて作品より作者が前に出る作品はいくつかある。
だとしても、メッセージ性は確かに存在するがゆえに、届け先は確かに観客だ。その場合、創造者より癒される観客は確かに存在する。
だが、今作はいわば宮崎駿の走馬灯の共有だ。スクリーン座席の最前線ど真ん中に鼻息荒く陣取るのは監督その人であり、上映終了後はクルリとこちらを向いて「わし(ら)、こんな感じで生きたよ?」と言わんばかり。
恐らくだが、『君たちはどう生きるか』を鑑賞後のもっともな感想は「お疲れ様でした。」ではなかろうか。
宮崎駿の走馬灯の追体験とは、詰まるところスタジオジブリの葬儀に他ならない。
『君たちはどう生きるか』は、映画を葬儀というカタチに昇華させた前人未到の作品なのだ。
これがぼくのなんとも形容し難い葛藤の中、脳汁と共に絞り出た感想である。
大量のお金を払ってもらって尚且つ労われる。
癒す存在の最上位に観客ではなく己を置いてもゆるしたくなる。
そして集いし、菅田将暉/木村拓哉/大竹しのぶ/久石譲etc…という第一級の日本の才能。
トム・ソーヤも腰を抜かす生前葬だ。
てか、国葬レベルの贅沢じゃね?
スラムダンクをちょっと真似してとか、映画産業の未来とかもっともなことを考えたこっちが間抜けだったぜ。葬儀に広告なんて打つわけねーよな。こん畜生。
…上等じゃん。国をあげて逝かせてやろーじゃねーか。
こちとら、あなたの作品にお世話になってると思ってんねん。
皆で終宴じゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
・・・という謎のテンションにさせられて一睡もできずにこのnoteを書いている。
今から観に逝く人たちのためのTips
ということで、スタジオジブリ最新作『君たちはどう生きるか』をより愉しめるような鑑賞前のポイントをば💕
兎に角、
映画=コンテンツ、という思い込みの眼鏡を外す。
に尽きる。
今作が提供してくれるのは、コンテンツ(ストーリー)ではなくコンテクスト(宮崎駿の創作史)の映画体験。
従って、今作単体の視聴ではなくこれまでのジブリ映画全てを一つの作品として見ることをオススメする。
作中には過去作を彷彿とさせる器具やカメラアングルが頻出。
また個人的に一番の注意事項は、子供ウケが抜群に悪いように思われる点だ。理由は、何を隠そう度肝を抜くわかりにくさ。
2時間4分の上映時間を以てしても絶対に全ては「わからない」。
場面の隅から隅まで宮崎駿という創造者の歴史がギュウギュウに目一杯詰まっている。濃度120%の宮崎駿。120ぱーやお。
登場人物の感情の勾配や物語の筋などは???となり、世界観も限りなく抽象度が高い。
観客に決して優しくはない。
言うなれば、いきなり漫画の最終巻から読むような、木の棒で魔王に挑むような顛末になりかねない。なので、お子様連れの方は要注意。
「ジブリの最新作を見に行こう!きっと楽しいよ!」と言うよりは「ジブリの閉幕を見届けに逝くよ!これは日本人の責務よ!」が適切な誘い文句かと。
とは言え、ジブリらしい可愛らしいキャラクターがわらわら出てくる。
ジブリ史上最も癒し系なのでは?と微笑ましい存在なので必見だ。
こんなにも人間的な伝説の終わり方
コンテクスト(宮崎駿の創作史)が映画になったというと、自慰行為と揶揄されてしまうかもしれないが、自傷行為の側面の方がかなり強いようにも感じられる。
この映画が、
「後継者育てられなかったよー!!!!」
「こんな世界しか遺せなかったよー!!!!!」
と叫びたがっている宮崎駿の魂の慟哭を生々しく吐き出しているように思えてならなかったから。
強烈なカリスマの元で人は育たない。
近すぎる太陽の下では生命が枯れるのと同じことだ。
宮崎駿は創造において非常に興味深い発言をしている。
こういった感覚の作り手は、作品を支配していない。
代わりに、作品に関わる人間を支配する。
人間から作品を護るためだ。
カリスマとは、己の自我を以てして、他のあらゆる自我を寄せ付けない聖域を守護することに長ける。
作品を育てられても、人を育てることはできない人々のことを指す。
そして、護る人は場から動けない。自分の掌の外側で壊れゆく世界をただ見届けるしかできないのだ。
そんな悲壮な諦観は今作を包む独特な死の気配へとつながっている。
どんな人間も終わりを避けられない。カリスマとて例外ではない。
稀代のカリスマである宮崎駿が、創造者としての幕を自らの手で下ろそうとする、歴史的瞬間に立ち会えたことは本当に光栄なことだ。
始めることより終わらせることの方がよほど難しい。
生き様は選べるけれど、死に様は選べないとよく言われるように。
でも、彼は。ぼくたちに一つの終わらせ方を示してくれた。
自ら逝くその選択を、映画としてぼくたちに魅せてくれたのだ。
何より映画の下で奴隷として珠玉の物語をぼくたちに紡いでくれた彼は、
ようやく自分のために映画を作れたのではないだろうか。
やっと"映画の上に立つ"ことが叶ったんじゃないのか。
そして、それを単独出資という形で聖域を創り、商業的意図や関係者のあらゆる自我を跳ね除けたのならば。
鈴木さんは粋だなぁと痛み入る。
改めてになるが、僭越ながらこのnoteでは
『君たちはどう生きるか?』をストーリーとして楽しむだけでなく、宮崎駿の創作史を走馬灯のように味わうことを提案したい。
自分の走馬灯ならいざ知らず。他者の走馬灯なんてそう観れるものではない。ましてやそれが、伝説の創造者なら尚更だ。
それでも納得が行かない人たちもいるに違いない。
しかし、人間という創造者として生きる以上いずれこう問われる時が来る。
「君たちならどう終わらせるか」
次はあなたの終わり方を魅せる番だ。
この御恩は100万回生まれ変わっても忘れません。たぶん。