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【子育て】早期教育の是非〜英語編〜

今は早期教育ブームらしい。

たしかに、私の周りでも、0歳から幼児教室に通っているとか、そんな話が耳に入ってくる。

ちなみに、我が息子(1)には、「頭が良い子に育ってほしい。」なんてことはこれっぽっちも思っていない。
それよりも、心身ともに元気いっぱい楽しく生きていってほしいと切に願っている。

それなのに、「早期教育」に少し心がザワザワしてしまう、そんな頼りない母親の私が、育児書等を読んで考えた「早期教育の是非」について何回かに分けて書いていこうと思います。

今回は「英語だけは早いうちからやっておいた方が良い。」と信じて疑わなかった私が「英語だって早いうちからやる必要はない。」と思うに至るまでの話を、3冊の育児書を引用しつつ書いています。

* * *

大学入試のときに英語(特にリスニング)に苦労した私は、「小さい頃から英語をやっておけば苦労せずにすんだのでは?」と、私が母になるだいぶ前から思っていた。
そして、息子が生まれてからというもの、親としては息子に良い大学に行って欲しいなんてこれっぽっちも思っていないけれど、もし、息子が勉強を頑張りたいと思ったときに、小さいうちから英語を身につけておけば、私みたいに英語に苦労せずにすむに違いない!と、目を輝かせて思ったのである。
そう思って、息子が1歳を過ぎたあたりから、「0歳からはじめる英語」的なものを調べれば調べるほど、「日本語を覚える前から英語をはじめると、頭の中で1度日本語を思い浮かべて英語に変換するという作業をせずにすむ。」「6歳までに英語で日常会話ができるようになる。」そんな謳い文句に煽られて、「早くせねば!」と謎の焦燥感すら覚えてしまった。
夫はというと、「これからはAIが言葉の壁を乗り越えるから英語なんていらないと思うよ〜。」と呑気なことを言っていた。これでは埒が明かないと、独身の頃に貯めた定期預金を崩しかけたところだった。

そんなときにたまたま読んだ、慶應大学医学部小児科教授の高橋孝雄先生の「小児科医のぼくが伝えたい 最高の子育て」86頁(電子書籍版)に書いてあった以下の1節を読んで、私は頭を殴られるような思いがした。

グローバルな世の中を渡っていけるように、国際的な舞台でも活躍できるように。謳い文句はたくさんありますが、英会話を子どもに習わせたいのは、実は親が英語をしゃべれないからだったりしませんか。

私は「自分ができなかったことを子どもに託す。」ということだけはしたくないと思っていた。
それなのに!
結局は、英語だって、「自分ができなかったことを子どもに託す。」ことに他ならないのだと気付かされた瞬間だった。

同書には続けて

「自分たちが話せなくて苦労したから、子どもには英会話をマスターさせたい」 まだ日本語もおぼつかないうちから英語の歌詞のCDをそろえたり、ネイティブスピーカーのいる英会話教室の幼児クラスに通わせたり。子どもの英会話習得のために、たくさんの投資をしていませんか。 せっかくですが、それはたいていうまくいかないようです。なぜなら英会話は、子どものころに習っても日常的に使わなければ忘れられてしまうものだからです。 英会話のレッスンはいつから始めるのがいいかは、さまざまな意見があるでしょう。個人的には日本語をきちんと話せるようになってからだと思います。

とも書かれている。

これは「英語は早くはじめればはじめるほど良い。」と思い込んでいた私にとっては衝撃だった。

そこで、「早く英語をはじめなきゃ!どの教材にしようか?」といった視点から一転、「英語だって早くはじめればはじめるほど良いなんてことはないのではないか。」という視点で検討してみることにした。これは私にとってのコペルニクス的転回と言っても過言ではない。

上記の本以外でも、医師の田中茂樹先生の「子どもが幸せになることば」57頁(電子書籍版)には、お子さんが生後6ヶ月頃からイギリス人の大学生をベビーシッターとしてホームステイさせ、お子さんをバイリンガルにしようとした際のご自身のエピソードが掲載されている。

2歳になる前に、大人が英語で話していると「ちゃんとしゃべって!」とはっきりと文句を言うようになりました。彼の言う「ちゃんと」とは、「英語ではなく日本語で話せ」という意味でした。
(中略)
英語の発音がよくなるとか、LとRが聞き分けられるとか、日常の挨拶ができるとか。そういう表面的な話ではなくて、言葉というものがとても大切な根源的なものであることに気づかせてもらえたと思っています。

このエピソードを読んだ私も、言葉というものはコミュニケーションのツールである、ということをすっかり忘れてしまっていたことにハッとさせられた。
私は大学受験のときに英語で苦労したのだが、それは、コミュニケーションのツールして英語を学んでいたのではなく、単なる受験科目として学んでいたからではないか、と思った。
現に、私は大学生の頃に、イタリア人と英語でチャットをして、ほとんど会話が成立していたし、洋画にハマって、ずっと字幕で観ていたら、かなり聴き取れるようにもなっていたし、そんな頃に受けたTOEICではそこそこの点数が取れていたのだ。
まさに、英語が「受験科目」から趣味の領域へとシフトしたことで、生活の中で英語を学べていたのだろう。
私はそんなことを思い出した。

そして、同書には、続けて、

かつて共同研究などでお世話になった大津由紀雄先生は、日本の言語研究の第一人者ですが、小学校から英語を教えることにずっと反対されていました。その理由は、言語の基礎は、根幹は日本語でも英語でも共通の部分が多いから、まずは母語をしっかりと身につけることで、「言語の力」を育てる。それがあれば、その後、他の言語でもしっかりと学んでいけるということを、脳の仕組みや認知心理学の知見から確信しておられたからです。

との記述もある。
私自身は、早期英語教育、というより、早期教育は一切受けていない。
でも、物心がついたときから絵本が好きで、よく両親に読んでもらっていたことを今でも覚えている。
さらに、私は、ひとりっ子で、かつ、両親が自営業でいつも一緒にいてくれて、祖父母や親戚と集まることも多かったから、いつも誰かしら私に話しかけているような環境で育った。
そんな私は、小学生になる直前には、図書館で四字熟語の漫画を借りるほど、国語が好きな子どもに育った。
小学生の頃から大学受験までずっと国語は得意だったし、小学生の頃は数え切れないくらい作文で選ばれたし、新聞に載ったりもしたし、中学でも高校でも、文を書いて褒められないことはなかったように思う。私のことを露骨に嫌っていた高校1年のときの担任なんて、私の読書感想文を読んで、「きみ、こんな文書が書けたのか。」とわざわざ言いに来て、それ以来、すっかりその担任のお気に入りになったほどだった。
大学でもレポートや卒論を書くことにも何の抵抗も苦労もなかったし、今でも仕事で専門文書を書いている。
私は、すっかり見落としてしまっていたのだ。
私は、英語では苦労したけれど、国語では一度も苦労しなかったということを。
なんなら、今この瞬間ですら、趣味で文を書いているではないか。

人間、というか、私はいつもないものねだりだ。
あやうく重要なことを見過ごすところだった。

そして、もう1つ、92歳で現役保育士である大川繁子先生の「92歳の現役保育士が伝えたい 親子で幸せになる子育て」135頁(電子書籍版)によると

相談 英語教育をすべきかどうか悩みます →子どもの想像力を育てるため、まずは「日本語」をじっくり育てましょう 
「幼少期は、英語学習よりも日本語の語彙を3000語覚えさせることが大切」 勉強に行った講演会で、ある学者さんがこんなふうに主張されていました。英語学習についてはさまざまな議論がありますが、私もこの学者さんとおんなじ考え。
(中略)
ただ単純に個人的に、感受性が豊かなときにまず日本語の豊かさを伝えたいと思うのです。それが子どもの想像力につながると信じています。
(中略)
私、豊かな日本語がとても好きです。 おんなじ「雨」でも、「シトシト降る」「ザーザー降る」「ポツポツ降る」で、目に見える情景がガラリと変わるでしょう。絵本を聞いている子どもたちも、言葉の機微を受けとっているな、それぞれの情景を頭に浮かべているな、って感じますから。 だから私は、少なくとも保育の現場では日本語を大切にしたい。 美しくておもしろい語彙にたくさん触れることで、想像力の豊かな人間になってほしいと思っています。

との記述がある。

私も日本語は好きだ。
3年前に、夫と東北一周旅行をした際に、山寺で松尾芭蕉が「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」を詠んだ場所に立ったとき、「ああ、こういうことか。」と子どもの頃から知っていた一句の言わんとしていることがようやく分かったのだ。
このとき、「私は日本人として生まれて良かった。」とすら思った。日本語でないと山寺のあの場所の厳かさは表現できないと思うのだ。

息子にもまずは母語である日本語をしっかりと身につけてほしい。

私はこう思うに至ったのであった。

早期英語教育については、様々な意見があることは承知しているし、私は誰かに「早期英語教育はしない方がいいよ。」とか、「早期英語教育は必要ないよ。」とか、そんなことを言うつもりはない。

私は、息子が「英語をやってみたいな。」という意思が芽生えるまでは、私から勝手に英語教育を施したりはしないことに決めた。

現に、一時期は、シナぷしゅの英語コーナーは体を揺らして楽しんでいたり、ノンタンABCの絵本を指差して私に発音させたり、と英語に興味津々だったのに、今では、すっかり数字マニアだ。

私は、息子が心身ともに元気いっぱい楽しく生きていってくれたら、とそれだけを願っているのだけれど、あわよくば、息子が「このために生まれてきた。」と思えるような好きなことを見つけてくれたらなあとも思う。

だから、私が先回りして息子に何かをさせるのではなく、息子の好きなこと、やりたいことを応援してあげる、そのスタンスだけは持ち続けたいと改めて思った。

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