彗星論 #20180610 「SAMURAI BLUEとともに」

いま、自分は、ある特別なかたちでサッカー日本代表「SAMURAI BLUE」(以下、「代表」)と関わっています。
おそらく、日本でも、世界でも、前例のないかたちで。
それは、間接的であり、直接的でもあり。
そんなサポート的なものを、3年続けてきました。

詳細や身分を公にはできません。
言えるのは、協会会長、コーチ、選手、メディアそれぞれと接点がありますが、ここ12年ほどは、彼らと同じ組織には属してこなかった者、ということです。いわば、フリーランスのプロフェッショナルです。
サッカーのプレー経験はありません。
1992年のアジアカップを制した日本代表を応援していた、いちサッカーファンから、いまの立場になりました。


★以下、ワールドカップ本大会前の投稿を再掲載しました。
 ワールドカップの総括や舞台裏は、また改めて投稿いたします。
 
いま、代表が置かれている状況は、非常に厳しいものです。
2010年の南アフリカ大会前にも、同じような世論の評価を受けていましたが、全体的に欧米のサッカーに馴染んだ層が増えてきて、そのとき以上に辛辣な意見が見られるようになりました。
そして、なかには、現実から大きく乖離した論調や断罪も見受けられます。

いま、自分が訴えたいのは
代表と日本サッカー協会について
です。

協会については、紆余曲折あれど、近隣の国々以上の統括はされていますし、むしろ真の自律に向かって挑戦している段階にある。
長年「付かず離れず」の視点でみてきた自分は、そう思います。

理由は段階的に書き連ねていますが、このまま結果が残せれば、南アフリカ大会後のように、また皆さん掌がえしで「裏にそんな意図があったのか!」と、なるように思います。
いや、願っている、と言うべきでしょうか。
 
田嶋会長以下、協会の方々の全て存じ上げているわけではありませんが、少なくとも組織として、日本サッカー界のために、確実に未来につながる改革を進めているので、願わくば結果もそれについてきてもらって、世間も納得してもらえたら、と願っています。

ハリルホジッチ前監督の解任については、
「遅い!」「なんで今?」
多分、その想いがみなさん強いですし、田嶋さんも協会も、代表関係者も、言えないこと、何より、ハリルホジッチさんにとってネガティブに成り得ることは敢えて口を閉ざしていますので、あらゆる妄想が飛び交っていますし、敢えて田嶋さんたちはその矢面に立っておられているな、と自分は理解しています。

多分、田嶋さんの素性を知る人間は、そうそういないと思います。
自分は彼に恩義がありますが、彼に重用されて協会などのキーマンになった人間とは違って、彼にこれまで媚びたことは一度もないからそう言い切れます。 彼への恩返しは、彼の力の及ばないところで精進し、一人前になること、が自分の信条でした。
田嶋さんの自宅にも招かれて本音を伺うこともありましたし、ハリルホジッチさんを含め、過去の代表監督との深い絆も、表には出されていませんがよく知っています。
だから、ハリルホジッチさんは、協会や選手を批判しても、解任を決断した田嶋さん本人は名指しで批判していないはずです。

西野さんと田嶋さんは互いにライバルであり、逆に一番信頼のおける同時代の戦友・・・それが自分の印象です。
ですが、「ハリルホジッチさんを守る」「日本代表のために」「日本サッカー界のために」という想いは、Jリーグが既にあり、日本プロサッカー界ができあがって からこの世界に加わった自分などとは、到底比べものにならないほど強くて純粋だと感じてきました。
先週、西野さんと同級生でもあり、田嶋さんの先輩でもある、田中孝司さんと会ってきました。彼ら日本リーグ世代の方々が、日本のサッカー界に遺してきたもの、そして今尚衰えることないその想いは、多くのメディアやサポーターには、充分に理解されていないものだ、と自分は思ってきました。なぜなら、本人は決して公に主張しませんし、代弁できる人間も内輪にしかいないのですから。

思えば、あの「ドーハの悲劇」を現地で解説していたのは、元日本代表主将だった孝司さん。国内のスタジオでコメンテーターを務めていたのは、岡田武史さんと、古河電工での後輩・田嶋さん。
彼らが試合後に垣間見せたあの落胆ぶりは、代表のファンになって間もなかった自分が、「まだ自分はにわかファンだ」と温度差を自覚するほどのものでした。きっといつまでも脳裏に焼き付いています。
だからこそ、彼らの想いに負けないよう、自分も、と思うのです。

自分がフリーになって活動しているのは、何のしがらみもなくそれを伝えたい、という思いもあるからです。

田嶋さんは、アメフト界の内田某やレスリング界の栄某のような指導者を排除するため、ドイツで学んだライセンス体系を日本に反映し、S級ライセンスを頂点とする改革を行ってきました。そして、協会内部の事務方の人間としてではなく、指導者としても尽力されました。筑波大学の蹴球部では、選手の中山ゴンさんや井原さんらを育て、ジョホールバルで岡田監督の右腕となった小野剛さんや現U-17代表監督の影山さん、さらには日本中で活躍するテクニカルのコーチ、を独り立ちさせてきました。
田嶋さん自身もU-17やU-19の世界大会に挑みましたが、指導者としての野心は西野さんたちに託して、当時、田嶋さんしかできなかったであろう協会内部の改革に注力されました。
積極的に他分野から人財を招いて、協会内の風通しをよくしてきました。
それまでの協会の重鎮たちのなかには、親族に事業を担わせたり、実業団時代の人脈を重用したり…と、あくまで個人的な見解ではありますが。

ケルン大学でまなばれた田嶋さんはドイツ語、奥様もフランス語が堪能です。また、欧米的な人柄なので、トルシエ監督やハリルホジッチ監督、彼らの夫人からも篤い信頼を寄せられてきました。彼らが日本の生活にフィットできたのは、田嶋さんご夫妻の存在が大きいのではないかと思います。他の監督ももしかしたらそうだったのでしょうが、なぜ彼らを挙げたかというと、非常に欧米人としてのプライドが高いように見えるふたりだからです。
彼らが大なり小なり、日本人の文化やメンタリティーを受け入れられたのは、田嶋さんを通して理解できたから、ということもあると自分は思っています。

そんな田嶋さんですが、ハリルホジッチさんやトルシエさんに媚びることはなかった。「自分の信条は日本代表、日本サッカー界の未来のために尽力すること。だから、それを託された彼らには、どんなサポートもしますよ」という想いだけだと思うのです。

その想いは、自分がお世話になっていた時代によく伺っていました。

まだ全盛期だったあるJリーグのチームを挙げ、「このサッカーでは、ここはいつか凋落する。でも、明日は我が身だけどね。」と、決して公にはできないことも自分に呟かれたり。
そんな距離に迎え入れられたのは、多分、自分がサッカー界の誰とも繋がっていなかったこと、田嶋さん以外にまだ接点がなかったこと、日本のサッカー以上に世界のサッカーに目を向けていたこと…などが理由だっただんだろうな、と自覚しています。
でも、自分はあるJリーグのクラブに招かれたので、田嶋さんや協会とは一線を引いて、いち駆け出しコーチングスタッフとして、そのチームの先輩たちに教えを請い、今に至っています。

それ以来、田嶋さんとは会ってもいませんが、遠巻きに彼の想いと目指すものには共感してきました。「本当に宣言したことを実現されていく方なんだなあ」と。それは、同じサッカーマンとしてだけでなく、ひとりの人間としても目標になる姿でした。

だから、田嶋さんの本心を知る人間として断言できるのは、世間が論じているような、保身を考えたり、スポンサーの機嫌を伺うような人間ではない、ということです。

田嶋さんの願いは常に「日本代表の成功」「日本サッカー界の発展」であって、それを共有している人間のひとりが西野さん。日本人同士で徒党を組むことなく、それぞれ独立して挑戦を続けてきたふたり。

彼らは間違いなく、ハリルホジッチ前監督を信じ、サポートしてきたはずです。
でも、自分もずっと主張してきたことですが、彼やトルシエ流のスタイルは、サッカー後進国で最も活きる手法。そして、それ以外の引き出しとして大きな実績はあまり知られていない。
「じゃあなぜハリルホジッチ監督に託した?」という方々もいますが、アギーレ監督のスキャンダルは突然でした。最終予選も近い。選手個々も海外で実績を積み、自律してきた。彼らをまとめあげられる適任者として、当時の強化委員長たちの最適解だったんだと思います。
しかし、監督もチームも生きていて、時々刻々と変化する。状況が変われば、違う一面を見せる。他の世界と同様に、誰しも自分の人生の行く末など想像できないし、断言できない。監督がどのような采配に傾くかなんて、最終的には誰もコントロールできない。
オフトさんやオシムさんやザッケローニさんは、どんなサッカーが日本人に適していて、彼らのスタイルとして遺してあげられるか、を考えていましたが、トルシエさんもハリルホジッチさんも、自身のスタイルを突き詰める、が身上です。
ラモスさんが「欧米の監督には興味ないね」とある番組で語られていましたが、その理由は「彼らのキャリアのためだけで、本当に日本のサッカーのために何か遺そう、という想いが感じられないじゃない。」という趣旨でした。その想いには強く共感できるものがありました。

日韓大会のときの代表を振り返ると、世界の舞台で闘っていたのは中田選手くらい。自国開催で期待も大きい。でも、予選免除されていて真剣勝負から離れている自分たちの実力には確固たる自信がもてない。だから、頼れるべき柱として、トルシエ流規律がフィットしたんだと思います。それでも選手たちには逡巡があった、と聞いていますが、あのフラット3のベースがなければ、空中分解していたかもしれません。

本戦前には「日本代表史上最高」とまで称されたドイツ大会やブラジル大会での敗戦を経て、アギーレ解任直後の代表の状況も、2002年前後と似ていたかもしれません。ハリルホジッチ流の「デュエル重視」「縦に速い攻撃」で、道筋が立ち始めた。

ここからが本題です。

日韓大会のとき、世界のレベルからみると、選手たちはまだ未熟だった。少なくとも、トルシエ監督の当時の経験値に比べたら。

でも、ハリルホジッチ監督と、現代表の主力との関係は、そうではないように思います。ハリルホジッチ監督も、欧州での舞台の経験、代表としてのキャリアは豊富ですが、それは何十年も前のこと。
個人的な意見として、サッカーの代表監督には、自身のサッカーの経験に加えて、その時代のサッカーの潮流を認知できる謙虚さや受信力も必要だと考えています。

本戦の切符を懸けた闘いのなかでは、そのアジア予選突破という目標のもとにひとつになれたでしょう。でも、それが達成されると、選手たちもそれぞれの想いや考えをぶつけてくる。
しかしそれは、短絡的に「自分を使え」「自分たちのサッカーをさせろ」というような意見では決してありません。
代表のベテラン勢がそれぞれのチームで関わっている監督やコーチや選手たちと比べて、ハリルホジッチ流には懸念する要素が多々あった。代表よりもレベルが高いサッカー、トレーニング、競争が、ドイツ、イタリア、スペインに戻ればあった。ワールドカップ本戦で闘うことになるであろう選手たちと日常のリーグ戦で相まみえ、「これはやばい」と思わないほうがおかしい。
「アジア予選は戦えても、本戦では彼らには通用しない。」
選手たちの危機感からくる叫びがあったはずです。

それでも、ハリルホジッチさんが描くものに、選手たちも共感できていればそれに従ったんでしょうが、なかなかそれを明示してくれない。Jリーグの選手たちだけが、自分も代表に選ばれたい一心で、ハリル流に忠実になっていった。

そして、ハリルホジッチはだんだんと意固地になっていき、海外組も支配せんと、ステータスを誇示するようになった。トルシエさんも、ハリルホジッチさんも、そうやってアフリカ諸国の代表を率いてきたわけだから、自然とそうなってしまう。

そして、具体的な理由に乏しいまま、「出場していない選手は呼ばない」という極めて曖昧な選考基準、「デュエル」といういつの時代も通用する概念の繰り返し…になっていったんだと思います。

それはそれでハリルホジッチさんの監督としての矜持でしょうから、誰も否定する権利はない。でも、それが「代表の現状に最適か?」「日本サッカー界の未来に最適か?」という評価になると、誰かがジャッジを下さなければならないはずです。

尚且、ハリルホジッチさんの指針は、一部の選手をリアルに苦しめました。自分の出場機会が常に得られるチームを求めたものの、移籍のタイミングが合わず、ポジションを失ったりしていた。リーグ戦でデュエルにこだわるあまり、怪我を長引かせてとうとう招集されなくなった選手もいます。

個人的な意見として、サッカーの代表監督には、自身のサッカーの経験に加えて、その時代のサッカーの潮流、その国のナショナリティやメンタリティを認知できる謙虚さや受信力も必要だと考えています。
当時のハリルホジッチ監督は、どうだっただろうか?と。
 

 
田嶋さんたちは、決定的な亀裂が表面化するまでハリルに託すことにしていましたが、そうした問題は、今年に入ってから顕著になりました。
しかし、大きな大会や遠征は既に終えており、ハリルさんの解任云々を議論する風潮ではない。
舵を預けた以上、田嶋さんや西野さんはハリルさんをたて、選手との溝を埋めようと尽力していたようです。

内部のコーチ陣もそれは公に語れませんし、ハリルホジッチさんを解任する明確な理由として、本人が納得できるものが乏しい。
おそらく、過去の会長であれば、そのまま本戦に挑ませていたと思います。

一方で、田嶋さんも西野さんも、もっと言えば同世代の方々は、いつかは日本人の監督・選手で、世界と闘える日が来ることを信じてやってこられた。
戦術の田中孝司さん然り、岡田武史さん然り、ラモスさん然り。
同じ時代に生まれていたら、きっと自分もそう願ってきたと思います。

それに、ブラジル大会以来、関係者には深い逡巡があったはず。前年のコンフェデ杯で、イタリアを追い詰め、歴代最高、世界標準、と自他ともに認められたような代表が、まさかの1次リーグ敗退。
田嶋さん自身が率いたこれまでのチームも、前評判が高いまま結果に恵まれなかった。

だから、二度と同じ轍を踏ませないよう、今こそ。
という決断だったのだと思うのです。

ハリルホジッチさんへの仁義や信頼以上に、
いまの代表選手たちのポテンシャルは、
日本サッカー界の未来を託すに相応しいレベルまでになった。
ブラジル大会の主力はさらに困難を乗り越えて成長し、
新たに世界で結果を残せる若手たちも育ってきた。

加えて、田嶋さんや他の方々も日本人最高の指導者として信頼を寄せる
西野さんが代表監督のポジションに近いところにいた、
ということも大きな理由だったはずです。

この状況の代表を背負え、
尚且、選手たちからもリスペクトされるる日本人は
西野さん以外に自分も思い浮かびません。

それに、もし西野さんが、
代表とは無関係のところにいたら、
きっと引き受けたりはしなかったでしょう。

大きな話にするつもりはありませんが、
そうした事実から改めて感じるのは、
歴史が変わる瞬間、時代が変わる瞬間には、
このように運命的で、予測不能の流れがあって、
その当事者たちに決断させたり行動に移させたりするんだと思います。

ドーハの悲劇からのこの日本代表の歩みを、
誰が正確に予測できたでしょうか?
そんな芸当、ドイツサッカー協会でもできないはずです。
彼らもまた、自国開催大会での失望を経て、
8年越しでプロジェクトをやり遂げた結果が
全国大会での優勝につながったのではないでしょうか?
オランダにしても、アルゼンチンにしても、
世界中の全ての協会も同じように
予想できない未来にむけて最善を尽くしているわけで。
 
 
どの世界、どの分野でも、過渡期には多くの批判を受けるもの。
でも、その先のイメージを誰よりも明確にもって、その到達点を信じ、失敗を恐れずに邁進する人間たちだけが歴史をつくっていくものではないでしょうか?
そのイメージが大きく、実現が困難なものほど、ネガティブリーダーがどこかしらから現れ、よってたかって言いたいことをのたまう。
あたかもそうすることで、自身のステータスを上げたがっているのか?と思えるほどに。
いつの時代も同じことが起きるんだな、といつも感じています。

今の世の中、想定内で事を進められることが立派だ、というような風潮ですが、未来の人間たちからみたら「あの時代は保守的でつまらない。自分たちのことしか考えて我が世の春を謳歌していただけじゃないのか?今の自分たちのために何をしてくれたのか?」と後ろ指さされやしないかと。

学生や批判的な人間に自分がいつも云うことですが、もし、想定内の範疇でことを進めたかったら、既に成功した事例の二番煎じをなぞるか、いくらでもリセットできるテレビゲームをやっててください、と。
でも、それでは、他人を感動させることはきっと成しえない。未来を拓くことも無理だと思いますよ、と。
そんな「まやかしの成功・夢・達成感」なんて。その違いが理解できる人間たちだけで協働できればいいな、と思っています。

価値観の異なる大人を変えることなんて到底無理ですし、そんな労力を費やせる余裕もない。
でも、共鳴し合える人間や、こどもたちになら、何かしら気づきの機会を共有できるかもしれない。

 
田嶋さんの実績なんて、ハリルさんを解任するまでは、正直興味すらありませんでした。
しかし、自分が日本サッカー界に対して頂いていた想いを、田嶋さんは決断されてその方向を向かうと腹を括られた。
だから、彼や協会、代表チームを支持します。
そもそも、いちサッカーファンとして、その気持に徹したいと思っていましたが、いまは偽りなく。

繰り返しになるかもしれませんが、
いつか、日本代表は日本人監督に託さなければならない。
いや、日本人選手たちが海外の舞台でここまで自律するのと同期しながら、どこかで託さなければならなかった。

ですが、今の代表選手たち以上に選手としての経験を持つ指導者いない。
また岡田さんでしょうか?
でも、本人は今治に骨を埋める覚悟らしいので、そのつもりは毛頭ないし、サッカーとしての幅も誰か別の方も指揮されないとそれ以上広がらない。

オフトさん、オシムさんの系譜で築きられつつあった日本人の特性を活かしたサッカーによって、一度でも世界で結果を残せていたら、もっと近道はできたかもしれない。それを指標にして、他の日本人指導者も胸を張ってそれに突き進めたはず。

成功者として、トルシエ監督、岡田監督が挙げられますが、どちらのスタイルも、当時のサッカー界や日本代表のレベルにおいての最適解であっただけのこと。未来永劫続けるに相応しいサッカーではなかったかもしれない。
前者のフラット3は、彼の右腕であるサミア監督によってベルマーレにも持ち込まれましたが、当時のJ2の舞台では通用しなかった。
後者の本田選手を偽9番にして守備的に挑む弱者のサッカーも、今の代表ではトップレベルの選手たちの長所を消してしまうばかりか、決して日本人の特性を活かしたものとは言えない。こどもたちの可能性を拓くような未来も感じられない。でも、当時のワールドカップを闘ううえでは、最も必要な戦略だったんだ、と。

不運にも、最も日本人的なサッカーとして昇華されつつあった、オフト、オシム、ザッケローニ各監督のサッカーは、様々な外的要因によって結果を出せなかった。
オフトさんのときには数秒でも交代選手たちが前線でキープできていたらあのドーハの悲劇はなかったし、オシムさんのときは彼の不運な病があった。ザッケローニさんのときは、海外組の疲労やコンディションが最悪だったうえに暑さが厳しい南米開催。
でも、それも含めて「再現性が乏しいサッカーの魅力」なんだと思います。

同じようなプレースタイルの、日本以上に選手もチームも海外での経験値が高いメキシコですら、ずっと本戦に出場していながらいまだベスト8どまり。
ルーマニアやブルガリアやスウェーデンは世界の檜舞台からひきずり下ろされてしまった。でも、フランスやベルギーはどん底から這い上がってきた。
そんな厳しい世界のトップレベルで、日本のサッカーは少しづつだけれど、進化してきた。東南アジアの発展も目覚ましいので、相対的には感じられないけれど。

それに、進化を続けていても、結果が得られにくい競技です。
どの瞬間瞬間をとっても、サッカーの歴史上、予想どおりといったケースはほとんどないと思います。

一度試合が始まれば、途中で仕切り直すタイミングが1度しかない。監督が関与できることなんて選手交代かポジション修正の指示くらい。
しかも、自由度が高すぎて、45分間のボールの行方なんて誰も予想できない。
よく言うのですが、他の球技よりも相撲に似ている、と。
立ち会いのあとの展開なんて誰も正確に予測できない。どっちが優勢で、どっちが劣勢かも、素人目にはわかりづらい。専門家がみて「こっちが上手をとった」と解説したそばから、外掛けで相手が勝っていたりする。
サッカーは、そのような勝負を、チーム全体や個で続けているようなものだと自分はあるときから悟りました。

勝利のシナリオや成功するためのセオリーは誰にでも描ける。
だけど、絶対にその通りになんかならない。
だから、少しでも勝利の確率を高めるためのスカウティングやトレーニングや準備をして臨む。
それでも半分は敗北し、願いは叶わない。

結局、サッカーって、そんなものなんだと思います。
予測不能だからこそ、ゲームや小説やらなんやかんやよりも深く、面白い。

サッカーと比べて、野球は再現性が高くてセオリー優位のスポーツだと思います。 それはそれで自分は大好きでプレーもしてきましたが、サッカーの魅力はまた違ったものとして愛しています。
でも、野球でも、筋書きのないドラマがあるから、人は心を打たれるんじゃないかと思うんです。

「誰が勝つかなんて誰もわからない。」

岡田さんも同じようなことを言われていましたが、彼はそのあとこう続けました。
「だからこそ、勝ち取ったときの嬉しさが大きいんだろ?
 結果なんて何の保証もないし、リスクを背負ってるからこそ、お互いに挑む価値があるんだろ?
 大金持ってラスベガスに行って何が楽しい?
 挑むものが大きいほど、予想がつかないものほど、ワクワクするんじゃねえかよ」と。

読者のみなさんは、ノンフィクションや他者がなにかを成し得た本を読まれていると思いますが、感銘を受けるものほど想定外の連続のなかで生まれるストーリーではないでしょうか?「江夏の21球」、最高でした。

当事者以外にとっては不可能だったり無謀と思えるようなことを、最後まで信じて真実にできたような挑戦。
それに比べて、巷によくある「成功者の○○」とか「成功から学ぶ○○」なんて、薄っぺらいものではないか?と思います。

岡田さんは、「最後は開き直りが大事」とも言っていました。

僕は学生たちに、以下を加えて話しています。
開き直ることは誰でもできる。
最善を尽くしたうえでの開き直りは何よりも強い。結果がでなくても納得できるし、絶対に成長につながる。
でも、何もしないまま、妥協したままの開き直りほど、脆いものはない。

それは、北海道の自分の師匠・倉本聰先生も言葉を代えて言っていたことです。
「大きい嘘はついていい。でも、小さい嘘は絶対についてはいけない」

先日のスイス戦では、こんなことがありました。
https://vimeo.com/274192829

以下、別の場所で自分が紹介したものの転載です。

「PKを与えたときの準備として
自分が居たチームには鉄則があった。

GKが弾いたりポストやバーに当たったこぼれ球を
相手よりも先に触ってクリアするために、
キッカーと同じ距離だけ助走をとって
ゴールめがけて突っ込もう、と。

一度サッカー界を離れて
久々に戻ってきてからというもの、
同じ守り方をしているチームを
ほとんど見たことがなかった。

プロアマ関係なくとても簡単なことなのに、
何故、どこも徹底しないのか?
不思議でならなかった。

勝負の行方なんて、
そうした「細部の詰め」に宿っていたりする。
なのに。
  
 
昨晩、
12年ぶりにそれを実践している選手を見た。
日本代表の長友選手。

ベンチには誠さんがいる。
西野さんもポイチさんもいる。
彼らは「細部の詰め」を怠らない指導者たちだ。
妥協ないその姿勢で、勝ちを手にしてきた人間たちだ。
 
長友選手はキッカーと同期して走りこんでいた。
おそらく日本中が失点を覚悟しているときに、
彼は何度もそのスタートポジションを
キッカーに合わそうと必死だった。

他の選手たちもそれとタイミングをずらすように
走り込んでいるように見えた。
たとえ長友選手の進行方向にボールがこぼれてこなくとも、
他の選手がそれをカバーできるように、という
周到に用意されたチームの狙いだと思う。
 
 
日本中が落胆したであろう結果はさておき、
スイス戦もトレーニングの意図や本戦へ向けての狙いが
各所にみられた。
 
わかり易いPKの守備だけ取り上げたけれど、
より専門的、実践的な進化は、
客観的に分析する視点からも
確実に期待を抱かせるものだった。
 
明確に結果として現れたものは少ない。
でもそれは、本戦でこそ表すべきもの。
そのための準備は充分感じさせる挑戦だった。

でも、細部を見極められない外野ほど
短絡的に罵る。

「決定力が」
「パスワークが」
「また失点して」 

じゃあ、あなたは、
自分の生業のなかで、
はじめから全てを成功させてきたのか?
と、質したくなる。

逆にそうした失敗が怖くて
勝負すらしていないんじゃないの?
だから他者の批判に躍起になっているんじゃないの?
と。

細部から読み取れないから
判り易く表面的なものだけを云々する。
「所詮、結果だろ」とは聞こえがいいが、
プロセスを語れない人間だからこそ好む常套句。
内田某なんて、その極みだと思う。
  
 
    
いよいよ本番まで残り1試合。
西野監督になってから
たった3試合しか用意されていないなかで、
できる限りのシミュレーションや
トライ&エラーを重ねている段階。
 
チームも選手個々も、
眼の前の敵と逃げずに闘い、
失敗を恐れずに挑み、
寧ろ失敗を良しとして
そこから上積みさせようと集中している。
国内の誰や彼やが
二の足を踏んでいるような姿勢では駄目で、
代表は率先して膿を出し切ろうとしている。
 
だから、
はっきり言って
本戦前の大勝なんて全く必要ない。
実際、そのように結果を残して
前評判が高かったチームほど、
本戦では結果を残していないことが多い。
アメリカ大会のコロンビア然り。
フランス大会のスペイン然り。
日韓大会のフランス然り。
ドイツ大会でも、南アフリカ大会でも。
そして、ブラジル大会の日本然り。
枚挙に暇がない。
 
 
勝利よりも敗北から
学ぶことのほうが多く、
それを乗り越えることによって
チームも個人も成熟していく。
 
 
どれだけの日本のメディアが
そんな論調で報道しているだろうか?
いま批判的に論じている人々は
日本代表に何を望んでいるのだろうか?
彼らにしか成しえない挑戦と勝利か?
自分たちと同じような批判と敗北か?
 
 
遥か遠くの地で
前進に無意味な雑音が届かなくなって、これ幸い。
届けるなら
彼らの背中を押すものだけにしたい。

でも、それすら必要ないかもしれない。 
 
ベンチにはサポートメンバーふたりの
頼もしい姿もあった。」

PKのシーンを引き合いに出しましたが、本戦へ向けてあらゆる準備が必要な状況下で、もしかするとないがしろにされがちなこの部分を、およそ今まで見てきた他のチームとは比べ物にならないくらい、徹底された守り方を見ました。
おそらく、流れのなかの攻守については、これ以上の意識の高さでトレーニングしていることでしょう。

自分は幸運にも、代表チームの内部も外部も知ることができましたし、ビジネスの世界もよく知っています。国や行政、民間の事業を、スポーツと無関係の分野で立ち上げたり、推進したりしてきました。

その経験を通してはっきりと言えるのは、ビジネスの世界より、サッカーの世界はより複雑で、困難で、深く、夢があり、誰しもを大人にし、あらゆる価値観の優劣や偏見を超越して共感できるもの、ということです。

俗世間的な嗜好に支配され、大して未来のことなど考えていない世間に媚びるようなビジネスの世界を以ってして、次世代に誇れるようなものは遺せない、と自分は思っています。少なくとも、今の資本主義の論理のうえでは。

ビジネスや行政の世界で今もてはやされている「PDCA」や「KPI」なんて概念も、自分が接点のある日本代表選手の話を聞けば、彼らは小学生のころから当たり前にやっていることだとわかります。
だから、方法論とかセオリーとか以上に、いかに実践や挑戦や自己否定からの成長や情熱が大事かということは、彼らの生き様が証明していると思います。

また倉本聰先生の言葉を借りますが、「PDCA」や「KPI」を突き詰めると、「アウフヘーベン」という概念に昇華されます。さきの日本代表選手たちは、単なる努力ではなく、まさにその境地に至っていました。
「昨日までの自分を、向かい合ったより高い頂きから見下ろすように否定することを心がける。そうすることで、螺旋状に上昇していく」
「PDCA」は高さを変えずにぐるぐるまわっているだけですし、「KPI」を掲げればあたかも何か成し得たような錯覚に陥って。
個人的には自己満の世界やないか、と思います。

別の現代表選手も、大学に通いながら自身のパフォーマンス向上に励んでいます。
他の選手も責任を背負い、逆境と向かい合いながら、自己を研鑽してきました。
いまの代表は、そんな選手たちばかりです。

自分が期待して止まないのは、いまの代表には、選手のみならずスタッフにも、そうした姿勢でサッカー界を生き抜いてきた人間が多いからです。
選ばれなかった中島や堂安、久保、森岡の各選手たちは、まだ彼らのレベルに至っていなかったのかもしれません。

そして、代表選手たちの経験値やサッカー観のほうが、日本人指導者よりも優っていた時期もありましたが、今の監督、コーチ陣も、歴代最高ではないかと世界に誇れます。

そんな彼らが全てを懸けて挑んで結果が得られないのならば、他のどんな人間が挑んでも駄目だろう、と。逆に彼らがこれまで懸けたきたものが報われるように、結果もついてきて欲しい、と願っています。

スイス戦で言えば、ここで格下をマッチメイクして、「自分たちのサッカー」を見せつけられたとして、本大会で結果を残せる保証なんてない。
寧ろ、本大会で出くわすであろう逆境以上のシチュエーションを、次戦に経験しておいたほうがいい。
パラグアイ戦はさらに厳しい状況が待っているでしょうが、そのほうが本大会へ向けたブラッシュアップにつながるはずです。

最後に、逆にこれを読んでくださったあなたに伺いたいのですが、ご自分のサッカー観にどれだけ自負できるものがありますか?
そのご自分の理論、方法論と比較して、いま、試合後の感情のほうが上回っていないでしょうか?

「ふがいない。見えてこない。」

言いたい気持ちはわかります。
かつて、自分がこの世界に入る前に感じがちだった想いです。
でも、これからは、そうしたお心持ちから、脱して頂きたい。

自分は、あるときにふと思いました。
「自分は、このなかなか結果がでない日本のサッカーについて、どれだけの意図や狙いを読みとれているのだろうか?」と。
「それを見出す力がないから、感情的になってしまうんじゃないか?」と。
他者を批判するより先に、自身のサッカー観を養うことのほうが有意義じゃなかろうか?と。

それからです。自分がこの世界に飛び込んだのは。
今はもう、サッカーについて感情が上回ることはありません。
田中孝司さん、堀孝史さん、手倉森誠さん、岡田武史さん、他の優れた指導者の方々も含め、勝利を手にした人間、代表で修羅場をくぐってきた人間は、たとえ感情が喚起されたとしても、それが指導や分析の視点より前面に出ることはありませんでした。
彼らは喜怒哀楽を超越しているように見えました。 

サッカーに関わる多くの人々がそのようになれたら、
理不尽な批判に終始する他国をよそ目に、 真のサッカー大国になれるんじゃなかろうか?と思うのです。
大半の方々にとっては、所詮、スポーツのイベントのひとつでしかなく、より短絡的に結果を見たいと望んでいるとも思います。
それを手にするためにどんなプロセスが必要か?それを理解できている人間はあまりいないと自分は感じています。

でも、本気でこのスポーツを愛するのであれば、
応援する側も、見守る側も、もっともっともっとサッカーの本質的な理解を深めるべきではないでしょうか?
それは、義務や責任なんかではなく、自ずから喚起されるべきもの、愛があるからこそ深めていけるものだと思うんです。

そのようなサッカーへの愛のもとに共感できる人間たちがいるとすれば、それはいま、現場にいる選手や監督、スタッフたちです。
プロのアナリストとしての客観的な視点と、
いちサッカーファンとしての願望とが一致した持論です。

彼らのなかには馴染みの人間たちもいますが、自分はチームのメンバーではないですし、あえて距離をおいて観察しています。
そのうえで、一番信頼できる存在、日本のサッカー界を託したいのが、
田嶋さんを含めた、今の彼らたちです。
だから、今こそ、底力を見せてください、と願っています。

★ここまでお読み頂き、有り難うございます。
 メディアにも取り上げられない本質を周知したく記載しました。
 今後もより深い部分の投稿を続けていきたく有料記事にしましたが、
 本投稿はより多くの方々に認知して頂くため、
 有料部分はこのあとのご挨拶1行だけ
 にいたしました。
 もし、本投稿に共感されましたら、寄付と併せてお読みください。
 
 

 
 
ご賛同頂き、誠にありがとうございました。これからもFootballの本質を伝える投稿を続けて参ります。

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