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悲しみとは大切なものを認める感情であるということについて。
本格的に写真を撮り始めてから約1年が経つ。
毎日の忙しない生活の中でつい見過ごしてしまう何かを目に見える記録として残しておきたいだとか、自分がこの世界を記録する感性を見つめ直し続けていたいだとか、コトの始まりはそんなことだったように思う。
写真を通して自分は何を表現したいのか。写真を撮るということが今の自分に対してどのような意味を持つのか。ふとした瞬間、心が動かされる景色と出会う度にシャッターを押し続けてきて、少しずつ自分が紡ぎたい表現の在り方が見えてきて、写真という趣味を介して人と繋がることや(何ともありがたいことに)仕事として写真の案件を受けることも少しずつ増えてきて。写真というものはいつの間にか、自分の生活に代えの利かない色の彩りを添えてくれるものになっていた。
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大切な相棒であるカメラが大破してしまったのは、つい数日前のこと。北関東の山奥地で星景写真に挑戦しようとしていた最中のことだった。半年以上愛機として使い続けてきた Fujifilm XT3 と、資金を少しずつ貯めに貯めて購入したばかりの単焦点レンズ 18mm F1.4 の組み合わせ。約三十万円分の機材を落下させてしまう事故だった。
根こそぎ折れたレンズのマウント部とカメラ本体。
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こんなにも悲しいのは「損してしまったから」だろうか。大学院での研究と複数の仕事とを掛け持ちしながら何とか独立生計をやり繰りしている自分にとって、修理に必要な金額は決して安いものではない。
こんなにも悲しいのは「愛着があったから」だろうか。大切な物を傷つけてしまう時の悲しみは、大切な人を傷つけてしまう時の痛みと少しだけ似ている。
でも、心を抉るようなこの悲しみの正体は、金銭の問題でも、愛着の問題でもない気がする。
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この1年間を思い返せば、写真というのは、不器用な自分が他の誰かと「繋がる」ことを可能にしてくれる大切な道具のひとつだった。
言葉の通じないアメリカのプレスクール時代。何とか馴染もうと努力を続けていた帰国後の小学校時代。目に見えない同調圧力に苦しんでいた中学高校時代。他の誰とも親密になれなかった気がした大学時代。
ひとの輪に馴染むのが苦手な僕にとって、集団から一歩だけ距離を置き、その集団の中に居る誰かの輝きを写真に収めるという行為は、ひとの輪の「外側」に身を置きながらもその「内側」にいるひとと密やかな関係の契りを交わし深めるための「必殺技」だったんじゃないだろうか。
もしかしたらカメラを破損してしまった時の悲しみの感情の正体は「ひとと何とかして繋がりたい」という自分の中の願いが叶えられないことに気付いてしまった、そんな絶望に近いものだったのかもしれない。
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側にある光を探し始めてから1年が経つ。この先は「写真」を自分の武器のひとつにして、フォトグラフとコーチングを組み合わせた新しい活動を仕掛けていくつもりだ。そんな今の自分は「なぜ写真を撮るのか」という質問に対して、どのような答えを返すのだろうか。
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誤解されることを恐れずに言いたい。
写真は、そこに差す光を遺すためのものである。
写真は、そこに在る物語を形にするためのものである。
写真は、そこに居る誰かと秘密の契りを交わすためのものである。
そして何よりも、写真は、孤独を愛する自分がひとと繋がり、ひとと関わり合うことの温もりを教えてくれる、唯一無二の希望の光である、と。