【短編小説】スピンシーラス
スタンドを埋め尽くす満員の客。
怒号にも似た歓声。
血の染みついた丸いリング。
逃亡を許さぬ無骨な檻。
「『こいつは私にとって最後の闘いだ』いや、それはできねえ相談だ。オレは闘う事をやめないぜ?」
「何を1人でごちゃごちゃ言ってやがる?」
「知らねえのか?『ゼム人の心は2つに割れているんですよ』」
そしてその区別が明確なほどリスペクトを受ける。
ロヴァルはゼム人の中でもそれが真っ二つに分かれた有数の男だった。
挑戦者はヒト族最強の男と銘打って紹介された巨漢だった。
体格だけならばロヴァルを遥かに凌駕する。
繰り出される風圧すら感じるストレート。
その巨大な拳をロヴァルはクルリとコマのように回転して躱す。
全身の鱗が逆立つ感覚にゾクリとした快感を覚えた。
勝敗を分ける一瞬。それは考えるより速く目の前を通り過ぎてしまうものだ。
ロヴァルの縦に細い瞳が相手を捉えた。
その情報は脊髄反射で左腕に伝わる。
相手の死角から遠心力を最大に生かしつつ浮き上がるバックハンドブローが繰り出される。
それが挑戦者のアゴを砕いた瞬間、全てが終わった。
マットに沈んだ大男にカウントは必要がなかった。
レフェリーがロヴァルの勝利を告げる。
「チャンピオンはロヴァル・ペル・ベリアー!新しいスピンシーラスの称号は彼の手に!」
スピンシーラス―その言葉はヒト族の古い言葉で火花を意味するものだった。
称号などどうでもよかったが、放たれたパンチが焦げくさい臭いを放っているとまで言われたロヴァルにとっては妙にしっくりくる異名となった。
再び沸き起こる巨大な歓声。
ただ殴って蹴って全てを手に入れる事が出来た日々。
目の前で火花が飛んで見えた。
火は大きくなり渦となって巨大な炎が立ちあがった。
ロヴァルの瞼が下から上へ瞬くその一瞬で辺り一面が火の海と化していた。
心臓が大きく脈打った。
妻は…アジェンはどこだ。
火の粉のカーテンの向こうに倒れた妻の姿が見えた。
ロヴァルは妻の名を叫ぼうとしたが声にならなかった。
「アジェン!」
夢とわかってなお、しばらくの間荒い呼吸を繰り返したままソファから身を起こす事が出来なかった。
窓から射し込んでくる陽光が煩わしい。
「ロヴァル、いるんだろ?」
階下から怒鳴り声が聞こえた。
時計を見ると約束の時間をとうに過ぎている事がわかった。
身支度を整え、1階に降りる。倉庫の吹き抜け部分の広大な空間の片隅にこぢんまりとした応接用のソファが置かれていて、そのソファに太った男―カピノが座り、傍らに手下の3人が突っ立って睨みを利かせている。
ステップを軋ませながら降りてくるロヴァルの姿を見て手下の1人が露骨に顔を強張らせた。
「見ない顔が1人いるが…」
ロヴァルが流暢にヒト族の言葉を操る事に驚き、その口内に並んだ鋭利な歯を見てさらに心をザワつかせる―初見のヒト族の反応は皆似たり寄ったりだった。
「新人でここに来たばかりなんだ。視線が気に障ったなら申し訳ねえ。だが知ってると思うがこの経済特区以外ではまだまだゼム人が日常的にヒトを食ってると信じてるヤツが多い。大目に見てくれよ」
ゼム人はほとんど忘れてしまってるがヒトの方は250年ほど前までゼム人の食糧になっていた事を忘れてはいない。
それはそれ以前の長い年月の間、国交を失い閉ざされた環境にあったヒトの存在をゼム人が認識しなくなっていた事に起因する。
ゼム人のハンターが彼らの主食のサルの仲間と勘違いしてヒトを狩るというおかしくも笑えない事件はヒトにとっての恐怖の記憶、恐るべき事件として語り継がれている。
「『ヒトだって大概だぜ。なんでも食いやがる』。お前は黙っていろ。ここは私の仕事場だ」
「あんたの中での話し合いは後にしてくれよ。こっちはだいぶ待ったんだ。取引を済ませたい」
「すまない。そうしよう」
ロヴァルは踵を返すと1階の奥-穀物庫の鍵を開け、中からガルメリル麦の俵を1俵ゆうゆうと担いで男達の待つ一角まで戻った。
細いにもかかわらず無駄な肉が一つもない筋骨隆々とした二の腕に男達は目を奪われる。
「毎回思うがすげえ力だ。なんかやってたのかい?」
「格闘技をかじった程度だ」
「そ、そうか。そのくらいじゃねえとここの番は務まらねえか」
ガルメリル麦はゼム人が主食の一つにしているありふれた穀物だったがヒトの国への輸出は禁止されている。ヒトが食した場合に限り酷い幻覚症状を生じるからだ。
ロヴァルは経済特区に住むゼム人用の食料として搬入されたガルメリル麦を横流ししていた。
カピノは中身をチェックしてから、それを手下達に別の容器へと移し替えさせて量を確認し、持ち出す準備を整えた。
ロヴァルの方はカピノから渡された革袋の中身を検める。
「おい、こいつはバッラザル金貨じゃないか。私はアルク金貨でと言ったはずだ」
「す、すまねえ。搬入経路で〈遺跡〉が暴走して通行できなくなっちまったんだ。来月は2倍のアルク金貨を用意できる…!ああ、ちょっと待ってくれ!これ!これをつける」
ロヴァルは顔をしかめ、鋭い爪の先でカピノの差し出したカードをつまんだ。
「この特区の中じゃどこでもフリーで飲み食いできるパスだ。国が発行してるもんだから心配無用だぜ。誰でも使える」
カピノの顔は愛想笑いで溢れていた。
「仕方ない。今回はそれで手を打つ。次回、同じ言い訳をしたら取引は金輪際中止だ。いいな?」
「あ、ありがてえ」
カピノは取引を終えるとそそくさと引き上げていった。
あの量でどれだけのヒトが人生を狂わせるのかは知った事ではなかった。
それよりもここでの情報収集が何よりも優先だった。アジェンの仇。その手掛かりを見つけるために。
吹き抜けの一番高い場所にある窓から割り込んできた陽射しが人気の絶えた薄暗いホールのただ一点を明るく照らしている。
それを見つめる自分の立ち位置が影の中にある事をロヴァルは否応なく思い知る。
「なんだこいつは?」
したたかに酔ったロヴァルが懐から取り出したパスを見てバーテンは凄んだ。
「んー?こいつを見せればタダなんらろう?」
ロヴァルの呂律は回っていなかった。
「オレの店では使えねえな」
「おい、バカにすんなあ。こいつはホンモノらぞ?」
「聞こえなかったのか?トカゲ野郎。オレの店でこいつは使えねえ」
「連れてけ」
バーテンは店の裏から顔を出したゴロツキ達に言った。
「おい、何人ら?よってたかっておまえらひきょーもんらな?」
ふらつく足でなんとか立ち上がり両拳を上げファイティングポーズをとるとゴロツキ達の先頭に立っていた男が何かに気付いた。
「こいつどこかで見た顔だな」
「ゼム人の顔なんて皆同じだろ?みんなトカゲ野郎だ」
「いや…こいつ格闘経験者だ。多分、2~3年前にここでやった交流試合に出てたぜ」
「あ?このフラフラ野郎が?」
「こいよお」
ロヴァルは込み上げる吐き気を堪えながら言った。
ゴロツキ達はそれを見てせせら笑う。すると、そのうちの1人が唐突にロヴァルにボディブローを叩きこんだ。
くの字に折れ曲がりながら悶えるロヴァルを見てバーテンが冷ややかな目つきで「店を汚すなよ」と言った。
ロヴァルは脇を抱えられ、数人の男達に囲まれて店の外に連れ出されると、そのまま店の横の薄暗い路地へと引きずり込まれ、ゴミの山へと投げ捨てられた。盛大に生ゴミが散って、辺りはハエと腐臭に満ちた。
「…ってえなあ」
「こんなヤツが本当に出てたのか?試合」
「いたと思うぜ。オレも出てたから見覚えがある。ただ、あん時はトカゲ野郎共の卑怯な真似の方が印象に残っててよ。ヤツらヤクやって独り言ブツブツ言いながらひでえ暴れようだったのよ。まともな試合になりゃしねえし、とんだ災難だったよ」
ロヴァルの人差し指がゆっくりと男を指した。
「てめえ、さては1回戦負けらろ」
それを聞くやいなや男は怒りの形相で壁に立てかけてあった廃材を蹴り倒した。
それはバラバラと倒れロヴァルの体を打ち、額を割り、流れ出た血はロヴァルの視界を奪った。
「口には気をつけな。ここはリングじゃねえんだ」
目に入った血を拭うロヴァルに男は強烈な蹴りを見舞う。
別の1人がロヴァルの胸ポケットに手を突っ込んだ。
「なんだよ。多少は持ってんじゃねえか」
ゴロツキ達は有り金全てを奪うとゲラゲラと笑った。
その後もやむことなくロヴァルに対する殴る蹴るの暴行は続いた。
懸命に立ち上がり、反撃を試みたロヴァルのパンチは酔いの回った状態ではゴロツキの1人が咥えていたタバコを叩き落す程度。中途半端な反撃は火に油を注いだだけだった。
冷たい路面に顔を押し付けられロヴァルは呻き声をあげる事しかできなかった。
「オレ、トカゲの鳴き声初めて聞いたぜ」
「ああ、俺もだ」
「気持ちわりいな」
転がっていたタバコがゴミを焦がしていくのが見えた。ポッとあがった小さな炎はやがて霞んで見えなくなった。
「ねえ、ロヴァル。夢を叶えてくれてありがとう」
アジェンは陽の光を浴びて輝くガルメリル麦の畑を見つめながら幸せそうに笑う。
美しい金色の眼。
見る角度を変えると虹色に煌めく鱗。
アジェンは美しい女性だった。
「『格闘技は続けてえところだったがよ』。黙っててくれ。大丈夫だ。僕はアジェンのために生きたい。そしてこいつもそれは同じなんだ。その点に関しては確実にね。だからこそこいつは僕に主導権を渡した。だな?『ああ、合意した。アジェン、お前のためさ』」
「あたしも続けて欲しいと思ったけど、あたしはあなたほど美しく心が2つになっていないの。迷ったわ。でも…あたしは正解だったと思ってる。闘いのない日常は辛い?」
「言ったろう?君との生活が最優先だって。僕はそのためにここに家を建てたんだ。忘れたのかい?」
幸せだった。
アジェンのいる世界が全てだった。
あの男が来るまでは。
「初めましてペル・ベリアーさん。私はコスタス・ツァベラス。あなたの作った麦をぜひうちの店で扱わせてほしい」小柄で人当たりの良さそうなそのヒト族の男は柔和な笑みを浮かべつつ流暢なゼム語でそう切り出した。
掲示された額は市場価格の3倍以上だった。ロヴァルとアジェンは逆に訝った。
そもそもヒトにはガルメリル麦は売れない。
ロヴァルはその場で丁重に断りを入れた。
わざわざヒトの身でありながらゼムまで足を運び買い付けに来た熱意は買うが法は犯せない。
そしてその夜だ。炎が全てを奪ったのは。
アジェンと作り上げた小さな幸せは一瞬にして凄まじい炎の中にあった。
2階の寝室にいたロヴァルは狼狽える妻を抱きしめた。
猛烈な勢いで増す黒煙。
肌を焼く熱風。
ゼム正規兵の持つフレイムグレイブを何千本も束ねたかのような凶悪な炎。
「『このままじゃ死んじまうぜ!』窓から飛び降りよう」
ロヴァルは窓を開けようとしたがビクともしない。焼けて崩れていく家自体の歪みが窓枠を変形させてしまっていた。咄嗟に椅子を持ち出し、窓を破壊した。
「ロヴァル!」
アジェンの恐怖に満ちた表情。それがロヴァルの前で彼女が見せた最後の感情。
彼女を抱きかかえて炎に追われるように跳躍する。
着地した直後だった。
2人は一斉に矢を浴びた。
その頭上に焼け落ちた家屋がなだれ落ちてきた。
無数の火の粉が舞い降りてきて口元から血を流し絶命した妻の顔を覆い隠していく。
「……っつ」
肩を打つ感覚は炎に包まれた柱で打たれるよりも遥かに優しかった。
「おじさん、大丈夫?」
瞼は僅かに隙間が空く程度にしか開かなかった。
その筋のような世界に幼いヒトの子供の姿があった。
ロヴァルはゆっくりと上体を起こした。
朝の陽射しの中、活気づくメインストリートがやけに遠く見えた。
「ガキには関係ねえ」
「1人で歩ける?」
「そんなにひでえか?」
「ボコボコだよ」
遠くから見かねたヒト族の大人が「小僧何やってんだ!食われちまうぞ!」と言った。
「大丈夫だよね?」
「食いはしねえ。だが知らねえ大人の言う事は信用すんじゃねえ。オレを含めてだ」
「わかった」
だが少年はその場を動かなかった。
「わかったらさっさと行けや」
「わかったからここにいる。信用しちゃいけないんでしょ?おじさんは知らない大人だからね。僕は僕の判断でここにいる」
ロヴァルはわざと大げさに牙を剥いてみせた。切れた口の中が盛大な痛みで動かすなと抗議の声をあげた。
おそらく顔は血まみれ。大の大人でもヒト族なら腰を抜かすだろう。
だが少年は少しのけ反っただけで逃げなかった。
「オレが怖くねえのか」
「怖かったらこの街で生きていけるもんか。もう子供じゃないからね」
「てめえ、名前は?」
「マリオス。おじさんは?」
「ロヴァル」答えと同時に立ち上がろうと膝を立てた。「…痛っ」
「肩を貸すよ」
小さな少年は真剣だった。
ロヴァルはマリオスの肩に少しだけ指先をかけ、ゆるゆると立ち上がった。
今すぐしゃがみ込みたい程の激痛が体中から一斉に生じた。
「じゃあな、助かったぜ」
「病院行きなよ」
ロヴァルは小さくNOと手を振った。
「知らねえ大人は信用できねえ。てめえを含めてな」
その信頼しきった笑顔を避けるようにロヴァルは少年に背を向けた。
数日後、ようやく痛みもひき始めた頃、カピノがひょっこり顔を出した。取引はまだ先のはずだった。
「いい儲け話を持ってきた」
いつもの手下達がおらずその顔はいつも以上に脂汗に塗れていた。
理由が後ろに控えた2人の男にあることは想像がついたが、ロヴァルはあえて無視した。
面倒はごめんだ。
「あんたの話は当分聞きたくないよ。あのクソパス返すから帰ってくれないか」
「なんだい?冷たいじゃないか。それにその顔…ケンカでもしたのか?」
「なんだ、お前か。管理人てのは」
「し、知り合いで?じゃあ、話が早い…」
得意の下手くそな愛想笑いを懸命に作ったカピノは、しかし、そっけなく脇に追いやられ、後ろからずけずけと前に出たあの日の酒屋のバーテンがソファにどっかりと腰を沈めた。
「ヴルサイだ」
この街の元締め連中の1人だ。裏社会では知られた名だった。
もう1人はロヴァルを試合で見たと言っていたあのゴロツキだ。
「無銭飲食で怒鳴りこまれる覚えはないが」
「あ!」ゴロツキが突然声をあげた。
「どうした?ドニス」
「こいつスピンシーラスですよ!3年前のゼムとの対抗戦で統一チャンピオンになった…」
「へえ?こいつがあの八百長チャンピオンか」
「こんなところで仕事をしてるとはねえ。ヤクのやりすぎでガタが来たんだろうが自業自得だぜ」
ゴロツキ―ドニスはロヴァルの顔を見ながらニヤニヤと笑った。
「まあ座って話をしようぜ?今となってはクズ同士仲良くしようや」
ロヴァルは微動だにしなかった。
「まさか、まだこの前の事根に持ってんのか?次からはゼム人でも特別にあれ使えるようにしてやるからさ、水に流せよ。それにだ」ヴルサイは楽し気に身を乗り出して続けた。「こいつはデカい儲け話だ。つまらん事にこだわってフイにしたら後悔するのはお前だぜ?お前は俺に間違いなく感謝するんだ」
「私が?」
ヴルサイは満面の笑みを浮かべ、アゴでドニスに合図を送った。
ドニスは担いでいた大きな袋をテーブルの上に降ろした。小さな天板がたわんで嫌な軋み音を上げる。
上部で固く結ばれた紐を解くと中から見覚えのある少年が顔を出した。
猿轡をはめられ、泣きはらしたマリオスと目が合う。途端にその目に希望の光が満ちるのを見てロヴァルは舌打ちした。
「断る。私は人身売買は請け負っていない」
「おい!」
ヴルサイがテーブルを蹴るとマリオスが袋ごと大きく揺れ、くぐもった悲鳴が上がった。
「よく考えろ。ここのチンケな横流しなんぞ足元にも及ばねえ取引だ。お前らゼムも食用ザルの肉より柔らかいヒトの子供の肉の方が好きなんだろ?」
「これをゼムに?」
ロヴァルがそう言うと話が前を向いたと考えたのかヴルサイは途端に笑顔を取り戻した。
「そうだ。簡単な仕事だろ?」
「ああ、簡単だな」
その返事を聞いたマリオスの目から希望の光が失われ、次いで諦め、そして絶望へと変わっていく様子が手に取るようにわかった。
「だが他を当たってくれ。私の仕事じゃない」
ヴルサイの額に青い血管が浮かび上がった。
「気取るなよ、底辺。もう遅いぜ。お前はもう品物を見ちまった。どういう事かわかるな?」
「感情の変わりようが面白い。あんたの顔を見世物にした方がゼムじゃウケるだろう」
「なんだと…?」
「やめとけよ、ロヴァル。この人を怒らせたらブツの横流しもできなくなっちまうんだぞ?」
頭から水を被ったような大量の冷や汗を滴らせながらカピノがロヴァルをなだめる。
ロヴァルはため息をついた。
「賢く生きろよ、底辺。次に俺を馬鹿にするような事を言ったらここの仕事を失うだけじゃすまねえぞ?」
「いつ?どこで?誰に?」
「ゲルドスの尖塔。そこでニル・ケスルというゼム人に渡せ。〈ツァベラスからの贈り物〉だと言ってな。日にちは追って知らせる」
ツァベラス―その名を聞いた途端、全身を駆け巡ったあまりの衝撃にロヴァルは一瞬意識が飛んだ。
全てを奪い去った男。
「『おい、俺が出てもいいよな!』黙っててくれ。まだ私のターンだ」
「なんだ?」
「あんたの言う通り私はあんたに感謝しなきゃならないかもしれない。ツァベラスはあんたの知り合いか?」
その質問を口にした途端、ヴルサイの顔から表情が消えた。
「お前はだめだな。ドニス!」
ヴルサイが立ち上がると同時にドニスがマリオスをテーブルから引きあげた。
「待て。取引はいいのか?」
返事の代わりにドニスがテーブルを蹴り上げた。
ロヴァルへと向かって勢いよく飛んだそれは、しかし、空中で見事に四散した。
カピノが上げた悲鳴がホールにこだました。
「闘いのある場所がオレのリングだ」
ロヴァルの蹴りの破壊力をドニスは信じられない目で見つめていた。
「こ、こいつは殺し合いだ。残念だったな!」
突き出されたドニスの右拳にはいつの間にかナイフが握られていた。
パンチを想定して躱すモーションに入っていたロヴァルの頬が浅く切れる。
休む間もなく鋭く繰り出されるナイフを素早く躱しながらロヴァルは後退し、床に転がったままのモップを足ですくい上げると素早く手に取って鋭い突きを放った。
柄の先が躱そうと動いたドニスの右肩にヒットし、ナイフが零れ落ちる。
だがドニスは痛みを堪えながらモップの柄を掴み、素早く手繰り、間合いに入るやいなやロヴァルの右へ蹴りを放った。
モップを離し、上半身を狙ったその蹴りを腕でガードするロヴァル。
対してモップを奪ったドニスは今度はそれでロヴァルを打ちのめしにかかった。
ロヴァルは迷うことなくさらに後退する。
壁際まで後退し、追い詰められた状態でもドニスの振り回すモップを躱し続ける。
空振りしたモップが壁に叩きつけられた拍子に折れるもドニスはその折れた先端で容赦なく突きにかかる。
横へ転がって躱すロヴァル。
「そいつを待っていたぜ」
転がる方向を読んでいたドニスは折れた柄で串刺しにすべく渾身の力で振り下ろした。
だがロヴァルはドニスの予想を遥かに超えた速さで起き上がりそれを躱す。
態勢を整わせたくないドニスは必死で再度突きを放った。
瞬間、ロヴァルの体がクルリと今度はコマのように回った。
突き出された柄に沿って回るような滑らかで美しい身のこなし。
響き渡った鈍い音はまさに骨が砕かれた時のそれだった。
ロヴァルの左バックハンドブローが鮮やかにドニスのアゴを捉えていた。
脳を激しく揺さぶられたドニスは白目を剥いて膝から崩れ落ちた。
「スピンシーラス。あんた達がくれた称号意外と気に入ってるぜ?」
カピノが腰を抜かし、ヴルサイはマリオスを抱えて逃げ出そうとしていた。
その鼻先を折れた柄が掠め、ヴルサイはひいと悲鳴を上げた。
「確かに食用ザルより毛のないサルなんて食べやすくてしょうがねえ。生が一番だぜ。クズは消えても困るやつはいねえしよ」
「ひいいいい」
ロヴァルはヴルサイのシャツを破り、肩に噛り付いた。本気で食べるつもりはなく、脅しのつもりだったが想像以上にヴルサイはパニックに陥った。
「なんでも言います。だからお願いです。お願い…」
「ツァベラスはどこにいやがる」
「あああ会った事ないんです。いつも命令だけあって。ひいいい。ほんとです。顔も見たことないんです」
ロヴァルは再び噛みつく。さっきより歯を深く食い込ませた。
「ぎゃあああ。わかんないんです。ただツァベラス商会はツァーンの闇市場を仕切ってるからそこにいけばなにかわかるかも…」話の途中でヴルサイは気を失った。
「チッ、てめえは後だ」
辺りを見回すとカピノの姿は既になかった。マリオスだけがこっちを怯えた目で見つめていた。
ロヴァルはマリオスを袋の中から出し、猿轡を外して、手足を縛りつけていたロープを解き、次いでそのロープでヴルサイの手足を縛った。
「…ありがとう」マリオスはおずおずと言った。「後ろから襲われたんだ。騙されたわけじゃないよ」
「…わかってるさ」
「おじさんは悲しそうだね」
「あ?聞き間違いか?ヒトの言葉じゃ怖そうって言うんじゃねえのか?」
「戦う前の丁寧なおじさんの方が怖かった。2人いるみたいだね」
「すげえだろ?ゼム人の心は2つに割れているのさ」
「2人で戦っているから強いんだね」
少年から向けられる尊敬の眼差しからロヴァルは視線を逸らした。
「立てるか?肩を貸すぜ?」
ロヴァルの肩にかけられたのは小さな指先だけだった。
「貸し借りなしだな」
少年はようやく微笑んだ。
はにかみながらも少し誇らしげなそれを見つめるロヴァルの口元がほんの一瞬綻んだ。
〈了〉
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