【短編小説】心底に沈んだベスティア
筋量が極めて短時間で増加し、体が二回り以上大きく膨らむ。
鼻と口が迫り出して、歯が抜け落ちるとその数倍も大きく鋭い杭のようなそれが生えてくる。
教師が号令を下すと全員が一斉に指先の鋭利な爪を延伸させた。
体内で驚異的な速度で進んだ生化学反応により生じた熱が水蒸気となって体中から立ち昇ると瞬く間に教室は白い霞みに包まれた。
シエナはこのヴェルム人なら誰しも備わった恐るべき変態現象に目を奪われていた自分に気付いて、慌てて視線を引き剥がし目を閉じる。
「とにかく感情を昂ぶらせなさい!そしてコントロールしなさい!」
教師の声が飛ぶ。
シエナも他のクラスメイト同様、懸命に自らの感情を解き放とうとする。
表出される感情の強度により竜化は始まり、進行するからだ。
だが、シエナにはそれがいつまでも訪れない。
そんな自分に対する怒りを募らせるがその怒りは何も生まず、怒りにすら反応しない自らを悲しんでも無反応。そして、悲しみの淵にありながら相変わらず竜化の兆しすら見せない自分を嘲ったが、その笑いは虚しさしか生まなかった。
瞼を開けると竜化を解いたクラスメイト達の姿があった。
「あ…」
一斉にその無表情な顔がシエナに向けられる。
黒い眼球。
そこに浮く白銀の瞳。
その冷ややかな光沢。
そのどれにもシエナの顔が映っている。
「もう遅い、というわけじゃない」
教師はそう言ったが、すでに何度も同じセリフを聞いた。最早シエナはその言葉を信じる事ができなかった。
「私を感情制御の授業から外してください」
感情がコントロールできない程の激情となった時、ヴェルム人は野生の竜と見分けがつかなくなり、さらに二度とその姿からも戻れなくなる。感情は制御されなければならない。
「君のようなタイプがまったくいないわけじゃないんだ。過去を遡れば大抵の場合一過性のもので成人するにつれ上手くいっている。だからまだ諦めちゃいけないよ?」
シエナは大きく首を左右に振った。
竜化できないという事実より、クラスメイトから浴びせられる容赦のない視線の方がシエナには怖かった。
「感情制御はこの先大事だ。君の場合竜化に直結はしていないかもしれない。だが君は並みのヴェルム人より感情の波が大きいんだ。このままこのヴェルムで生きていこうとするならば、社会に出てからもっと苦しむことになる」
竜の姿からに元に戻れなくなった者を野獣と呼び、ヴェルム人は理性を失った者―最大の恥とみなす。国外に逃げた場合、討伐隊も結成されるほどだ。
その価値観によってヴェルム人は感情の波が大きい者を理性を失った非社会的な存在として無意識に排斥しようとまでする。
「では竜化過程のカリキュラムからだけでも外してください」
教師は小さい小さいため息をついた。ヴェルム人にとってはとても大きな部類に入るものだ。
「その件は考えておくが、とにかく僕は君に諦めてほしくない」
シエナは俯き、沈黙の中に身を置くことしかできなかった。
教師は時計を見た。
「これから来客があるんだ。続きはまた次回」
シエナは頷き、そして面接室を後にした。
廊下に出ると、窓の外で盛んに葉を散らすイチョウを眺める一人の少年がいた。
反射したガラス越しに、自分より背の小さなその少年と目が合う。
「リュカ…」
「見ろよ、窓の外。黄色い風みたいに見える」
「余計な気は使わないで」
「だったらその心配させるような顔やめろよな」
「はい?」
感情が顔に出ていた事を指摘されシエナは思わず声を荒げた。
そしてその怒気をはらんだ自らの声にシエナはハッとして口を押さえる。
「ヒトのあなたには関係ない事よ」
ヴェルム人の学校に他種族がいることは珍しい。なかでもヒト族はその感情の起伏の大きさからヴェルム人に最も軽視されるため馴染むのは難しい。リュカがクラスで浮いていたシエナと話すようになったのはむしろ自然な流れだった。
「友達なら心配するだろ?」
「余計なお世話。そんな事よりそのロケットは学校にしてきちゃダメと言ったじゃない。お父さんの形見なんでしょ」
ヴェルム人は装飾品もあまり好まない。エモーショナルなものだからだ。そういった気持ちのあり様に影響を及ぼすものは祭事の時や高位高官が身に着ける習わしがある。
「それこそヴェルム人の君には関係ないね。話を逸らすなよ」
「いい?気づいていないみたいだから言うけど、あなたの憐みが一番傷つくの」
「僕は信じているんだ。それだけだよ」
「ヒトのあなたにヴェルム人の何がわかるのよ!」
つい張り上げたシエナの声に、廊下にいたヴェルム人生徒達の視線が向けられる。
「見苦しいわよ、シエナ」
クラスメイトのラシェルだった。その口調はいつも淡々としていてヴェルム人らしく、クラス委員を務めているだけあってヴェルムの価値基準に準じた厳格な姿勢を見せる。
「そ、そうよね。ごめんなさい」
シエナは懸命に表情を消す。
「このところ君の感情の発露を目にすることが増えたよ」別の生徒が言った。同じクラスではないが、小さな学校だ。とりわけ目立つシエナの存在を知らない者はいない。
「ただでさえヴェルム人らしくないのに」
「さらに悪化してない?」
次々に否定的な発言がシエナに向かって飛ぶ。
「言い過ぎだろ」
リュカが割って入る。いつものように。
「ヒト風情とつるんでるせいじゃないの」
この時ばかりはラシェルの口調が辛辣さを増す。
「今、なんて言った?」
リュカがラシェルを睨み付けた。
「…ないで」
「シエナ?」
「リュカ、もう私に近寄らないで」
リュカは哀しげにシエナを見つめていた。
「あなたのせいで心が乱されてしまうのよ」
謝らないとシエナは決めていた。
これはリュカのためでもある。自分と一緒にいることで目をつけられてしまうよりはいい。
リュカは唐突なタイミングで親指を立てみせた。
それがどんな意味かシエナは知らない。何か自分を奮い立たせようとするハンドサインの一種なのだろうとは思ったが意味を聞いたことはなかった。
ヴェルム人達の小さいが根深い嘲笑のさざ波が、去って行く少年の背に浴びせられる。
「さようなら、ヒト族」
ラシェルが言った。
昼休みの校舎の裏庭はひと気がない。
シエナは枯れた花壇の傍に置かれた石のベンチにいつものように腰掛けた。
冷たい外気に晒され続けたそれは体の芯まで届くひんやりとした感触を伝えてくる。
食欲はない。
感情制御の授業がある日はいつもの事だ。
あごに手を当てると深いため息が自然と漏れる。
枯死して去年伐採されたポプラの切り株の中に碧い甲虫が入っていくのが見えた。
冬眠しようとしているベノステントウモドキだ。背の星の数が少なかった。
シエナは思わず笑った。
あれは自分だ。
銀髪、黒い眼球、銀の瞳―ヴェルム人の外見的特徴を全て備えて生まれながら、もっとも大きな特性が欠けている。
両親もこの事はシエナ自身の問題だからと取り立てて関心を示さず、極めてヴェルム的な対応を見せてはいるが、感情的になるシエナを見た母の爪が伸びかかったのを目にした事がある。
「あら。一人なの?こんにちは」
突然女性の声が降ってきてシエナは飛びあがった。
およそ母親と同世代くらいのヴェルム人女性が身を屈めてこちらを覗きこんでいる。
だがそれよりもシエナを驚かせたのは女性がおよそヴェルム人らしくないにこやかな微笑みを浮かべている事だった。
その笑顔につられ、シエナは知らず知らずのうちに大きく微笑み返してしまった。
「まあ!あなたがシエナさんね?」
「え…あ!」
シエナは慌てて笑顔を引っ込める。
「素敵な笑顔なのにもったいない」
からかわれた。
そう受け取ったシエナは俯いた。長い銀髪がその表情を覆い隠す。
「違うわよ」
「え?」
心の中を見透かされたような言葉にシエナは動揺を隠せない。
だが女性の曇りのない毅然とした口調はその言葉が嘘ではないと告げている。
「でもヴェルム人らしくありません。直そうと頑張ってるんです」
「そうなの?寂しいわ」
「このせいで私は友達を傷つけてしまうんです」
突然シエルの目に自分でも予期せず熱いものが込み上げてきた。
だめだめだめ!
ここで泣くなんて最悪だ。
我慢しなきゃ。
その頭に優しく手が置かれた。
「その友達はとても大切な人なのね」
「…かもしれません」
女性は涙に潤んだシエナの目を見つめた。
「今のヴェルムは生きにくいとあなたは思っているでしょうね」
シエナは頷く。
「じゃあ、おばさんからアドバイスをあげる」
「…アド…バイス?」
「あなたの心に寄り添ってくれる人を大切になさい」
「それは…処世術としてですね?」
女性の首は横に振られた。
「そういう古いヴェルム的な思想は捨てるの。利害の一致という合理的思考の向こう側があなたの心の中に必要なの。竜を起こす時も…そして心の底に沈んだ野獣を目覚めさせないためにも」
「私が竜化できないことを知っていてそんな事を言ってるんですか?」
「いい?シエナ。未来は変わる。新しいヴェルムのあり方を目指してもいいのよ?」
そういうと女性は唐突に親指を立てて見せた。
「なんなんです、それ?」
「ヒト族のサインよ?私の夫がヒト族なの。夫が生まれた国では相手を肯定したり、選択に満足した時にこのハンドサインを使うの。面白いでしょ?」
「私、あなたを満足させる事言いました?」
「言ってないわね」そう言うと女性は今度は声を出して笑う。
誰かが見ていれば普通に顰蹙を買うほどの大きさだ。
そしてなにより竜化も始まる気配がない。
自分以外でこれだけ大きな笑顔を作れるヴェルム人をシエナは初めて見た。
ひょっとしてこの女性は私と同じく竜化できないんじゃ?
だからヴェルムを出て、ヒト族と結婚して国外での生活を選んだ人なのかも。
今日会えたのはチャンスなんだわ。
この人ならもっと相談にのってくれそうだもの。
「あ、そろそろ行くわね。ありがとう。会えてよかった」
「え?あ、あの…!」
女性の身のこなしは速かった。シエナが言い淀んでいるうちに軽やかな足取りで裏庭から消えた。
すると今度は入れ替わるようにシエナのクラスの教師が反対方向からやって来るのが見えた。
「こっちに女性がこなかったかい?驚くほど表情の豊かな」
「来ましたよ。さっきまでここで話してました」
「え、今?どっちに?」
シエナは女性が立ち去った方向を指さし「誰なんです?」と聞いた。
「ああー。…でもいいか。君と会えたみたいだし」
「どういう事です?」
「彼女はレリアさんと言ってね。ハーフなんだ。ヒトとヴェルムの。若いうちは竜化ができなかったと聞いてね。何か君のためになればと思ったんだが。自由な人でね」
「先生もヴェルム人らしくない人ですよね。他人のためにそんなにいろいろしてくれるヴェルム人はいません」
そう言うと教師は少し心外そうな顔をした。
「僕は人を育てるのが仕事だ。その為にいかに効率よく成長を促せるかを毎日考えている。極めて合理的だろ?」
「そう…ですね」
「ヴェルムの合理性は時として非情だ。僕も含めて」教師はここで一呼吸おいた。「だが彼女は違う。矛盾するかもしれないが…その非合理性ゆえに僕は彼女を尊敬する」
「尊敬…ですか」
「レリアさんは何か話してくれたかい?」
「私の事は知っていたみたいですが、具体的な事はなにも」
「なるほど。だが難しい事はどんなに簡単な言葉に直したとしても理解するのは難しいものだ。彼女の言葉に気になる言葉はなかったかもう一度考えてみなさい」
「苦労なされた人なのですか。だからヒト族と結婚して国外で暮らしていらっしゃるんですか」
「ん?彼女がそう言ったのかい?おかしいな。彼女は今もヴェルムに住んでいるはずだよ。昔は調査官として各国飛びまわっていたけど今は調査本局の人材審問官だからね」
「調査本局の…あの人が?」
不可思議な現象を発現する遺跡を調査する調査局。その本局はヴェルムにある。権威ある本局であれほど感情を露わにするヴェルム人が働いているという事実にシエナは衝撃を受けた。
「先生、レリアさんとまだ打ち合わせが残ってるんで戻るよ。ちゃんと言われたこと考えるんだぞ」
教師が去って、シエナはまた一人になった。
いつもと違う騒がしい昼休み。
シエナは朽ちた切り株のうねる根を見つめ、今起きた事、言われた事を懸命に整理した。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
その日の感情制御の授業でもシエナは竜化する事ができなかった。
それでも決して気持ちを表に出すことなく一日の全ての授業を終えた。
リュカともあれから一言も話していない。
シエナはそそくさと帰り支度を整え校舎を後にする。
教室を出て階段を降り玄関口から外へ出る。
下校する生徒の流れから抜け出ようと足取りは少しずつ速くなる。
だがシエナの心は限界だった。
校門を出る前に堪えていた感情は決壊してしまった。
小さな一粒の涙が頬を滑り落ちる。
シエナは慌てて涙を拭った。
「ねえ、今あの子泣いたわよ」
「僕も見た。涙を拭っていた」
しまった―。
「待って?またあなたなの?シエナ」
近くを歩いていた生徒の一声で辺りにいた全員がシエナに注目する。
ラシェルだ。
「ごめんなさい。でも大丈夫よ。もうなんともない」
シエナは懸命に声を張ったが鼻声は隠し切れない。
「あなたが感情の制御もろくにできないのは構わないけど、校内でそれをやるのはやめてよ。見ているだけで恥ずかしいし、今みたいに校舎の外だと学校の品位まで穢されることになってしまうの」
「そうね。ごめんなさい。恥ずべき事よね」
クラスメイトの声もそれに続き、さらに続々と非難の声が上がる。
「君はここで何を学んでいるんだ?まったく成長していないようだが」
針のむしろだ。
「そのとおりね。努力するわ」
だがシエナは気丈に受け答えを続ける。それがこの状況を手っ取り早く終息させる近道だった。
逃げ場はどこにもない。
「やめろよ。もうかまうなよ」
詰め寄るヴェルム人生徒達の前に割って入る聞き覚えのある声。
「リュカ!?」
「なあに?シエナ、あなたまだこのヒト族とつるんでいたの?」
ラシェルとリュカが対峙した。
どうして出てきたの?
リュカの行動にシエナは困惑していた。
事を大ごとにしないで。私に構わないで。
「あんたら、野獣になっちまうのがよっぽど怖いんだろ?」
リュカの言葉に生徒たちの間から失笑が漏れる。
「怖い?バカ言わないで。あれは恥よ。私達ヴェルム人の誇りである理性を完全に失い、本能そのものとなった者が陥る末路」
「その末路が怖いんだろ?あんたらはちょっと感情的になったくらいで化け物になる自分にビビってるんだ」
「おい。ヒトの分際で我々にケンカを売る気か?」
「ヴェルムの失われた本能って呼ばれてた調査官がいるの知らないだろう?その人はすごい努力したんだ。いくら感情が昂ぶっても竜化しなかったから。でもそれは竜化できないわけじゃなかった。竜化のために必要な感情の強度が一般的なヴェルム人より遥かに高かっただけだったんだ」
「だからなんなんなの?」
「シエナも同じだ」
シエナはリュカのとんでもない発言に耳を疑い彼の顔を思わず見つめた
「何を言っているの」
「根拠があるなら見せてみろ」
次々と上げられるヴェルム人生徒達の嘲りの声。
「あんたらは真実の影だけを見てるんだ。そうやってずっと」
もうやめてよ、リュカ。私が認めればこの場は収まるのよ。シエナは思った。
思ったがそれを今言葉にしてしまえば他の全ての感情も流れ出してしまいそうだった。
「ヒトよ。醜く怒るのはよして。私達は客観的な事実を述べているの。我々に合わせ生きていくには彼女は力不足だとね」
ラシェルの言い分は間違いがない。シエナには返す言葉がなかった。
「それ逆だよ。シエナがあんたらにレベルを合わせてやってるんだ」
シエナはハッとして顔を上げた。
「なんですって?」
ラシェルの爪がジワリと伸びた。
「そうやって少し感情を露わにしただけで溢れる小さい器に、自然な感情表現も怖くてできない脆弱なメンタルにね」
数人の男子生徒の顔がゴボリと変形した。
厳つく迫り出したその口元から炎が零れ落ちた。
そんな中、シエナは依然としてリュカの言葉から受けた衝撃の中にあった。
器の大小がどうこうという説などどうでもいい―ただリュカだけがわかってくれていた―というその事がシエナは嬉しかった。
自分の頑張りに気付いてくれた。
認めてくれた。
周りに合わせて感情の波を消しひたすら自分を抑え込む作業は自分の中だけで完結する孤独な作業のはずだった。
なのに―。
目の前に立つ自分よりも背の小さいヒト族の少年は―リュカだけはそれに気づいてくれた。
自然と頬を伝う涙は哀しみのそれではなかった。
それと同時にシエナの指先は今まで感じた事のない熱を帯び始めていた。
―何?指先がむず痒い。体が熱い。
眩暈がする。
だが、このままではリュカが危険だ。
シエナは薄れゆこうとする意識を必死で繋ぎ止める。
その時シエナの視界を5条の輝線が横に薙いだ。
ラシェルの爪にチェーンを断たれ、リュカのロケットは宙を舞っていた。
地面へ落ちたそれをすかさず別の生徒が踏みつける。
「やめろ!」
「ヒトの分際でこんなものを身に着けるなよ」
拾おうとしたリュカの手が踏みつけられ、彼は苦鳴を上げた。
「父さんの形見なんだよ!」
「そんな情報はどうでもいいわ。装飾品で心が乱されるような者はそれを身に着ける資格がないのよ」
ラシェルは冷淡に言い放つとリュカの指先に転がるロケットへ爪を突き立てようとした。
「やめて!」
叫びと共にシエナの両手の爪が一斉に伸びた。
「シエナ…!?」
手の痛みを忘れ驚きと共にその様子を見つめるリュカ。
そしてその時だった。大地が下から突き上げるような衝撃を伝えてきたのは。
ドスンと腹に響く巨大な振動。その間隔が次第に狭く激しくなっていく。
校庭にいた生徒達は皆立つ事もままならずしゃがみ込んでいく。
「シエナ!!!」
ただ事ではないとその場にいる全員が察した。
「もうやめて!」
シエナの叫びはほとんど巨大な獣の咆哮のようであった。
そして再度襲い来る大地の衝撃。
「シエナがこれを?」
竜の上げるあの鳴き声―自然現象を呼ぶ恐るべき哮り。
シエナの声がそれだとするならば水竜が水を、火竜が火を、飛竜が風を呼ぶように彼女のそれは大地の鳴動を発現させた事になる。
地竜―。
まだシエナは人の姿を留めている。だがその体つきは僅かだが膨張し始めているように見える。
この現象はまだまだ序の口。
シエナの力の一端に過ぎない事になる。
「シエナ!もういい!僕は」
大丈夫だと言いかけたリュカの足元が突然崩れた。
小さな地割れがシエナを中心に放射状に拡がり、そして局所的に密集して竜化した生徒達の身動きを封じていく。
「だめだ!シエナ!」
リュカの叫びがシエナに届いた様子はなかった。
シエナはうつむいたまま苦し気に頭を押さえている。
リュカは割れ目から抜け出そうとしたが揺れる大地がそれを許さない。
人間が生きる大前提としての大地―その足元が揺れるという事は生きる場所を揺さぶられることを意味する。逃げ場もなく生きる場所が失われるという根源的な恐怖心を呼び覚ます。
リュカは心の中でそれと戦いながらまだ崩れていない地面に手を伸ばし、指をかけて必死にシエナの元へ這い進み始めた。
「全部私が悪いの!」
シエナが三度叫ぶと地割れはさらに広がり完全に竜化したヴェルム人の生徒さえも首元まで呑み込んだ。
シエナの自分を責める気持ちが感情をさらに昂ぶらせる。
私はバカだ。
信じてくれたリュカを遠ざけ、彼の大切な物を踏みにじらせた。
リュカの身も心も一番傷つけているのは私だ。
『あなたの心に寄り添ってくれる人を大切になさい』
レリアの言葉が脳裏に鮮やかに甦る。
「私は…できなかった」
途端、シエナの身体がさらに一回り大きくなる。
「平気だ」
その声と共に足首を掴まれシエナは下を見た。
「僕はなんともない」
リュカの擦り傷だらけの手。
「落ち着いてシエナ」
何をやっているの?
私は…いったい?
シエナは自らの身体の異変にようやく気付いた。
そして地割れに覆われた校庭とそこに沈んだ生徒達の姿を見た。
全ての地割れは自分を中心に拡がっている事をようやく理解した。
「なに…これ…私が?」
「シエナ、感情制御だ。ずっと頑張って来ただろう?」
そうだ。皆と同じカリキュラムを積み上げ、家でも毎日反復して自主練習もした。
「もうこれ以上の力は必要ない。もし必要になっても僕が君の傍で一緒に戦う。だから…だからこれ以上潜るな。野獣になるまで自らを犠牲にする必要なんてないんだ」
常識的に考えればそれは自分より身体能力で遥かに劣るヒト族の少年の戯言にしか聞こえない。
だがシエナは何故か信じてしまいそうになっている自分に気付いていた。
そのまるで合理的ではない思考に至った理由は目の前に広がっていた。
全てのヴェルム人が倒れた世界。そこでたった一人立ち上がろうとしている脆弱なヒト族の少年。
シエナの体の力が不意に抜け、ガクリと膝が折れた。
その瞬間、揺れがほんの少しの間収まる。
同時にシエナはふわりとした温もりに包まれた。
「え?」
シエナはリュカの腕の中にあった。
舞い上がった砂埃の中、閉ざされた世界でその力強さだけがシエナにとって自分以外の心の存在を示す唯一の証だった。
孤独じゃ…ない―。
シエナの爪が短くなっていく。
「イチョウの葉が全部落ちちゃったろ?」
窓の外から地割れと黄色い葉で覆われた校庭を見ていたシエナは顔を真っ赤にして振り向いた。
「…ごめんなさい」
教師が駆けつけ、事態を収拾した時点で怪我をしていたのは結局リュカただ一人だった。
ヴェルム人の身体は頑健で、地割れに落ちた程度では掠り傷を負った者すら一人もいなかった。
「謝るなよ。ケガだってあいつらがやったんだし」
医務室から出てきたリュカの手には包帯が二重三重に巻かれていた。
「大怪我みたいに見えるだろ?」
リュカが笑う。
そしておずおずとシエナも。
その笑顔は美しかった。そしてリュカはそれを誰よりもよく知っていた。
「ありがとう」
シエナの唐突な礼にリュカは少しはにかむ。
「ってお母さんに伝えてね」
「なんだよ、それ」
「失われた本能―レリアさんに似なかったのね」
リュカは一瞬驚いた顔をした。
「父さんに似たんだ。ヴェルム人の特性は何一つ受け継がれなかった」
「わかんないわよ?」
リュカは笑って肩を竦めた。
「でも、どうしてわかったの?僕の母さんだって」
「この前会ったのよ。学校で偶然」
「え?母さん来てたの?」
「うん。先生が私のために呼んでくれたみたい。とても素敵に笑う人だったわ。そんなヴェルム人何人もいるわけないでしょ。その時はわからなかったけど、あなたの話を聞いてピンときたの。あの人が失われた本能だって」
「先生には僕が息子だって言わないように頼んだのにな」
「先生は何も言ってない。その人の雰囲気があなたと似ていたから、私の直感」
「雰囲気が?僕と?」
不意にシエナは親指を立てて見せた。
「それか」
リュカは頭を掻いた。
そしてシエナは握られた手を横に倒して、その手をゆっくり開いてみせた。
壊れてしまったロケット。
だがリュカは嬉しそうに微笑んだ。
「…ありがとう」
照れながら差し出されるリュカの指先。
シエナの手の平で二人の手は微かに触れ合う。
〈了〉
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