掌編小説/孤独なクリーチャー
寒い日だった。
重たい雲からは、雪がひらひらと降りはじめた。
体じゅうに弁当屋の油が染みこんだ頃、ぼくはアルバイト先をあとにした。年末の慌ただしさに逆らうようにして駅から駅へ、次の駅から次の駅へと乗り継いでいく。最後は単線の無人駅で、併設されている地蔵堂の屋根には雪が積もっていた。
「お帰りなさい」
台所から妻の声が聞こえる。部屋は暖かい湯気に包まれている。
「ただいま」とぼくが言うと、妻は流しに向けていた顔をあげて「お帰りなさい」ともう一度言う。
「お風呂に入ったら?」と微笑む。「寒かったでしょ?」
ぼくは雪に濡れたダウンを脱ぎながら頷く。
ぼくたちは大学卒業を機に結婚した。二人で節約し、五百万貯まったときに早期退職した。郊外の中古物件を購入し、自給自足するための農地を手に入れた。余ったお金は投機にまわした。
十年後——
残されたのは、隙間風が吹きこむボロ家だけだ。
枯れ果てた黄金の土地だけだ。
二束三文の資産価値。
風呂からあがると、食卓には焼き焦げたスペアリブが載っていた。
「ちょっと焼き過ぎちゃった」と妻は苦笑いする。
「どうしたの?」とぼくは訊ねる。
「何が?」
「いや、お肉」
「たまにはいいでしょ? ほんとはスープも作りたかったんだけど、冷蔵庫がからっぽでびっくりしちゃった」
「ごめん」
「何が?」
「アルバイトの給料、二十日には振り込まれると思う」
妻は微笑む。「そんなことより、ねえ、食べましょう」
ぼくは妻に話した。店長が売上金をくすねていること。盛りつけ係のテラジさんが十歳も年下の大学生と不倫していること。その大学生は少女ポルノに熱をあげていて、近々逮捕されるだろうこと。
妻は涙を流して笑った。そのときには顔の皮がずれて、裏側のザリガニのお腹みたいな素顔が見え隠れしていた。
「もう手で食べちゃおう」
妻はそう言って、ナイフとフォークを置いた。スペアリブを両手で持ちあげると、口の奥から細い触手があふれ出した。さらに突起状の小さな口が飛び出して、スペアリブに齧りついた。
「だれ?」とぼくは言った。「アカネじゃないよね?」
妻は——妻のふりをしている何かは、食べるのをやめて、ぼくの顔を見た。
「どうしてわかったの?」
「ぼくの妻は、お帰りなさい、なんて言わないし、お風呂を沸かして待っていてくれたりしないから」
妻は——妻のふりをしていた何かは立ち上がると、ぴょんと跳ねて後ずさった。獣のような四つん這いになり、肩が隆起し、あばら骨が皮膚を切り裂いて、翼のようにひろがった。
唸り声をあげる。
「待って」ぼくは叫んだ。「ちょっと待って」
スライムみたいな涎を垂れ流しながら、グルルルと、もはや妻のふりをやめた何かは応えた。
「あのさ、もう少し話せないかな?」
すると、獰猛な口の奥から再び小さな口が飛び出してきて「話せるけど」と妻の声で言った。
ぼくは、妻みたいな何かにもう一度座るように席をすすめた。それから自分は台所に行って、熱いハーブティーを淹れて戻ってきた。
食卓に座り直している妻みたいな何かの前に、ハーブティーを置く。
「いい香り」
「野生しているハーブを摘んで作ったんだ。味は保証できないけど」
「美味しいわ」
「アカネは——ぼくの妻は、こんなもん飲めるかって投げ返してきたよ」
「ひどい人」
「訊いてもいい? きみは人間を食べるの?」
「お腹が空いていれば食べるけど、他のものも食べるわ。人間が牛を食べるのと同じだと思う。魚も野菜も食べるけど、人間も食べるってだけで」
「じゃあ、人間を食べなきゃ生きていかれないってわけじゃないんだね?」
「大丈夫だと思う」
「どこから来たの?」
「わからない。地球ではない、どこか遠い星だと思う」
「アカネは——妻は?」
「ごめんなさい」
「いいんだ」ぼくは首を横に振る。「ほんとはダメかもしれないけど、もういいんだ。アカネは攻撃的な人間だったから、どんなことが起こったのか想像つくよ」
「あの人はわたしを見るなり、包丁を持って襲いかかってきた」
「死体は?」
「腕は、今夜のスペアリブになったわ。胴体と足は切断して冷蔵庫と冷凍庫に。内臓は生姜と煮て、頭部と骨はダシをとってスープストックに……」
「家庭的なんだね」ぼくは笑った。
「提案なんだけど」とぼくは言った。「一緒に暮らせないかな?」
妻みたいな何かは、じっとぼくを見つめた。
「孤独だったんだ」ぼくは苦笑いしながら話す。「今夜きみと話しただけで、もうこの十年間以上の言葉を発したよ。きみは料理が上手だし、一緒にいて楽しいし、もちろん、きみさえよければの話だけど」
「わたしも」と妻は言った。「ずっと孤独だった。ずっと宇宙の暗闇を漂っていた。二百億年……」
「二百億年?!」
妻みたいな何かは頷く。「二百億年、ずっとひとりだった」
その夜、ぼくたちはたくさんの話をした。「地球には、きみを主役にした映画があるよ」と言うと、妻は「観てみたい」と言った。それでぼくたちは寝室のベッドに横になって、小さなテレビで〈プレデター〉を観た。部屋の押入れには、倒産したレンタルビデオ屋で購入した(ダンボール一箱という単位で売られていた)ビデオテープが山積みされていた。
「ちがうみたい」
「ほんと?」
「うん。わたしとはちがう宇宙人」
テレビの光が部屋の壁を青く染めていた。妻は猫のようにまるまって、ぼくのお腹を枕にした。それから、ブラウン管のなかで戦い続けるアーノルド・シュワルツネッガーに対して呟くように言った。
「浮気したら、食べちゃうから」
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