掌編小説/まいばすけっと
その日は発熱してから一週間目の午後で、目覚めたときに体温を測ると、ようやく36度8分という状態だった。
熱は下がったが、体はだるく、頭は膜を張ったように重たかった。
上司に今日も休みますと連絡を入れて、部下の報告をチェックする。テレワークになって日々の通勤からは解放されたが、こうして休んでいても仕事がつきまとう。
冷蔵庫を開けると、食料と呼べるものがほとんど入っていなかった。かれこれ一週間、買い物に行ってないのだから当然だ。
ゼリー飲料を飲みながら、鏡の前に立つ。ほうれい線のあたりを指先でなぞる。痩せたかもしれない。嬉しくもない。
それから久しぶりに掃除機をまわした。あっという間にダストボックスを綿埃が回りはじめる。この綿埃がどこから出てくるのか、部屋では見たことがない。この掃除機が作り出しているのではないかと少し疑う。
ベランダの窓を開けると、熱された土のにおいが部屋に流れこんできた。サンダルをひっかけてベランダに出ると、マンションの前の公園に、女性三人が輪になって立っているのが見えた。
マンションの前に公園がある。
公園と呼んでいいのか、広場と呼ぶべきなのか——遊具はなく、ベンチと掃除用品が入った物置きがあって、道路の境界には桜の木が植えられている。
休日には、子どもたちがボール遊びしていたり、犬を散歩させている人が横切ったりしている。季節がよければ、芝生になっている木陰で若い夫婦がビニールシートをひろげていることもある。
気づいたのは先々週のことだった。
公園の中心に穴ができていた。最初に気づいたときは、子どもが遊んだあとなのかもしれないと思った。しかし次に見かけたときには、何かの調査なのか工事なのか、どう見ても大人が関わっていると思われる大きな穴になっていた。
気づかずに落ちれば、怪我をするかもしれない穴だったが、まわりに警告する看板も柵もなく、市役所で働いている弟に話してみようかと思ったが、この土地は公共ではなく、マンションオーナーの私有地だったはずなので、弟に話してもしかたがないと思った。
女性三人は、どうやらこの穴を作った犯人らしかった。手には土木作業で使うような大きなスコップを手にして、いまは作業を中断して話しこんでいる様子。
遠目だが、若くもなく、年寄りでもない。
服装はポロシャツにチノパン。あえて揃えているのか、三人とも同じ趣味なのかわからない。ユニクロだと思われる。
その一人に見覚えがある。駅裏のスーパーマーケットで働いているパート主婦ではないかと思う。そう思うと、残りの二人も駅裏のスーパーで見かけたことがあるような気がする。
スーパーのパート主婦が平日に集まって、どうして穴を掘っているのか?
考えてみる。
宗教かもしれない。
わからない。
一人の女性が穴を指さす。二人の女性がうなずく。穴掘りが再開される。
わたしはそれを見ていた。
目的なんてないのかもしれない。ただの時間潰しで。
それを見ているわたしにも目的なんてない。ただの時間潰しにすぎない。
今日の作業は一時間程度で終了した。
リーダーらしき女性が何かを言う。残りの二人が敬礼する。
三人は別々の方向に歩き去っていく。
夕方になると涼しくなり、体調もよくなっていたので、わたしは買い物に行くことにした。
服を着替える。黒地に白の水玉模様のサマードレス。数週間前にネットショップで購入して、はじめて袖を通す。スカート丈が少し長いかもしれない。ベルトをして調節する。
鏡のなかに見知らぬ女がいる。職場の人間も、家族さえ知らないわたしがいる。
(家族と会うときはいつも、くすんだトレーナーにジーパンである)
車を運転して、隣町のスーパーマーケットをめざす。
駅裏のスーパーなら歩いていけるが、もう半年は行っていない。品揃えが悪いわけではなく、値段が高いわけでもない。
わたしははじめてのスーパーマーケットに行くのが趣味だ。候補になる店舗は、時間があるときにスマホで調べて、常時少なくとも三つはピックアップしている。
知らない町。知らない風景。知らない人々。
年に一度か二度、一人で旅行することがあるが、そのときにもかならずスーパーマーケットに立ち寄る。旅先なので買うものはない。ホテルに戻ったときに食べるお菓子やチューハイを買うぐらい。コンビニでも事足りるが、わたしはスーパーマーケットが好きだ。
あんな人があんなものを買っている。
あの人は198円のサラダを買うのに、もうかれこれ五分は悩んでいる。
あの人は値引きシールが貼られたものしか買わない。
あの人は独身。
会社帰りらしい男性と目があって、軽く会釈する。
すれちがうとき、買い物カゴのなかに目を走らせる。
キャベツ、合挽き肉、レトルトカレー、混ぜるだけで中華料理になる調味料。
一人暮らしにしては量が多い。しかし奥さんの気配は感じられない。シングルファーザー?
人々がほんの少し裸になる空間。
誰もがほんの少し油断してる。
一人ぐらい偽物の女がまぎれこんだとしても、誰も気づかない。
わたしはジャガイモを買う。にんじんを買う。豚バラ肉を買う。
今日の献立は〈肉じゃが〉だ。
会計を済ませて外に出ると、すっかり夜になっていた。
剥き出しの二の腕をもう片方の手でさする。エコバッグを持つ右手は生白く、結局買わなかった鶏の手羽元に似ている。
車に乗りこむ。
サマードレスの胸元を直して、シートベルトを締める。
雨も降っていないのに、ワイパーを動かす。
わたしは待っている。
わたしは何かを待っている。
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