『なぜ、人は自殺をしてしまうのか?』 【株式会社コルク代表取締役 佐渡島庸平氏 京都大学寄附講義から】
なぜ、人は自殺をしてしまうのか?
もうひとつ、僕がコルクでどんなことをやっているのかを紹介しましょう。
皆さんは、京都大学出身の小説家の平野啓一郎をご存じでしょうか。
平野啓一郎は、コルクに所属している作家です。コルクができる以前の作品なのですが、出版時に関わった作品で『私とは何か』という新書があります。
平野さんと僕の出会いは『決壊』という小説がきっかけでした。
ここからは少し小説のコアな内容に触れることになりますので、まだ作品を読んでない方はご注意ください。
主人公は崇という名前なのですが、世の中にはいろいろな作品がある中で、思考回路が最も自分に似ているとキャラクターだと思って興味深く読んでいました。
小説の中で、崇は殺人犯だと疑われます。
実際には殺人犯ではないのですが、疑われ、追い詰められていくのです。
僕は自分と思考回路が似ているキャラクターが、そういうふうに追い詰められていく中で、どのような行動を選択して、結末を迎えるのかと期待しながら、読み進めていました。
僕は読みながら、崇が生きやすい方法を見つけたら、僕にもそれは役立つだろうと期待していた。しかし、最後は自殺という結末だった。しかも、たった一文でそれが表現されています。
正直、無茶苦茶、衝撃を受けました。これを書いている平野さんは、どのようにして、精神の安定を保っているのか、それを直接聞きたかった。
それで、編集者だから、仕事を一緒にしたいですと連絡を取ったのです。
そこで僕は彼なりの、考え方を聞かせてもらって、すごく感銘を受けた。僕の人生を変えられたと言ってもいい。
それで、一緒に仕事をするようになっていきました。
個人は本当に社会の最小単位なのか?
『決壊』の後に『ドーン』という物語があるのですが、この物語は、自殺をしようとした主人公が、うまく自殺できなくて未遂で助かったところから始まって、自分を再生していく物語です。
平野さんの作品は、緩やかなテーマのつながりがある。
『ドーン』は、直接は編集しなかったのですが、その後の『空白を満たしなさい』という小説で平野さんと初めて仕事を一緒にさせてもらうことになります。
この後の説明も、あらすじを全部話すので、まだ読んでない人は注意です。
この物語は世の中で死んだ人たちが生き返る話です。
主人公の徹生も生き返って自分の家に帰宅する。生き返った自分の顔を見せて家族が喜ぶと思って帰宅するのですが、まったく喜ばない。
それを不満に思った徹生が、なぜ喜ばないんだ。生き返ったのにと聞くと、家族から意外な言葉を掛けられるんです。
徹生が自分たちをみ捨てて、自殺したと。
徹生は身に覚えがないから、自殺してない。
殺されたんだと反論して、自分を殺した犯人を捜しに行くのです。
ところが最終的に自殺であることがわかる。
なぜ自分は自殺してしまったんだろう。
自殺なんてしたくなかったのに、自分に自分が殺されたような状態になっている。
自殺はどういう仕組みで起きるのかを徹生が探しに行く物語になっています。
『ドーン』、『空白を満たしないさい』二つの物語を通じて、人はなぜ自殺をするのだろう、どうすると人の精神状態は回復していくんだろう、再生するんだろうということを、平野さんは描きました。
小説の他に、精神に関する学術的な部分をわかりやすくまとめたものが、前述の『私とは何か』という新書になったのです。
皆さんは、今日ここで僕の話を聞いていますよね。僕が何か質問したとして、皆さんは何かしら答えると思います。ところが、母親から、あるいは友達から質問されて答えるときにその答え方は、それぞれ違うと思います。
例えば、僕に対しては、ちょっとスマートに、友達にはフランクに、そして母親には反抗的に答えておきたいと答え方を選んでいることがある。
それって自分自身でキャラクターを演じ分けているのでしょうか?
それはないですよね。
つまり、自分のなかの在り方とか、考え方というのは自分がコントロールしているのではなくて、周りの人たちによって引き出されている可能性があるわけです。
個人は社会との対比で表現されることが多いのですが、これ以上、社会を最小単位まで分割していって、これ以上、分割することができない存在が個人として考えられているのです。
しかし、実際には、その人の中に相手によって引き出される自分がいる。その分けることのできる自分の集合体が個人である。個人が分人の集合体であるというふうに考えると、いいんじゃないかと平野さんが思ったのです。
これが『私とは何か』で紹介している分人主義という概念です。
幸せになるために、自分に合う分人を引き出してもらう
幸せになるとは何なのか?
僕は自分に合う分人を引き出されているということだと思います。
例えば今の自分の状態を振り返ってみてください。この講義を聴いている自分、今の態度、あり方とか、頭の動き方とか、気持ちとか好きですか?
もしも、それが好きだったら、僕から、いい分人が引き出されてるということなんです。でも、こんな大学の授業を普通に聞いてるときに、その自分が好きってこと、なかなかないと思います。
分人主義で、愛するという行為は何なのかというと、相手の顔がかっこいいとか美人であることは、外見に執着があるということです。
愛はその相手といるときに引き出される自分が好きということです。その相手といるときに、最も自分が自分らしくなれるというのが本質的な愛じゃないかと思います。
最も大切な重要だと思う分人を自分の個人の構成要素にひろげていくと自分を肯定できるようになって、生きるのが楽しくなって自己肯定感が持てるんじゃないかと、作品の中で平野さんは言っています。
分人主義で、自殺はどういう状態なのでしょうか?
例えば借金をしてしまっている自分がいるとします。
請求書が来るとか、取り立てが来る場合には自分がとても情けない気持ちになったり、しんどい気持ちになったりします。
その一方で恋人といるときの自分も並列として存在しています。恋人といるときの自分はもっと楽しく生きたいと思っています。
ところが、身体は一つしかありません。
嫌な分人を消したいと思ったら、自殺をするしかない。分人による反乱みたいなものが自殺ではないかと平野さんは考えているのです。
これから皆さんは、就職活動をしていくことになりますが、その会社や仕事が皆さんから自分を好きになる分人を引き出してくれるのか?
そういう観点で職業や付き合う人、場所を選んでいくと幸せになれるのではないかなと思っています。