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研ぎ澄まされた苦悩には、孤独が似合う。

昨年の新作映画は「格差」や「分断」をテーマにしたものが多かったように思う。急速なグローバル化、デジタル化が豊かさの平均を底上げをもたらすという楽観は、ある意味では当たった。たとえば、かつてフォードが同規格の生産ラインにより乗用車を大量生産する仕組みを発明したことで、アメリカ社会に「中流階級」を誕生させたように。現代ではAppleがiPhoneによって情報社会における「中流階級」を生み出したと言えるかもしれない。

しかし、「格差」はひらいた。または顕在化した、あるいは問題として議場に置かれたと表現してもいいかもしれない。グローバル化、デジタル化の進展と並列するなら、ナショナリズムの台頭が言及される。どの国も経済において他の国を構っている場合ではなくなったようだ。経済だけではない。国内の精神的な貧困が見逃せない状況になったことの表れだ。先に言ったような意味で、ある一点の豊かさは上昇したように見えたが、貧困と富裕の間には簡単に埋められない分断が生まれていたのだ。

そうした社会の背景を映し出したのが、貧しい環境で育ち、社会から見捨てられ、夢からも笑われた『ジョーカー』であり、上流と下流だけでなく、最下流の存在を炙り出した『パラサイト』であったのだろう。今のような社会状況で「格差」を映した映画が生まれたのは必然であり、「格差」は我々が向き合うべき課題として再認識させられることになった。

身の回りでも「格差」はある。小さい頃から高度な教育を受け、自然と芸術に関心を持ち、可能性がひらかれ、当然のように機会を選ぶ人間がいる一方で、機会を選ぶ自由がないことに気づくことさえできない人間もいる。機会のある人間は機会のない人間の不自由さに気づき憐れむが、気休め程度にしか手を伸ばそうとしない。挙句の果てには、機会のない人間の前で贅沢な苦悩を語る人間さえいる。

どんな階級の人間にも苦悩があり、語る自由だってあるが、それを苦悩することもできない階級の人間からすれば理解することはできても共感することはできない。例にもれず、僕の苦悩も大半が贅沢品かもしれない。選ばなければ、なんとか生きることはできる。手放せば、楽になることもできる。

研ぎ澄まされた苦悩は他者と分かち合うことができない。分かち合えた程度で解決するそれはたいした苦悩ではない。苦悩は孤独な人間のする仕事だ。

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