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『アメリカン・サイコ』の”痛み”【完全考察※ネタバレ注意※】

結論
全て「本当」だし、全て「妄想」でもある

 たくさん批判、疑念があるだろうと思います。
 しかし恐れずに、今回は「これが答えである」と言い切って話を進めていくぜ!!

 はじめ、私が考えたこの映画の結論は上記と違いました。
 その結論は
「ポール・アレンとホームレスの殺害は本当で、それ以外は妄想」
 
というものでした。

 本記事はまず私がなぜ「ポール・アレンとホームレスの殺害は本当で、それ以外は妄想」という結論に至ったかの経緯を解説し、後にそれが覆された理由を説明していく構成になっています。

(「ポール・アレンとホームレスの殺害は本当で、それ以外は妄想」という結論の解説は必要ないよ~、という方は目次の「6.パトリックにとっての本当」へどうぞ)

 そして最後には、あなたも「パトリック・ベイトマン」であることを示し、「パトリック・ベイトマン」の救済方法を説明します。
 長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いの程よろしくお願いいたします。

※ここからは分かりやすくするため「だ、である調」の文になっています。

1.物語の構造

 手始めに映画内で描写された殺人を順番にまとめた一覧表を示す。

殺人の順番
作表:筆者 ぬしも。

 それぞれ確認する。

  1.  路地裏ではホームレスの男を刺し殺した。

  2.  ベイトマンの部屋では同僚のポール・アレンの頭を斧でかち割った。

  3.  アレンの部屋では娼婦たちを連れ込んで殺害。

  4.  夜間金庫の前では老婆を射殺。

  5.  夜中の道路では警察たちを車両もろとも吹き飛ばした。

  6.  会社エントランスでは受付と清掃員を銃で撃った。

 まず①と②の殺人の際には妄想であると断定できる描写がない。
 そして③~⑥には妄想であると断定できる描写がある。
 これが、ホームレスとポール・アレンの殺害は本当で、それ以外は妄想であると断定した1つ目の根拠だ。

 ここからは妄想である証拠を順々に提示していく。
 まずは③~⑥の妄想っぽい描写をそれぞれ確認する。

③娼婦たちの殺害時には、考えられない数の死体や、チェンソーマジック。

画像2
参照:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 吹替版』

④老婆の殺害時には、夜間金庫の液晶に「FEED ME A STRAY CAT(野良猫を入れてください)」とあり得ない表示がされる。

画像3
参照:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 吹替版』

⑤警察官の殺害時には、ハンドガンの発砲で車両が爆発し、パトリックも動揺している。

画像4
参照:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 吹替版』

⑥会社受付と清掃員の殺害時には、受付「スミスさん、遅くまで大変ですね」とハッキリとした声でパトリックに言う。そしてなぜか次に会った受付は殺そうともしない。

画像5
参照:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 吹替版』

――――――――――――――――――――――――――――――――――
※しかし「妄想っぽい部分はあるけど、その描写後の殺人は本当だよ。殺人の前に妄想があったとしてもその後の殺人が妄想だとは限らないだろ?」とシーンを細かく切り分けて考えればこの論法は崩れる。

分け方
作図:筆者 ぬしも。

  ただ私は映画という表現は、ある程度ざっくり切り分けながら考えるのが好きなのでこのまま続けさせていただく。――――――――――――――――――――――――――――――――――

 なぜ①②の殺人の際には妄想とみられる描写がなく、③~⑥にはあるのか。
 ②と③の間に何があるのか。
「①②」と「③~⑥」という2つのくくりに何の違いがあるのか。
 その答えは「殺人未遂」の存在にある。

2.殺人未遂及び傷害事件を含めた時系列

 殺人の順番一覧表に殺人未遂(及び同等レベルの事件)を追加した表を示す。

殺人の順番2
作表:筆者 ぬしも。

 それぞれ確認する。

②-2:行為を終えてベッドで寝ている2人の娼婦の鼻に(おそらくハサミとかハンガーで)怪我を負わせた。
②-3:イカした名刺を見せられた腹いせに同僚のルイスの首を絞めようとしたが、ルイスから性的好意を向けられたがために、逃げ帰る。
②-4:レストランに出かける前にパトリック宅に集合し、会話をしながらジーンの背後からネイルガンを向けるが、婚約者からの電話で気まずくなり、未遂に終わった。

 一覧表を見て分かる通り、「①②」と「③~⑥」の間に殺人未遂がある
 これが、ホームレスとポール・アレンの殺害は本当で、それ以外は妄想であると断定した2つ目の根拠だ。

 この殺人未遂をきっかけにして本当か妄想かが別れていると私は考えたのだ。
 実際に、これら3つの殺人未遂を経て、パトリックの殺人には妄想と見られる描写が見られるようになる。
 では次に、この3つの事件はなぜ未遂に終わったのかを説明する。

3.殺せた理由と殺せなかった理由

 まずは①②を大きく取り上げて、未遂に終わらなかった事件においてパトリックが相手を殺せた理由を解説していく。

 「本当のことだ」と断定した①②には共通点がある。
 2つの殺人はパトリックがストレス発散のために行ったものであるということだ。
 ストレスの起因はどちらも、同僚に劣等感を感じたこと。
 劣等感とはつまり、自分が否定されたような感覚のことである。
 初めは劣等感をもたらした直接の対象ではないホームレス、ようは八つ当たり。次は劣等感をもたらした直接の対象であるポール・アレン、ようは復讐によって劣等感を癒そうとした。

 これらの殺人を行う際に、パトリックが言い放つセリフにも共通点がある。

① パトリック「俺たちは違いすぎる」
② パ「今すぐ〝ドーシア〞に予約を取ってみろ クソ野郎!」

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』)

 両方、相手を否定、拒否するセリフなのである。
 なぜパトリックは2人を拒否したのか。
 ホームレスはパトリックのことを神様扱いした。
 アレンはパトリックの名前を間違えた。
 2人は「パトリック・ベイトマン」に全く興味がないのだ。目先の食料、ステータスとしての同僚に興味があるだけで、2人の言動の裏には「あなたは要らないです」という意味が含まれている。
 つまり殺せた理由は「自分を否定したから」

 そして未遂事件にも共通点がある。
 それは殺そうとした相手がパトリックと交わろう・受容しよう・肯定しようとしたことだ。
 娼婦たちはセックスで交わろうとする(うんちくも黙って聞いた)。しかし交わるのは体だけ。
 同僚ルイスもセックスで交わろうとする。しかしパトリックは同性愛的(勘違い的)なそれを拒んだ。
 秘書ジーンとはとても興味深い会話を交わした。しかし「帰ってほしい?」と尋ねられたパトリックは「傷つきたくないだろう?」と帰した。
 つまり殺せなかった理由は「自分を否定しなかったから」である。

 しかしここで、ひとつの疑問が浮かび上がる。
 なぜパトリックは自分を否定しない相手、なんなら肯定しようとする相手を拒むのか。
 次は秘書ジーンとの会話を確認した後、パトリックの発言から他者を拒む理由を探っていく。

4.秘書ジーンとの会話

 パトリックが秘書ジーンを夕食に誘う。どこに行きたいかをジーンに尋ねると「ドーシアに行きたい」と言った。2人はパトリックの自宅で集合の後、ドーシアに出かけることにした(実際は予約を取っていない。パトリックは殺すつもり満々)。
 集まった2人はとても印象深い会話を繰り広げる。

パトリック:恋人はいる?
秘書ジーン:いいえ べつに
パ:面白い
ジ:あなたはいかが?
 真剣な相手はいる?
パ:どうかな わからない いないよ
 ジーン 君は満たされているか? つまり… 人生において
ジ:そう思うわ 仕事中心の生き方だったけど―
 自分を変えるつもりよ つまり―
 もっと成長したいのよ
パ:そう言ってくれて うれしい

―テッド・バンディの挿話とテープの話(省略)―

ジ:パトリック 誰かを幸せにしたいと思う?

―口を付けたスプーンを机に直に置こうとして話が途切れる(省略)―

パ:ジーン 何だって?
ジ:誰かを幸せにしたいと思ったことは?
パ:僕としては…

―パトリックがジーンの後頭部にネイルガンを向ける―

パ:特別な相手と意味のある関係を持ちたいと思う

―電話が鳴り響く。主はパトリックの婚約者(省略)―

ジ:イブリン?今も彼女と?
 余計なこと聞いて悪かったわ
 帰ってほしい?
パ:そうだな 自分をコントロールできない
ジ:帰るべきね いつも手の届かない男性に恋を
 それに… でも… 帰ってほしい?
パ:ここにいたらとても悪いことが起きる
 君を傷つけそうだ
 傷つきたくないだろう?
ジ:ええ そうね
 痛いのはイヤよ
 わかった 帰るわ

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』)

 この日を境に、パトリックの妄想らしき描写が表れるようになる。

5.パトリックの発言

 パトリックはなぜ彼らを拒み、未遂に終わったのか。
 彼らが肯定しよう・受け入れようとしているパトリックは「パトリック・ベイトマン」という概念であって、本当の「パトリック・ベイトマン」(「パトリック・ベイトマン」という実在・実存)を受け入れようとしているわけではないからだ。

〇冒頭にてパトリック入浴中の回想
パトリック
「パトリック・ベイトマンという概念はある
抽象的な概念は だが本当の俺というものは無い
存在は有るが幻影のようなものだ
俺は冷たい眼差しを隠せる
握手には喜んで応じるし 手と手が触れ合った時
俺とはどうやら気が合いそうだとまで感じるかもしれないが
俺はそこにはいない」

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 吹替版』

 パトリックはなぜそれが分かるのか。
 それは本性を隠しているからだ(自分−本性=「パトリック・ベイトマン」という概念)。

本性
作図:筆者 ぬしも。

 ではなぜ本性を隠しているのか。
 パトリックは婚約者とタクシーでの移動中にこんな会話をする。

〇タクシーにて婚約者との会話
婚約者「嫌いな仕事でしょ?なぜ辞めないの?」
パトリック「うまく適合したいからだ」

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』)

 パトリックはどちらかと言えば同僚のことを嫌っている、馬鹿にしているようだった。だが「適合したい」らしい。これはどういうことなのか。
 パトリックは、彼らと「適合したい」のではない。
 誰かと、社会と、他者と「適合したい」のだ。
 だからこそ否定されそうな「自分」は上手いこと隠して適合しようとする。

 このような努力をしているのにもかかわらず、同僚たちはパトリックを否定する。
 「その程度では俺たちと適合できないぞ」と言わんばかりに自慢話を聞かせてくる。
 初めは適合先ではない人(ホームレスの男)を殺した。
 ホームレスは言わば、社会に適合できていない人であり、パトリックは「俺たちは違いすぎる」と言い放って殺害する。これは言い換えると「俺はこいつとは違う」という宣言でもある。この殺人は、まだ適合することを諦めていないパトリックが、自分を鼓舞するために行ったことだ。

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作図:筆者 ぬしも。

 その後、同僚にまたまた否定されたパトリック。
 次はついに適合先である人(ポール・アレン)を殺した。
 パトリック・ベイトマンは考えた。
 適合できないならば、適合先の条件を変えてしまえばいい。
 適合先からポール・アレンをさっ引けば、パトリックが適合できる場所になる(適合先−ポール・アレン=パトリックが適合できる場所)。

作図:筆者 ぬしも。

 パトリックは同僚を殺してまで「適合したい」という願望を叶えようとした。
 それは裏を返せば、パトリックは孤独に苛まれていたということを示している。
 しかしパトリックは「自分」を隠した。求められても拒んだ。
 なぜなら“傷つきたくない”からだ。
 傷つくくらいだったら孤独でいようとパトリックはしたのだ。
 秘書ジーンとの会話で、パトリック自身はそのことをより強く実感したはずだ。

 そして「傷つくくらいだったら孤独でいよう」を実現するためには、他者との深い関わりを無くさなければならない。でも関わりを望んでしまう。となれば、妄想の世界に入り浸るしかなくなるわけだ。

 ここでようやく最初の結論に繋がった!
 殺人未遂を経て、パトリックは他者との関わりを断つために妄想の世界に入り浸るようになった、と私は考えたのだ。

 一旦、まとめよう。

「ポール・アレンとホームレスの殺害は本当で、それ以外は妄想」の根拠

  1. ポール・アレンとホームレスの殺害では妄想と見られる描写が無い

  2. ポール殺害後の未遂事件を境に妄想らしき描写が現れた

  3. ポ及びホ殺害と未遂事件とは「否定された」か「肯定された」かの違いがある

  4. パトリックは傷つかないために妄想に入り浸るようになったと考えられる

 このような理屈で私は「ポール・アレンとホームレスの殺害は本当で、それ以外は妄想」という結論に至ったわけだ。
 我ながらとても納得材料の多い考察ではあると思う。
 しかし私はある疑念を持った。

「この考察って、作品の構造の理解は深まるけど
 作品の本質、メッセージの理解には遠い気がする」

 ようは「パトリックの行動原理は理解したんだけど、結局この映画は何を伝えたかったのかが、この考察の結論では全然わからない」ということだ。
 ここで私は、考察は不要だと考えていた場面をもう一度、注意深く考察してみることにした。
 その場面とは、最後の最後
「酒を飲む同僚たちの元へ行き、妙に明るく振る舞うパトリック」
「パトリックの手帳を盗み見る秘書ジーン」

 の2つだ。

 次はこの2つの場面を解説して、結論が大きく変わった経緯を説明する。

6.パトリックにとっての本当

 前述した通り、パトリックは孤独であり続けるために妄想の世界に入り浸るようになったのだが、それをし続けること、自分を隠し続けることをパトリックはできなかった。

〇追われるパトリックの顧問弁護士への電話内容
パ「今夜も… 我慢できず何人も殺した!
おそらく― もう僕は― これ以上  逃げ切れないだろう
たぶん僕は… きっと… 僕は かなり― 病的な男なんだ
だから  もし― 明日 戻るなら 〝ハリーズ〞で会おう
わかってるな? しっかり目を開けてろ」

〇顧問弁護士に詰め寄るパトリック
パ「聞け 僕がやった 殺したんだ
僕はベイトマンだ P・アレンの頭を切断した
留守電のメッセージは全部 真実なんだ」
弁「すまないが行かないと」

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』

 顧問弁護士に電話し、直接会って、自分の所業を告白する。
 しかし聞き入れてもらえない(しかも顧問弁護士はパトリックの名前を間違える)。
 ここで私は初め、「ようは本物の『パトリック・ベイトマン』は受け入れられない、肯定されないということだ。
 だからパトリックはラストで

〇同僚たちに囲まれながらの回想
パトリック「だから こんな告白など 何の意味もない」

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』)

 と回想したんだな。パトリックは適合を諦めたんだな」と考察したことで不必要な場面だと断定してしまった。

 だがここで「酒を飲む同僚たちの元へ行き、妙に明るく振る舞うパトリック」という要素を加えて考察をすると、全く違う解答が浮かび上がってくるのだ。

7.世界にとっての本当

「酒を飲む同僚たちの元へ行き、妙に明るく振る舞うパトリック」の場面での会話を引用する。

●同僚たちとの会話・パトリックの回想

−T Vにレーガン大統領の会見が映し出される−

ブライス「よくもウソばかり クールな顔しやがって」
デイヴィッド「そういう連中なのさ」

−パトリックが笑い出す−

ブ「ベイトマン 何がおかしい?」
パトリック「愉快でたまらない ロックンロール!」
ブ「見ろよ 無害なジジイ面してやがるが あいつの中身は… 中身は…」
パ(中身は関係ない)
クレイグ「中身がどうした? 続けろ 聞いてるぞ」
ブ「ベイトマン どう思う?」
パ「どうでも」

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』)

 なぜパトリックは愉快なのか?それは適合できたからだ。
ブライス「よくもウソばかり」
デイヴィッド「そういう連中なのさ」
 という言葉を聞いてパトリックが笑い出したのは「俺たちみんなそうだ」と気付いたからだ。
 中身は関係ない、とはどういうことか?
 中身は自分を含め誰も知り得ないことだから関係ないという意味である。
 パトリックは顧問弁護士との会話で気付いてしまったのだ。

パトリック
「そうか。分からないんだ。あいつらも俺も自分のことが分からない。
あいつらも俺も他人のことが分からない。
そうか俺らは一緒だ!やった!!適合できた!」

 もっと具体的に説明をする。
 妄想および勘違いは、世界にとっての「本当」を知っている人からすれば「間違い」であるが、妄想および勘違いを起こしている当人にとっては「本当」のことである。

 つまり名前を間違えた同僚にとって「パトリック」は間違いなく「ハルバーストラム」だし「デイヴィス」なのだ。
 世界(外界)にとって「パトリック」は間違いなく殺人をしていない常人で、パトリック(内界)にとって「パトリック」は間違いなく殺人をしている病的な男なのだ。

 『アメリカン・サイコ』のよくある批評・感想として「彼らはパトリックに関心がない」というものがあるが、私が思うにこれは正確ではない。
 彼らは「自分と他者、それぞれの『本当』を一致させるつもりがない」という性質を持つキャラクターなのだ。
 つまりパトリックを含め彼らは全員、世界で起こっていることと頭の中で起こっていることが多かれ少なかれ一致していないのだ。

 この映画は、世界とパトリックの頭の中の映像をごっちゃ混ぜにして観客に見せることで、どこからが世界でどこからが頭の中なのか分からなくしている。
 これらを踏まえて私は最初に導き出した考察を覆し

「全て『本当』だし、全て『妄想』でもある」

 という結論に至ったのだ。
 この結論は言い換えれば

〇パトリックにとっては全て『本当』だし
 世界にとっては全て『妄想』でもある。

〇頭の中では殺人が実際に起きていたからパトリックにとっては『本当』。
 外界ではパトリックの言うような殺人事件は起きていないから外界にとっては『妄想』。

〇外界では“殺人事件が起きていない”が『本当』で、“殺人事件が起きている”は『妄想』だ。
 内界では“殺人事件が起きていない”が『妄想』で、“殺人事件が起きている”は『本当』だ。

〇パトリックにとっては全て『本当』だし
 われわれ視聴者にとっては全て『妄想』でもある

 という言葉になる。

8.パトリック・ベイトマンの限界

 少し例え話をしよう。
 私はあなたに質問をする。
「今朝あなたが食べた卵焼きはどのように作られましたか?」
 あなたはきっとこう返答するだろう。
「フライパンで焼いただけだよ。卵を割ってさ」
 この回答は、当たっている。だが完答ではない

 まず卵を買いに行かなければならない。それより以前にフライパンを買いに行かなければならない。それより以前にお金を稼がなければならない。それより以前に面接に行かなければならない。それより以前に…。それより以前に…。それより以前に…。それより以前に…。それより以前に…。それより以前に…。それより以前に…。…………………

 という具合であなたは
「今朝あなたが食べた卵焼きはどのように作られましたか?」
 という質問に完答を示すことができない。それは質問をした私もそうだ。

 次に別の質問をしよう。
「あなたはどのような人間ですか?」
 さあ、あなたは完答を示すことができますか?
 仮にあなたがぴちぴちの20歳だとすれば、完答を示すには20年分の人生を説明しなければならないわけだ。
 が、そんなことは不可能だ。覚えていないし、時間が掛かりすぎる。
(出生まで遡れば親の人生の説明も必要になる。仮にあなたが「人生=自分」という式が気に入らなかったとしても、性格や趣味嗜好や職業など説明しきるにはあまりに情報量が多すぎる)

 つまり私たちは「自分」を100%の純度で理解することはできないし、「他人」を100%の純度で理解することは原理的に不可能なのだ。
 本性なんてものは存在したとしても知りようが無いのだ。

 後にパトリックは「この痛みを味わわせたい」と回想する。これは「あいつらも俺も自分のことが分からない。あいつらも俺も他人のことが分からない。そうか俺らは一緒だ!」という気付きを全員が共有しなければ、本当の意味で適合できないから抱いた思いだ。

パトリック「君も俺のこと全く分からないよね?」
同僚「あぁ、全く分からない。君も俺のこと分からないよね?」
パトリック「あぁ、全く分からない。俺たちは同じだね」

 という具合で「適合したい」という願望を叶えるためには「お互いを100%理解することは絶対にできない」という気付き、つまりアイデンティティを確立できず自己達成することは不可能だという「痛み」を味わわせなければならないわけだ。

 この考察もパトリック・ベイトマンを100%正しく理解したことにはならない。あくまで映画内で描写された範囲の「パトリック・ベイトマン」の考察でしかない。本当の「パトリック・ベイトマン」のことを観客が理解することはできないし、監督にも、パトリックにだって理解できないのだ。

〇ラスト パトリックの回想
僕の痛みは鋭く 永久に続く よりよい世界など望むものか
この痛みを他人に味わわせてやる 誰も逃しはしない
でも僕は何のカタルシスも感じない
僕は罰を受けることもなく 自分のこともわからないまま
僕の言葉など誰にも理解できない
だから こんな告白など何の意味もない

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』)

 さぁ、この考えを共有してしまった皆さん!
 痛みを味わってしまった読者の皆さん!
 今日からあなたも「パトリック・ベイトマン」だ!

 そんな絶望に堕ちてしまったみなさんに朗報だ。
 まだ解説することがある。
 それはラストに垣間見る「パトリックの手帳を盗み見る秘書ジーン」だ。
 この場面の解説が「パトリック・ベイトマン」を救ってくれるはずだ。

9.ジーン

〇ジーンとパトリックの電話内容
パ「ジーン 助けてくれ!」
ジ「パトリック?」
パ「ジーン 僕は…」
ジ「マクダーモットが〝ハリーズ〞で1杯やろうと」
パ「どう答えたんだ? バカ女」
ジ「聞こえないわ」
パ「僕は何をやってる?」
ジ「どうしたの?」
パ「今日は行けそうにない オフィスへは」
ジ「なぜ?」
パ「〝ノー〞なんだよ!」
ジ「何なの? 大丈夫?」
パ「そんな哀れっぽい声を出すな! クソ!」

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』)

 パトリックからの電話越しの会話と様子から何かを察したジーンは、パトリックのオフィスに入り、机から手帳を取り出す。
 そこには女たちをめちゃめちゃにしている様子が下手くそな絵で描かれていた。

スクリーンショット (264)
参照:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 吹替版』

 ジーンは手帳をどんどんめくっていく。段々と描き込みが増えていき、どんどんめちゃめちゃになる絵を見続けた。目を背けることなく見続けた。

 これこそが「パトリック・ベイトマン」にとって救いなのだ。
「僕は何をやっている?」と問われたジーンは「どうしたの?」と何が起こっているのか知ろうとした。
 パトリックと世界、ジーンとパトリックの『本当』を「一致させる」ための情報を集めるために、手帳を盗み見たのだ。

 この映画で、ジーンはただ1人だけ「自分」と「世界」の『本当』を一致させようとするキャラクターなのだ(探偵の男はあくまで仕事でやっているだけだ。ジーンは秘書としての一線を越え、手帳を盗み見る)。
 自分の知っている「パトリック・ベイトマン」と、本当の「パトリック・ベイトマン」を知ろうとした。

 ただ前述したとおり、それを知ることは絶対にできない
 この行為で得られるのは「痛み」だけだ。
 それでもジーンは目を背けなかった。泣きながら、探し続けた。

 他者と関わることは「痛み」を伴うことだ。
 すれ違いや、価値観の違い、年老いていくにつれた変化。自分にも他人にも起きる差異と変化に耐えなければならない。
 ただ私たちは、この「痛み」を分かち合うことができる。
 「パトリック・ベイトマン」は他人と関わることを諦めてはいけない。ページをめくるのを止めてはいけない。止めないでほしい。
 それを諦めれば、パトリックの「だから こんな告白など何の意味もない」という回想は”本当”になってしまう。

10.まとめ

 私はこの記事を書いた。それは「パトリック・ベイトマン」が抱え続ける、感じ続ける「痛み」を知って欲しかったからだ。まるでパトリックがアレンと娼婦に、ミュージックうんちくを聞かせたように、私も記事を書いたのだ。

 『アメリカン・サイコ』の感想、考察はどれも「まあ、とりあえずこう考えとくわ」という空気感を纏ったものばかりだ(この記事が熱苦しさを纏っているのは重々承知だ)。それはある種、この映画の正しい受け取り方なのだと私は思う。私たちは「パトリック・ベイトマン」の本性を正確に100%知ることは出来ないのだから。

 この記事を通して、私という人間を教えられるわけではない、読者であるあなたを理解できるはずもない。ただこの映画から受けたモヤモヤ感、言い知れぬ感動、イライラ、そして「痛み」を共有できたはずだ。

 小難しく書いてきたわけだが、簡単に言ってしまうと

「自分も他人もよく分かんねぇけど
楽しくやっていこうぜ!」

 というなんとも軽薄で空っぽなメッセージだ。
 それを共有できたことを嬉しく思う。

愉快でたまらない ロックンロール!

引用元:メアリー・ハロン監督『アメリカン・サイコ 字幕版』)

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