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『劇場版 呪術廻戦 0』五条のラストのセリフを明らかにするぞ!!【後編※ネタバレ考察※】

※この記事は3部構成のうちの後編に当たります。
 前編からお読みいただくと分かりやすい内容となっています。
 以下のリンクからよろしくどうぞ。

【前編】

【中編】


乙骨憂太のちゃぶ台返し —対比表現の綻び—

Ⓒ 2021 「劇場版 呪術廻戦 0」製作委員会 Ⓒ芥見下々/集英社

 さてさてここまではラストのセリフを解説するための外堀を埋める作業であったわけだが、それなりに納得していただけただろうか?
 ここからはより直接、ラストのセリフの根拠となり得る部分についての解説をする。

 根拠は大きく分けて2つある。
 ひとつは乙骨と夏油の対比の綻びから生じた対立構造による重複からの考察。
 もうひとつは夏油と五条の対話の場面の「道を違えたふたり」を暗示したカットの存在である。

対比の綻び

 前編の【対比表現の数々】でも書いたとおり、乙骨憂太と夏油傑には対比が存在している。
 しかし終盤になってその対比の要素に変化が生じる。

  1. 乙骨憂太:呪霊を操作できない。
    → 呪霊を操作できる。

  2. 乙骨憂太:里香を解こうとする(別れようとする)。
    → 里香と逝こうとする、一緒になろうとする。

 このような具合で対比が綻び、なんだったら以下の通りイコールで繋がってしまった。

  1. 乙骨憂太:呪霊を操作できる。
    =  夏油傑:呪霊を操作できる。

  2. 乙骨憂太:里香と一緒になろうと(手に入れようと)する。
    =  夏油傑:里香を手に入れようとする。

 この性質変化によって、終盤での乙骨と夏油の二人は対比ではなく、同じ目的を達成するために対立することになる。

 この対立構造から何が分かるのか。
 それは乙骨と夏油には重なる、同一の部分があるということである。
 前述した対比要素の数々をもう一度、示す。

  1. 乙骨憂太:呪霊を操作できない。
    ↔ 夏油傑:呪霊を操作できる。

  2. 乙骨憂太:里香を解こうとする(別れようとする)。
    ↔ 夏油傑:里香を手に入れようとする。

  3. 乙骨憂太:呪霊から2人の子供を助ける。
    ↔ 夏油傑:人(非術師、猿共)から2人の子供を助ける。
    (もっと細かいのだと短髪↔長髪、服が白基調↔黒基調、学生↔大人、というものも考えられる。)

 このように乙骨と夏油には明確に対比表現がある。そして今回の解説において最も重要な対比を先にここで紹介して次の部分の解説へ進む。

4.乙骨憂太「でも僕がみんなの友達でいるために
 僕が!僕を!生きてていいって思えるように!
 オマエは 殺さなきゃいけないんだ」
 ↔ 夏油傑「強者が弱者に埋もれ虐げられることもある
 そういう猿どもの厚顔ぶりが吐き気を催すほど
 不快だと私は言っているんだ」

 これらは対比しているが実際のところ、重なっている部分がとても多い。
 例えば①に関しては、呪霊に協力してもらっている点は同じだ。
 ②は里香への特別視が共通している。
 ③は状況は違えど子供を2人助けている。

 ④もこれまで述べたとおり、乙骨と夏油の自己肯定の方法論を語っているセリフであるわけだが、それぞれ方法は違えど(特定の人物を守ることで自己肯定をするか、排除することで自己肯定するかという「選民」の違い。だが見方を変えれば乙骨も排除しようとしているし、夏油も守ろうとしている。)、自己肯定をしようとしている点では同じだ。

 乙骨と夏油は完璧な対比で描かれたわけではないである。

 そして2人の重なる部分の中で、五条の伏せられたセリフを読み解く上で必須の要素、場面は「乙骨がとある学校で子供2人と真希を助けて校門前で倒れ込んだ場面」である。

Ⓒ 2021 「劇場版 呪術廻戦 0」製作委員会 Ⓒ芥見下々/集英社

 私が五条の伏せられたセリフの答えであるとした「おかえり よく頑張ったね」はここで発せられたものであるわけだが、なぜこれが答えだと考えたのか。

 それは乙骨の救出劇と夏油の強襲劇には重なるポイントがあり、無関係ではないと考えたからである。
 そのポイントを先んじて列挙する。

【乙骨の救出劇と夏油の強襲劇の重なるポイント】
①どちらも「乙骨&里香 VS 夏油」の構図
②乙骨は子供2人と傷ついた真希(計3人)を助け、夏油は呪術師2人と真希(計3人)を見逃す。
また、どちらも夏油は3人を傷つけ、乙骨がその3人を助けている。
③戦地が「学校」である

 ①について、実のところ学校での呪霊騒ぎは夏油によるものであったわけで、乙骨&里香と夏油はこの小学校での戦いが初戦なのである。

 ②について、遅れてきた五条との対話において夏油「やられる前提であの二人を送り込んだな」五条「そこは信用した」と言っていることから、おそらく夏油はパンダと狗巻を呪術師であるという理由から見逃したのだと考えられる。
 よって「乙骨は子供2人と傷ついた真希(計3人)を助け、夏油は呪術師2人と真希(計3人)を見逃す」という重なるポイントを見出した。

 ③について、言わずもがなではあるかもしれないが、どちらも場所は「学校」である。

 このように乙骨の救出劇と夏油の強襲劇の2つの場面には重なるポイントが存在している
 よって2つの場面のラストにおいて発せられたセリフも共通しており、結論として五条の伏せられたセリフは「おかえり よく頑張ったね」であると考えた。

道を違えたふたり

 ここからは2つ目の根拠の解説を進める。
 まずは夏油と五条の対話の場面の「道を違えたふたり」を暗示したカットを引用する。

Ⓒ 2021 「劇場版 呪術廻戦 0」製作委員会 Ⓒ芥見下々/集英社

 このカットはもう見たまんまが正解だと私は思う。
 夏油が歩いてきた道はグイッと右サイドの道へと繋がっていく。
 この右サイドの道は五条が歩いてきた道であろう。
 道を違えてしまった夏油と五条。
 最後の最後で再会を果たしたカット
である。
 だからこそ「おかえり」と最後に言い放ったのではないかと考えた。

五条が「おかえり」と言った理由

 正直、ここで解説を止めてもいいのだろうが、せっかく前中後編に分けてまで書いたのだからもう少し五条と夏油の心情を深掘りしてみる。

 やはりここで重要なのは夏油が若い呪術師を殺さないことを信用していた点である。

夏油「あの2人を私にやられる前提で送り込んだな 乙骨の起爆剤として」
五条「そこは信用した オマエのような主義の人間は若い術師を理由もなく殺さないと」
夏油「フッ… 信用か まだ私にそんなものを残していたのか」

Ⓒ 2021 「劇場版 呪術廻戦 0」製作委員会 Ⓒ芥見下々/集英社

 五条は「オマエのような主義の人間は」と言っているがこの主義とは前述の内容で考えれば「強者生存論」のことであろう。また「強者生存論」の本質が実は「弱者生存論」であることも前述した。

 しかしながら五条は「強者生存論」が実は「弱者生存論」であることを知っていたのではないか
 五条は夏油が結局のところ弱者を守ろうとしていただけであったことを理解していたのではないか。
 交差点にて夏油は五条にこのように言う。

夏油
「もし私が君になれるのなら
このバカげた理想も地に足が着くと思わないか?」

Ⓒ 2021 「劇場版 呪術廻戦 0」製作委員会 Ⓒ芥見下々/集英社

 このセリフは前述した通り夏油が「オマエと比べて俺はぐらつきやすい」といった具合の「実存」の悩みの発露なわけだが、ここで強調したいのはこのセリフにおいて夏油は自身を〈弱者〉と定義している点である。

 夏油は自身の理想が身の丈に合っていないことを、理想に対して自身が〈弱者〉であるということを自覚している。
(ちなみに乙骨は里香を呪ったことが自分であること、自身が特級術師であることなど〈強者〉としての身の丈を把握していなかった点で、夏油と対比が成立していた)

 その自覚の発露に対して当時の五条は〈強者〉としての身の丈を自覚していなかった
 つまり自身の圧倒的な孤独を理解していなかった。だからこそ当時は「何が言いてぇんだよ」と夏油を跳ね除けてしまい、また中編でも述べた通り「傑、お前だから撃てないんだ」という選民思想、すなわち、「強者生存論」に陥ってしまったのだろう。
 それによって本当に孤独になるとも知らずに。
(乙骨は里香を呪えたから一緒にいられた。五条は夏油を呪えなかったから道を違えた、という対比がある)

Ⓒ 2021 「劇場版 呪術廻戦 0」製作委員会 Ⓒ芥見下々/集英社

 五条悟は〈強者〉として孤独に、夏油傑は〈弱者〉として孤独に陥った。

 そしてそれはお互いがお互いを必要としなかったがための孤独だった。
 皮肉なことに五条は夏油がいなくなり孤独になって初めて〈強者〉としての身の丈を自覚できるようになったのである。

 なぜ五条は夏油が若い呪術師を殺さないことを信用していたのか。

 なぜ夏油が結局のところ「弱者生存論」だと「おかえり」と言うのか。

 五条悟が自分は夏油傑を理解していると確信したからである。

夏油
「あの2人を私にやられる前提で送り込んだな
乙骨の起爆剤として」

Ⓒ 2021 「劇場版 呪術廻戦 0」製作委員会 Ⓒ芥見下々/集英社

 と夏油は語っているが、乙骨の起爆剤という理由の他に、五条は若い術師を送り込むことで「もし2人が殺されなかったら夏油が〈弱者生存論〉の持ち主であることが確定するな」というかなり自分都合の理由もあったと考えられる。

 パンダと狗巻の2人が乙骨を守るために馳せ参じたことは夏油も理解している。
 つまりパンダと狗巻は五条という〈強者〉の都合で送り込まれた〈弱者〉だったのである。
 周りの勝手で「実存」を危うくされる存在を夏油は殺さないだろう、と五条は確信していた。
 それによる「信用」だったのであり、最終確認だったのだ。

 夏油傑は昔っからずっと〈弱者〉を守り続けてきた。
 それを確信し、五条は夏油に対して「おかえり」と”祝福”の言葉を言い放ったのである。

まとめ

 ここまでの内容を箇条書きで簡単にまとめて結びとする。

【前編】

  • 乙骨と夏油には対比表現がある。

  • 夏油の「強者生存論」は実は「弱者生存論」だった

  • 夏油はその能力故の「実存の揺らぎやすさ」に悩んでいた

【中編】

  • 実は五条も選民思想を抱いていた

  • 五条は圧倒的な強者ゆえに圧倒的に孤独だった

  • 夏油と五条は互いに見落としがあったため道を違えた

【後編】

  • 乙骨の救出劇と夏油の強襲劇の重なる点を考慮すると五条のラストのセリフは「おかえり」だと考えられる

  • 「道を違えたふたり」を暗示したと解釈できるカットが存在する

  • 夏油傑が昔と同様「弱者生存論」の持ち主だと確信し、”祝福”の言葉として「おかえり」と言ったと考えられる

おまけ

 作者目線から考えて、なぜセリフを伏せたのか?
 仮に伏せずにおくと「おかえり」は五条が夏油の選民思想(強者生存論)を需要したと勘違いさせかねないからではないかと私は考えた。

 あえて伏せることで、この伏せた部分を読み解くために本記事のように作品を構造分解せざるを得なくなり、結果として「五条が夏油の選民思想を需要した」などという勘違いを先んじて予防できる。
 伏せることで作り手と読み手とがすれ違ってしまうことを暗に防いでいるのだ。

 ここまでお読みいただきありがとうございました!!

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