『劇場版 呪術廻戦 0』夏油傑の揺らぐ「実存」【前編※ネタバレ考察※】
映画終盤、夏油傑に対して五条悟が言い放ったセリフは一部伏せられている。
その部分に関して、いったい何を言ったのか、という考察が多々なされています。
本記事ではその伏せられたセリフを特定します。
解答を出します。説じゃないです。解答を出します。
結論から申し上げますと、「おかえり 頑張ったね」です(少し夏油用に語尾とかは変化しているかも)。
ここからは映画内で描写された対比表現の数々を確認しながら、五条悟の友愛と選民思想の本質、そして人の心の移ろいやすさを解説し、感情論ではなく作品の構造からラストのセリフを紐解きます!
(※本記事は漫画版を参照しません。あくまでも劇場版の解説であることをご留意ください。また、ここからは文章を簡潔にするため「だ、である調」の文章となっております。)
【中編】
【後編】
対比表現の数々
劇場版において一番大きな対比は以下の構図だ。
乙骨 憂太 VS 夏油 傑
まずはこの「乙骨VS夏油」の対比を確認する。
乙骨憂太:呪霊を操作できない。↔夏油傑:呪霊を操作できる。
乙骨憂太:里香を解こうとする(別れようとする)。
↔ 夏油傑:里香を手に入れようとする。③乙骨憂太:呪霊から2人の子供を助ける。
↔ 夏油傑:人(非術師、猿共)から二人の子供を助ける。④乙骨憂太「でも僕がみんなの友達でいるために 僕が!僕を!生きてていいって思えるように! オマエは 殺さなきゃいけないんだ」
↔ 夏油傑「強者が弱者に埋もれ虐げられることもある そういう猿どもの厚顔ぶりが 吐き気を催すほど不快だと私は言っているんだ」
(ここがなぜ対比の要素なのかについては後々解説する)もっと細かいのだと短髪↔長髪、服が白基調↔黒基調、学生↔大人、というものも考えられる。
このように乙骨と夏油には明確に対比表現がある。
私はこの対比を元にして作品の構造を明らかにすればおのずと五条悟のラストのセリフも浮かび上がってくるだろうと考え、本記事を書き始めた次第だ。
結果は、とても強い根拠を見つけられた。
夏油傑の心変わり —「弱者」の該当者—
夏油が選民思想を持っていることは明白。
その概要は「〈強者(呪術師)〉は生きる価値が有り、〈弱者(非術師)〉は生きる価値が無い」といういわば「強者生存論」だ。
しかし以前、夏油が全く逆の論を五条に述べている様子が描かれる。
〈強者〉は〈弱者〉のためにあると考えていた夏油が一体なぜここまで真逆のことを考えるようになったのか。
それについて感情論ではなくちゃんと文脈立てて解説していく。
やはり明確で大きなきっかけだと考えられるのはとある村で迫害されていた2人の呪術師の少女を救助した出来事であろう。
それまで夏油は「呪術師=強者」だと考えていた。
しかしその村で目撃した様は全く逆で、非術師によって迫害される呪術師、即ち、「呪術師=弱者」という構図であった。
これはカルチャーショックを受けても仕方がない。
夏油が乙骨との戦闘中にこのようなセリフを言っている。
これが「〈強者〉が〈弱者〉に転じうる」ということを語っているセリフだということを踏まえると夏油が語った選民思想、即ち、「強者生存論」が実は「弱者生存論」である事が浮かび上がってくる。
先に述べた通り、とある村での出来事によって夏油の中で〈弱者〉の該当者が変化している。
以前の夏油は非術師という〈弱者〉を守ることを信念としていた。
村の出来事以降は、呪術師という〈弱者〉を守ることを信念としたのである。
このように選民だとか難しいことを言っておきながら結局の所、
夏油は今も昔も〈弱者〉を守ろうとしている
だけだったのだ。
ではなぜ夏油は自身の立場をなげうってまで〈弱者〉を守ることに固執するのであろうか。
それは夏油の「実存」の形式、自己肯定の形式に起因する。
〈弱者〉にこだわる理由 —夏油の「実存」—
夏油はなぜ選民思想を抱いてしまうほどに〈弱者〉にこだわるのか。
その部分についての解説のため、乙骨から里香を奪い取る計画を話している際の台詞を引用する。
この「首をすげ替えることが可能」という発想。
これは夏油自身にも当てはまるのではないか。
夏油は〈弱者〉、即ち、非術師の者たちを守るべきものとして考えていた。
そんな信念のせいなのか「ただこの世界では私は心の底から笑えなかった」といった具合で苦しむことになった。
ここから夏油の「実存」、自己肯定の形について5つの性質が浮かび上がる。
夏油は呪霊がいるから〈強者〉として威張っていられる。
夏油は「呪術は非術師を守るためにある」と言うが実際のところ呪術は夏油を〈強者〉にするために存在している。
(逆に非術師を〈弱者〉にするために存在しているともいえる)呪霊がいなければ夏油の「実存」が揺らぐ(〈強者〉でいられないから)
非術師がいなければ夏油の「実存」が揺らぐ(非術師からしか呪霊は発生しないから)
守る相手、〈弱者〉は誰でも構わない
非術師の者たちを何から守るのかと言えばもちろん呪霊からであるのだが、夏油はその呪霊を操作できるという能力によって〈強者〉の側に立っている。
つまり〈弱者〉を助けるのは〈弱者〉にいなくなってもらっては自分の〈強者〉という立ち位置が揺らぐからであり、決して善意ではないのである。もちろん、そこには愛のようなものもない。
5の「守る相手が誰でも構わない」という部分について逆に守られる側から考えてみよう。
当たり前ではあるが、守られる側は救助に来るのが頼りがいがあれば誰だって構わない。
警察官や消防隊員に対して「この人にしてもらいたい♡」みたいな美容師のご指名のようなニーズは抱かない。
案外と人は命にかかわるような緊急の時は誰にやってもらっても構わないのである。
もしその救助に来た誰かが無能で使えなければ、民主主義国家の政治家のように“首をすげ替える”だけだ。
となると夏油の「実存」は大きく揺らぐ。
〈弱者〉からすれば〈強者〉は誰でも構わないのである。
夏油にとって誰でもよかったはずの〈弱者〉の者たちが〈強者〉に対して同じニーズを抱いており、またもや「〈強者〉が〈弱者〉に転じうる」が発生してしまっている。
この移ろいやすい立場、「実存」に嫌気がさしたからこそ夏油は〈弱者〉を絶対的な〈弱者〉に、〈強者〉を絶対的な〈強者〉にするために大げさな選民思想を抱いたのだと考えられる。
(また迫害されていた呪術師の少女2人からも移ろいやすい「実存」を感じ取ったからこそ助けたのかもしれない)。
乙骨を助けに来たパンダと狗巻に対して夏油はこのように言う。
このセリフは呪術師だけの世界への渇望を表しているとも読めるが、ここでは「自己犠牲」という言葉に着目する。
端的に言って夏油は「人が他者を助け合う世界」を望んでいる。
もっと本質的な言葉に変換すると、夏油は「“あなた”がいなくなるのはイヤだと言ってくれる世界」を望んでいる。
夏油はなんだかんだ言って寂しかったのである。
〈強者〉でいたいのにいられなくて、〈弱者〉も別に『夏油傑』を求めているわけではない。
五条悟も自分のことなんか別に必要としないほどに最強だ。
自分の居場所なんてどこにもない。
といった具合の移ろいやすさによる孤独に打ちのめされたのが夏油傑というキャラクターなのだ。
(またこれは余談だが、夏油に対してパンダが「こいつ 体術もいけるクチか」と驚く場面がある。
これは「夏油の能力があれば別に体術など会得しなくても十分なのに」という疑問から発せられた台詞であろう。
となれば先から説明している通り、夏油は呪霊がいないと成立しない〈強者〉の立場という移ろいやすさから脱却する堅実な方法として、体術の会得という道を一度は進んだのではないかと推察できる。
その堅実さを続けてくれていたらなぁ~と思った。)
以下のリンクから【中編】へとべます!
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