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漫才を分類してみた ~5つの革命とその系譜~

 お笑いの感想・評論は苦手な方はとことん苦手かと思います(だって笑えませんもんね)。苦手な方はブラウザバックをお勧めします。

 本記事では漫才がどのように生まれどのような進化をし、どのような受け継がれ方をしてきたのかをまとめました。
 意外なあのコンビが起こした革命を皆さんにも理解していただけたらと思います。
※以降、「だ・である調」の文章になっています。書き直しが手間で、そのままになっています。ご了承ください。

<横山エンタツ・花菱アチャコ>

 しゃべくり漫才の起源。一般的に王道・正統派漫才と呼ばれる形式だ。
 それまでのお笑いは音楽に乗せてネタを歌ったり喋ったりする音曲漫才(現代の代表コンビは「テツandトモ」)と呼ばれるものが主流だった。それを2人の喋りの掛け合いのリズムだけで漫才を成立させた。
 2人が同等の分量を喋り(正確に書けば同等の活躍をする)、ボケとツッコミの役割がはっきりしていることが特徴として挙げられる。2人共が主役の漫才という具合である。
(系譜に属する漫才師:博多華丸・大吉 アンタッチャブル サンドウィッチマン タカアンドトシ ノンスタイル マヂカルラブリー など)

<横山やすし・西川きよし>

 ボケとツッコミを交互に行う、言うなればすげ替え漫才
 役割の交代がなくても、“すげ替え”を用いていれば、系譜に属する。
例としてのパターン
A「これって〜〜するもんだろ?」
B「そんなわけあるかい!」ここで笑いが起きる
B「そりゃ〜〜するもんや」
A「なんでやねん!」ここで笑いが起きる

 といった具合で攻撃対象をころころ替えることで笑いの数を増やし、且つ掛け合いのスピードも上げることで笑いの数をさらに増やした。
 最大の利点であり特徴は1つのフリで複数回笑いどころを作ることができることである。
(系譜に属する漫才師:笑い飯 ブラックマヨネーズ オードリー かまいたち ぺこぱ など)

<B&B>

 1人がめちゃ喋る漫才。言うなれば偏見漫才である。
 攻撃対象を替えなくても、細かくツッコんで分かりやすくなるように重要なところを相方に強調させれば笑いの数増やせるじゃん?というアンチとして現れた。
 1人がストーリーラインを引くことで一種の偏見的な世界観を作り上げ、コアな専門性の高いネタができるようになった。こうして笑いの幅を拡げたわけだ。野球ネタや政治ネタなどができるのはこの系譜の漫才。
(系譜に属する漫才師:ツービート 島田紳助・松本竜介 爆笑問題 ウーマンラッシュアワー 千鳥 ウエストランド など)

<ダウンタウン>

 やすきよ、B&Bの漫才形式は笑いの数を増やすための工夫。早口であるが故にどちらも分かりやすいボケになった。
 じゃあゆっくりとすればちょっと難しいボケでも行けるんじゃね?というアンチとして現れたのがダウンタウン。
 ダウンタウンの特徴として挙げられるのは、松本人志のボケもそうだが、浜田雅功の“顔ツッコミ”である。「は?」「なんやそれ?」「どういうこと?」というツッコミを表情だけで示す。
 
そうすることで松本人志の捻ったボケにお客さんが追いついてくることを待つことができる。
(即座に言葉にしてツッコんでしまうと、松本人志は説明をしなければいけなくなり、ゆっくりのスピードを維持しづらくなる。もしそうなればそれはもうフリートークである。そして『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』を見てわかる通り、松本人志は説明を迫られても笑いを起こすことができるとんでもない化物だったわけだ)
 この“待ち”によってぎりぎりの瀬戸際で漫才として成立させているのだ。じわじわと笑いが起き出した時に追い討ちをかけるように松本がボケる、というのがいつものパターンである。

 この“待ち”によってボケの種類(可能域)がとんでもなく増え、お笑いの幅を格段に拡げた。それこそがダウンタウンの最大の功績である。
(系譜に属する漫才師:スリムクラブ など 影響範囲が広すぎて、系譜に属さないかどうかの判断があまりにも難しいため、スリムクラブのみとさせて頂く)

<オリエンタルラジオ>

 ボケとツッコミではなく、フリとオチを分担する漫才。つまりツッコミ不在漫才である。
 1つのボケを2人で分担して行うことに成功した(このような構造を持っている漫才がハマる2人なのだから、通常のボケとツッコミのある漫才をしようとして失敗するのは当然である気がする)。
 “ツッコミ不在”が現れたのは、“待ち”の登場によってツッコミという役割が場合によっては必要なくなってきたことによる必然であったとも考えられる。例えばオリエンタルラジオにしてもオチの後に必ず出てくる「武勇伝 武勇伝 武勇伝でんででんでん Let’s go」というフレーズは一種の“待ち”の役割を果たしている。
 ダウンタウンの影響下の中で“待ち”を最も独創的な方法で使ったのがオリエンタルラジオだと言える。

●リズムネタの誕生

 たびたび言及される「リズムネタという形式を生むことになった」というオリエンタルラジオの影響は、2人の世界観を創り上げるためのメロディの部分に着目したものである。しかし“フリオチ分担”“ツッコミ不在”に関しては後の影響が分かりづらく、あまり語られていないように見受けられる。ここで少しだけ考察をしてみる。
 例えば「ラッスンゴレライ」というフレーズで有名になった8.6秒バズーカーは「いや ちょっと待てちょっと待てお兄さん」とメロディに乗せながらもしっかりツッコんでいる。

 「スキスキスキスキス」というフレーズで有名になったEverybodyにしても「Pardon?」とツッコミまがいのことをしている。

 このようにどちらも”ツッコミ不在”には踏み切れていない。

 私個人として1番“ツッコミ不在”を体現したのはフースーヤであると考えている。

 2人揃って訳のわからない造語を述べ、最後には「よいしょ!」という“待ち”がある。このようにオリエンタルラジオの形式をしっかりと踏襲している。

 この形式の漫才はまだ歴史が浅く、使うことが難しいようだ。しかもかなり特異な形式のため、芸人が売れるかどうかの大きな決め手にもなるフリートークがなかなか鍛えられない。“すげ替え”などは明石家さんまをはじめとしたM C業で、“1人喋り”と“待ち”はあらゆるバラエティで用いられる。

●「ラッスンゴレライ」をパクる

 そしてもう一段深い考察をしてみたい。
 それはオリエンタルラジオが「ラッスンゴレライ」をパクったことで、本家よりも注目された事件についてだ。

 これは冷静に考えると不思議な現象である。
 仮に漫才師が他の漫才師のネタをパクって披露したら、もしかしたら炎上するかもしれない。しないにしても「やっぱり本家の方が良い」と言われてしまうだろう。この「本家の方が良い」という反応がなかったのは一体何故だろうか。
 そもそも“リズムネタ”と呼ばれるものは一般の人々が真似をすることが一種の恒例となっている。これも合わせて考察する。
 今回説明した“ツッコミ不在漫才”はざっくり言って、2人でボケる漫才である。ゆえに2人で共通の世界観を創り上げる必要性に迫られることになる。
 そこで8.6秒バズーカーは「訳のわからないことを言っている2人」という世界観を創り上げたわけだ。
 そしてオリエンタルラジオも「ラッスンゴレライ」をパクった時、世界観を創り上げたのだ。
 8.6秒バズーカーを包んでいた「訳のわからないことを言っている2人」という世界観に、オリエンタルラジオは「ラッスンゴレライをパクる2人」という世界観を上書きしたのである。つまり2人は本質的な「ラッスンゴレライ」はしておらず、藤森慎吾が言った通り「8.6秒バズーカーをやるオリエンタルラジオ」をしたことで新たな角度の笑いを生み出したのである。そして一般の人々もこの「パクったラッスンゴレライ」をしていたのである。
 形式の生みの親であるオリエンタルラジオが”世界観の上書き”を発見した辺りはさすがとしか言いようがない。
 ちなみにフースーヤも『アメトーーク!』(麒麟川島「小池百合子の踊り食い」最高でしたよね)にて世界観の上書きがされてしまっており、彼等の衰退に大きく起因していると考えられる。

 通常の喋る漫才であれば、世界観を上書きすることはできない。難しすぎる。
 しかし“リズムネタ”は本筋や間の取り方などは一切不要で、メロディとリズムだけ覚えればいい。この世界観を上書きする(される)ことが容易であること、それ故に世界観の維持が難しいという特徴が、一般の人々に受け入れられやすい原因であり、 “一発屋”になりやすい原因でもあると私は考えた。
 このようにツッコミ不在漫才の形式と本質からして”一発屋”になることは仕方がないのかもしれない。
 だが、オリエンタルラジオは生き残っている。
 その理由は、2人の漫才には絶対にまねできないことがあるからだと私は考えた。それは”本気さ” ”一生懸命さ” ”勢い”である。これらの要素はネタを真似しようたって身から湧き出てこない。
 この”ツッコミ不在漫才”を一発屋に終わらせないためには「世界観を奪わせてなるものか!」「これは俺たちの漫才なんだ!ネタなんだ!」という熱さ、気概が必要なのかもしれない。
(系譜に属する漫才師:8.6秒バズーカー フースーヤ Everybody ハライチ ジャルジャル 東京ホテイソン 霜降り明星 ミルクボーイ など)

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