学園漫画の歴史は攻撃対象の移り変わり
学生たちはどのように自分という存在を確立するのか。
それは何かを攻撃することです。
それは親かもしれないし、自分自身かもしれない。
学園漫画の歴史とは、若者たちがその時代ごとの問題に直面しながらも必死に自分という存在を主張しようともがき続けたの歴史なのです。
この記事では、その歴史がどのような変遷を辿ってきたのかを時代を象徴する漫画作品を例に挙げながら解説していきます。
まずは学園漫画の歴史、変遷を表にまとめたものを示し、表を基に説明をします。あくまでざっくりとまとめたものであることをご了承ください。
① ヤンキー漫画から引かれた系譜
ヤンキーたちには明確な敵がいました。大人、および社会です。
学生運動の名残も残っていたと思われます。
敵が「国」という力の大きなものから、「学校」に変わって少し規模が縮小していることが特徴として挙げることができます。
私がYouTubeで検索をして視聴した90年代のヤンキーたちの動画の中で個人的に印象に残ったヤンキーの発言は「世紀末だ!バカヤロー!」というものです。
現代の人間からすればアホだなぁバカだなと思うかもしれませんが、ヤンキーたちは暴走族になったり町に落書きをしたりして、本気で時代を乗り越えようとしたのです。
② GTO
『GTO』の凄味は、ヤンキーの時代が終わりつつある頃を描いている点にあります。
ヤンキーの時代の終わりとはヤンキーたちが大人になり、敵であったはずの社会に回収されていく様を見せつけられた後輩たちの「俺たちの敵ってどこにいるんだろう」とさ迷いだした時代です。
この時代の子供たちは「大人というのは負けた人々」であると知っています。そのために自分たちに説教垂れる大人を信用、尊敬することが全くできない。
鬼塚英吉というキャラクターも始めは、負けた人々の代表として描かれた。
明確な敵がいないため『GTO』の生徒たちは同級生をいじめるし、教師を目の敵にするし、親にも反抗するし、タバコのポイ捨てをしたりする。
そんな子供たちの前に「これだろ?」と敵を示してくれる大人が現れる。それがグレートティーチャー鬼塚英吉!
鬼塚英吉をヒーロー足らしめるのは、盲目的に何かを攻撃するしかない子供たちに、課題を明示して見せる「先生」「グレートティーチャー」という気質なのです。
③ 暗殺教室
『暗殺教室』では浅野理事長が鬼塚英吉のダークバージョンとして「E組の生徒を攻撃しろ」と全校生徒たちに敵を明示します。
まず作者は作品内で「鬼塚英吉の方法論は効果的であるがゆえに、使い方によっては大変なことになる」とアンチテーゼを繰り出しているのです。
『GTO』の生徒たちは敵が定まっていないにしても攻撃はしています。
『暗殺教室』のE組の生徒たちは誰も攻撃しないでいる(少数であるがヤンキーがいる。少数であることが『GTO』からの時代変化を表している)。
攻撃対象を見つけることもできなければ、攻撃されることを拒否することもできない。そんな現状を完全に諦めているためです。
そんなE組の生徒たちの前に現れた謎の生物、殺せんせーは
「私を殺してみなさい」
と自ら攻撃対象になってみせようと宣言をします。
そして生徒たちは攻撃してみるのですが上手く攻撃することができない。
なぜなら自分たちが非力だから。
じゃあどうやって攻撃を成功させようか、と考え始めたことで勉強をするようになる。
つまり殺せんせーは生徒たちにとっての攻撃対象になることで
「私を殺すためには、まず何者にも立ち向かわない自分を殺しなさい」
と攻撃対象を生徒自身へ向けさせたのです。
殺したい相手を殺すにはまず自分を殺せ。
言い換えれば、人を変えたいのならまず自分から。
「殺す」「暗殺」という単語には似合わず、とても良識的なメッセージ。
<まとめ>
以上で学園漫画の歴史が攻撃対象の移り変わりという大きな流れの中で描かれてきたことがお分かりいただけたと思います。
遠くの敵も身近な敵も自分自身も攻撃してしまった現在、次世代の学園漫画ではいったいどこに攻撃対象が移行するのか。それをどのように描くのか。とてもワクワクしています。
それと同時に、攻撃対象を自分自身にしか向けることが出来ない子供たちの苦しみと、『暗殺教室』を過ぎた次世代の子供たちは現在進行形で路頭に迷っていることに思いを巡らせずにはいられません。
追記をしました。こちらのリンクからよろしければどうぞ。
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