見出し画像

愛とシゴトとナイチンゲール(3)ナースコール取らなくていいから

国武めい|主人公。新人看護師。仕事ができず落ちこぼれ、かなり迷走している。
吉井艶子|めいの病棟に入院中の重症リウマチ患者さん。72才。

無視せよ

「あの患者のナースコール、取らなくていいから。あなたは別の仕事して」

新人看護師だった頃、先輩から言われた言葉である。「あの患者」とは、重症リウマチで入院中の吉井さんのことだ。

患者さんのナースコールは、取るものであって無視するものではないはずだ。看護師になりたての私には、まるで「自分が無視される対象」になったかのようにショックを受けた。

吉井さんのナースコールは回数に限度がなかった。用件も些細なことだった。「ベッドの下に置いている箱を取って!」「床頭台の小帚を取って!」「背中が痒いけど孫の手が届かない。ちょっとここを掻いてよ」吉井さんの要求は際限も妥協もなかった。

「掻いて欲しい」と言われるので、ステロイドでもろくなった背中の皮膚を掻けば「違う違う、そこじゃない。もっと右、右!そこ!そこの下!そうそう、そこそこ」と大きな声で指示を飛ばした。どんな用件であっても、看護師をつかまえたらきっちりと要求を満たす。その姿勢には一切の遠慮はなかった。

先輩たちは吉井さんにほとほとうんざりしていた。「患者さんは吉井さんだけじゃないんだし、あんなに頻回にナースコール鳴らされたら困るのよねー。」「私たちは召使じゃないんだってば。」「こっちが忙しいときもお構いなしなんだもん。急ぐ用でもないのに。誰か来るまで鳴らし続けて、もうイヤんなるね」と、先輩たちは口々に吉井さんの悪口を言った。

限度を超えた雑用は看護の範疇には入らない

先輩たちはバタバタと忙しいときに吉井さんのコールが鳴っても、「はーい」と返事しただけで訪室しなかった。するとすぐまた鳴る。

「なんですぐ来ないの?!」吉井さんの怒りがにじみ出ているような執拗な音でナースコールが病棟中に響き渡る。先輩は、次は返答もせずにナースコールを切ってしまう。また鳴る……。いたちごっこだ。

先輩たちに言わせたら「日常生活の援助は看護のうちだが、吉井さんの要求は限度を超えている。必ずしも今でなくてもよい用事を頻回に頼まれるので、そのたびに業務が中断される。些細な要求に何度も応えるのは看護の範疇を超えている」という分析になるだろうか。

そこに来て、新人看護師は素直でスレていない。吉井さんにとって、新人看護師は格好の獲物だった。獲物と言っても看護師いびりをするわけではない。あれこれ身の回りの雑用を頼むのに、右も左もわからない新人看護師はうってつけなのだ。

オロナインの蓋を落としたと言ったら、ベッドの下にもぐって探してくれる。決して「掃除の人に、ベッドの下を見てもらうように言っとくね」なんて言わない。吉井さんにとってはそういう人材こそが重要だったのだ。

元気だった頃の彼女

吉井さんは、もともと神経質で厳格な性格だったのだと思う。主婦として家の中をきれいに整頓し、チリひとつない状態に保ち、常備菜を欠かさず、毎日手の込んだ献立を用意したに違いない。洋服もきちんとアイロンがけし、華美じゃないけど清潔感ある装いをしていたのではないだろうか。町内の婦人会に出れば、キビキビと立ち働き、きちんとしすぎるがゆえにちょっと近寄りがたい存在だったかも知れない。

そんな吉井さんがリウマチになったのは40代くらいだったろう。まずは朝、起きたときに、指がこわばって何となく動かしにくいと感じたのが始まりだったと思う。

そんな彼女が、リウマチのせいで家事ができなくなったとき、どんな気持がしただろう?

包丁が握れなくなったとき、雑巾が絞れなくなったとき、吉井さんは主婦としての自分にどう折り合いをつけてきたのだろうか?

ズボラな私は晩ご飯はスーパーの総菜でも全然平気だし、部屋の隅にホコリが溜まっていても全然かまわない。でも吉井さんには、ホコリすら自分の手でどうにもできなくなることについて、この上ない苦痛だったんじゃないだろうか。

そう思うと、「その窓をあと10㎝閉めてくれない?」と吉井さんに頼まれても、先輩たちみたいに「うっとおしいなあ」とは到底思えないのだった。



※これはフィクションです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?