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母の遺影

2022年3月、父と母が金婚式を迎えた。

その時まさか7ヶ月後
母が亡くなるとは思いもしなかった。


お寺の住職として
喪主として泣かないように
お葬式の間は見ないようにしていた。
なぜならどんな思いでこの遺影を撮影したのか。
母の覚悟を知っていたから。

5月
「5月ごろからしんどい。病院行ったら総合病院に行ってくださいって。」
母からのLINEだった。
母はお寺の坊守。めちゃくちゃ元気でパワフルな人だった。乳がんは2018年に患ったが、手術してその後は元気だった。

6月
検査入院。
コロナ禍のため面会はできない。母に電話したら
自分のことよりも、父のことを心配していた。
まず自分の心配してと強く言ってしまった。
母が入院して一番動揺していたのは父だった。

だけど嫌な予感は私はしていた。2月から発声が弱々しくて、コロナワクチンの影響なのかなと
思っていた。
4日後、母は退院。
後日検査結果を聞くため私は付き添った。
私は精神科ではあったが看護師として
20年間勤務していた。
何かしら母の役に立つと思って付き添いたかった。

「4月くらいから微熱が続いて、
食欲も無くなってしんどかってん。
もう私はどうなるんやろう。」
診察を待っている間、涙目になりながら語る母。
こんな不安な母を見るのは初めてだ。
「検査入院していた時も退院の時、看護師さんが
把握してなかった。私のことなんてどうでもいいって思われていたんや」
それはキツイな。なんで把握してなかったんだろう
と思いながら診察に呼ばれた。
血液検査を見たらかなり貧血がすすんでいる。
そしてCTの画像を見て愕然とした。
肝臓に大きな腫瘍の影があった。
これはアカン。
ひと目で大変なことが起こってしまったと感じた。
看護師じゃなければよかった。
看護師でなければ告知の前にこんな思いしなくてもよかったのに。
細胞診の結果、悪性だった。
診断結果は胆嚢癌の肝臓転移
肝臓の4分の1から3分の1にかけて大きな腫瘍
さらに細かい腫瘍が肝臓全体にあり
手術は困難、放射線治療も難しい。
抗がん剤治療しか残されていない。
医師から説明があった。

私は残酷なことを聞いた。
母の前ですけど余命はどのくらいですかと。
だけど誰かが聞かないと教えてくれない。

「抗がん剤治療しなかったら余命1ヶ月です。」
母は驚いた。私は驚かなかった。
予測がついてしまった。
この先どうなるか不安なこともあるけれど
この先どうなるかわかってしまっても
苦しみは変わらないものだ。

治療は抗がん剤治療しかない。
しかも薬は1種類しかない。
そして末期がんだ。
私は診察室で医師に伝えた。

母は母らしく生き切ってもらいます。

抗がん剤が効いても余命は一年もないだろう。
今年中かもしれない。治ることはない。
だったら母は母らしく生き切ってもらうことを
私はサポートする。そう決意した。
1回目の抗がん剤治療は入院して様子を見るとの
ことだった。もちろん面会はできない。
明日から入院ということで決まった。
この診察の結果を家に帰って父に伝えた。
母は体力消耗して話せる元気がない。
父は「もう心配で心配でここ数日ご飯食べることできない。どうだった。」
父は住職をしながら総合病院で薬剤師をしていた。
だからそのまんま話をしようと考えた。

胆嚢癌だったこと、肝臓に転移あること。
でも乳がんからの転移じゃなくて原発のものであること抗がん剤治療しか治療方法がないこと、
明日から1回目は入院して様子みた方がいいということで入院になることを父に伝えた。
お互い医療従事者やってたから冷静に話してる。
大体のことは父も把握していると感じた。
「明日から入院なのでお父さん大変になるから、妹たちに連絡して様子みてもらうようにすることを父に伝えた。
母が入院中、妹たちが実家に来てくれて、
父に洗濯教えたりしてくれていた。
父との会話を母は自分の部屋で聞いていた。
その時、起き上がって台所のシンクに小走りに
向かって嘔吐してしまった。
大変な日がこれから続く。
覚悟しないと。

検査入院
抗がん剤治療のため入院し、治療後38℃以上の熱が出てしまい、退院が延びた。
コロナ禍で面会禁止が続いていて状況がわからないし、病棟に電話しても看護師からは説明は医師からと言われた。
「それはわかっているのですが
ご飯食べることができているのか
今体温はどのくらいかを知りたいです。」

「洗濯もされてますし
ご飯は半分食べることできてますし。」
熱はと聞くと
「38℃ですね」

家族の立場として熱が38℃あることは大変なのに現場では日常茶飯事になっているのかと思った。
なによりも面会できないということがどういうことなのか現場ではピンと来てないんだなと。
私が看護師やってた時のことを思い出した。
家族の思いをどれだけ汲み取れていたのかなって。
振り返って反省した。

そのあと担当医師から電話あった。
癌は2週間前から1.5倍大きくなっている。
熱は肝臓に膿ができる肝膿瘍になっている。
抗生剤を投与しているがなかなか効かない。

また今後病状説明してもらいたいと言ったら
「そんな時間しょっちゅうは取れませんけどね。」

そんな言葉を聞くとは思わなかった。
面会できないって辛い。

この状況で、母は退院できずそのまま亡くなる可能性もあると思い父、2人の妹にLINEをした。

三女からLINEが来た。
癌告知される前の日のことを私は知った。
父から今日は母のお葬式で
使う写真を撮りに行ったと。
2人の間で覚悟してるようだったと。
明日の検査結果次第で入院になったら1ヶ月とか家を空けるから父にいろいろ教えていると。鐘つき、ゴミ出し、洗濯、銀行振込など教えていたという。

LINEを見て涙が止まらなかった。
まだ癌と確定していないのにも関わらず
自分の遺影を撮る母。付き添う父。

次女からのLINEからは
お父さんから、お母さんの法名を考えたと
教えてもらったと。

娘3人の名前入りで、お父さん自信作。
次女のLINEには
『父から母に対しての愛のこもったプレゼント
素敵やね💓』

父は覚悟していて法名まで考えていた。
何かしら母の病状はただものではないと
感じていたんだ。

父に母の病状を伝えた。
父には毎日母がメールをしていた。一昨日はメールがなくて心配で眠れなかった。だけど昨日、母からのメールが届いたと。
その日は父の日だった。
お父さん父の日おめでとうってメールきたと
父は話した。
「お母さんに会えなくても、
わしはメールでお母さんと繋がっている。
その後お母さんがどうなってもこのメールで繋がっているからお母さんと会えなくてもいいんや。」
大粒の涙を流しながら話した。

父は遺影のことを話した。
母にお父さんついてきてほしい。
私写真撮りたいと。癌告知されてないのにも関わらず母は遺影を取りたいとお願いされたと。
しかもしっかりと、お坊さんの格好、布袍(ふほう)輪袈裟で撮影に臨んだ。
母も僧籍を持っている。自分の命がもう僅かしかないかもと思って遺影を取るなんて、お寺の人だなあと感じた。写真屋さんにはびっくりされたという。
父は、母のプレゼントとして法名、他の宗派では戒名と言われるものを考えていた。
その法名の中には母と三姉妹の名前の一文字が入っている。父に聞いた。
お父さんの名前は入れなくていいのって。

「わしはお母さんとは血が繋がってない。だけど娘たちは繋がっている。お母さんは寺のために一生懸命やってくれた。辛いこともたくさんあったやろう。そのことを思って法名考えた。」
父から母への愛を感じた。
母の病状は家族一同覚悟した。
明くる日、グループLINEで母とやっと電話できた。
三姉妹ほっとした。

母は回復、熱も下がり退院できた。
それも病院からは何も連絡来ず、
母からのLINEだった。
そして母に出会った時、顔は痩せこけ青白く
声の力がなかった。
「やっぱり家はいいなあ。ほっとする」
穏やかな顔で言った。
なんとか自分のこと、家事をこなせる体力。
病院に対する違和感、面会できないこの状況を見て私は決意した。
母を自宅で看取ろうって。
私は働いていた時、訪問看護を経験している。
自分たちが住んでいなくてもできると確信していた。そのことはふわっと三姉妹には伝えた。
2人とも
「そんなことできるの、お父さん何にもできないのに大丈夫なのか。」
戸惑いはあって、どちらかといえば反対だった。

緩和ケアで勤務している私と同じく看護師で僧侶の友人に母の状況を伝え相談した。
「伊達さん、お母さんは短期決戦になるから、後悔のないようにしてね。」
と言ってくれた。心強かった。
私は母らしく最後を迎えてもらう準備を始めた。

まず金婚式迎えたということでプレゼントすることを3月に約束していた。
母は畳のベットがいいと言っていた。
ほんとはリクライニングのベットがいいと思っていたが、母には生きるという気力を失ってもらいたくないので三姉妹からプレゼントした。
母がそのベッドで寝たのはわずか3ヶ月だった。

7月
受診には必ず付き添った。そこで主治医と話す機会だから。その後抗がん剤の治療。
この時は少し動くことができていた。
顔色も良くなった。食欲も少し戻っていた。
入院中の抗がん剤が効果があったんだろう。
血液検査は貧血がひどく、母が
「貧血治すにはレバーとかいっぱい食べれば治るんですか。」と質問した。
そうではないですと医師は伝えた後に
「抗がん剤が効いてもがんは消えることはないです。小さくなる可能性はありますが。」
そのことを聞いて母はショックを受けていた。
ガンが消えると思ってたのと聞いた。
「うん。」
母には消えることはできないけれどガンとともに生きるということ考えたらと伝えたら納得した。
私の本心は抗がん剤が効かなくなるのはいつまで
なのか。その時はもう治療は中止される。
看護師っていうのは嫌だな。先が見えるから。
先が見えない不安もあるけれど先が見えるというのも残酷なものだ。

抗がん剤治療をしてから少し腫瘍マーカーの数値が下がった。
母も貧血からのふらつきはあるものの日常生活は
過ごせるようになった。
いつまで続くだろう。
抗がん剤しなかったら余命1ヶ月と言われていたし
抗がん剤の薬も1種類しかない。
それが効かなくなるのはどのくらいだろう。
短期決戦、まさにその通りだな。
今年いっぱいは持たないだろうと推測した。
もっと早いかもしれない。

8月
盂蘭盆会のためご門徒さまが掃除に来てくれた。
その時母に休んどきやと言っていたのに気づいたら庭の草引きしていた。
私は止めなかった。止めてもやるだろうと見込んでいたから。
横に寄り添い、様子を見ていた。病状知っているご門徒さまから休んどきと母に言ってくれた。
ご門徒さまは母が入院していたのは知っていた。
母の口からガンだということを皆さんに伝えたのは初めてだった。
ここで皆さんに挨拶したかったんだろうな。
自分の最後になるかもしれない挨拶を。
盂蘭盆会の花も妹がいけると言っていたのにも関わらず母がふらつきながら生けていた。お花をいけることができるのは最後かもしれないと母が思っていたんだろうな。その花を私はスマホで撮影した。

9月上旬
診察で付き添った。血液検査の結果は腫瘍マーカーの数値が上昇していた。
ついに来てしまった。抗がん剤が効かない。
抗がん剤投与どうしますかと言われ、母は受ける
ことを伝えた。
私は効果がないと考えながらも、母が生きたいというは気力は失ってもらいたくなかった。
私も望みをかけて止めなかった。
それから私は地域連携室に相談に行った。
家で介護するには介護保険の申請がいる。
そしてこれから家で看取りか、病院で看取りか、母がどう選んでもいいように準備する必要があった。入院するまでの間は家で介護ということになる。
母が緩和ケアの入院を望んでいても、その病院の緩和ケアは会議にかけて入院する患者を決めるということを説明された。
だけど私が家でみたいと言っても母が選んだものではないし、母の人生だからそれに対してサポートするだけだから。そのことは妹たちに伝えた。
「父のことを考えると、入院がいいと思うよ。私らは別に住んでいるし。お父さんも弱っていく母を見ると辛いと思うよ。」
二人の妹は話した。
二つの選択ができるように準備したことは、
了解を得た。
9月下旬
三女から電話があった。
今度の診察の時、お姉ちゃん病院で母を待ってほしいと。母は自力で歩くことができなくなった。家でもふらつきが強い。そして車の運転ができなくなった。2週間前は車を運転して病院に通院していたのにそんなになっていたのかと驚いた。
タクシーで向かうからそこで待ってあげてと。
ついに来た。そんなに悪くなっているとは。
母を病院で待っていたら、愕然とした。顔色は悪く、話す声も力がない。タクシーで降りてくるのもふらついていた。私は病院で車椅子を借り、お母さん乗るかと伝え、車椅子に乗った。
2週間でこんなに変わるのか。息切れもある。
意識もぼーっとしている。

医師の診察で
「抗がん剤は効かないです。
だからやめましょう。」
ついに来たか。泣くのを我慢した。
私は聞いた。母の前では残酷なことを。
余命はどのくらいですかと。
「1ヶ月から3ヶ月。月単位だと思います。
来年はないです。」
母は
「そうですかあ。そんなに早んですか。そしたら緩和ケアの病棟に入りたい」と母が言った。
医師は
「緩和ケアは希望すれば入れるものではないんです。まず緩和ケア外来に行って、そこで予約という形になります。その間の日常生活は医療を入れる
必要があります。往診をしている医師を紹介します。そこでフォローを受けてください。」
1ヶ月持つだろうか。病状悪化のスピードが速い。
診察後母が聞いた。
「先生なんていうた。私の余命。半年?」
1ヶ月から3ヶ月だってと伝えた。
「忙しいねえ。あんたには迷惑かけるねえ。」
私は母の前で泣いてしまった。
涙が止まらなかった。いいんだよ。
私は迷惑かけられても。
だって生きているから迷惑かけられるんだから。
「あんたが泣いたら私泣くことでけへん。」
ごめんねお母さん、
泣くことできなくて本当にごめん。
カルシウムの数値が低いため補充の点滴をしている間に地域連携室に行って往診してくれる診療所を紹介してもらったり、緩和ケア病棟の外来予約を取ったりして準備をした。介護保険課にも行き、ヘルパーステーションと、訪問看護の事業所のパンフレットもらったりしてきた。
母と今後のことを話した。お母さんは最後をどこで迎えたいのかって。
私らに迷惑かけるからとか、お父さんが心配だからとか考えないで自分がどこで最後を迎えたいか正直に言ってと伝えた。
「緩和ケア病棟にする。」
本当にそれでいいの、面会の時間も決められているよと念を押した。
「それでいい。」
私はそれが母の本心とは思えなかった。
入院早くできるかわからないから両方準備していくよと伝えると頷いた。
診察が終わり、母の病状を父に伝えたところ、動揺が大きかった。
「そんな状態やったらどっかの病院に入れてみてもらった方がいいんじゃないか。お前ら家にいないしお母さんに何かあったら何もできない。」
その不安はあるけれど、今の状態だったらどこも入院の対象にはならないこと、訪問看護私もやっていたし、往診の先生もつくから大丈夫と伝えた。
それに何かあれば私が仕事休んで付き添いすること伝えた。
「お前は家でみれると言うけれど、それはお医者さんとお前の策略ではないか。」
私は怒りが爆発した。
違うわ。そんなこと何が策略やねん。
お父さんがそんな状態になったら速攻病院に
入院してもらうから。
心の中で叫んだ。
とにかく往診の先生が来るからその時に伝えたらいいと父に話した。
往診の医師は在宅医療のベテランで母に丁寧に話してもらった。
「病院がやることと、家でやることはそんなに変わりはない。ただ看護や介護は私はできないから訪問看護や家族さんでやってもらいたい。」
医師でできることできないことを説明するのは信用できる。
これからの流れを誤魔化さずに、最後を迎えるプロセスを話してくれた。
母はもうベッドで座ることが出来ず、寝ながら聞いていた。
難聴の父のサポートに三女が一緒に聴いてくれた。
この医師ならおまかせできる。この先生は病院で亡くなる患者さんを見送ったからこその言葉の重みだった。
父がすごく心配していることを医師に話した。
医師は父のそばに行き、
「お父さん大変やね。でも医療のことはわたしたちに任せてください。大丈夫だから。」
その言葉を受けて
「はい。わかりましたー。あー良かった。あー良かった。」
なんやねんこの態度の変わり方…。まあ良かった。
先生が「訪問看護お決まりですか?」
まだ決まってないけど候補はあると話すと、先生から連絡してもらい、自宅で面談することになった。
ケアマネジャーさんと、訪問看護ステーションの所長と会う。
初めましてと挨拶したが、訪問看護師の名刺見たら看護学校の同期だった。マスクしてるからわからかったけど、本当に嬉しかった。
ケアマネジャーさんも親戚がケアマネジメントしてもらってたようで、心強かった。
それからリクライニングの電動ベッド、訪問看護の日程、ケアマネジメントの計画を決めた。
その日は私の誕生日の次の日だった。姉の誕生日だからと三女が買ってくれたケーキを家族で食べた。
母も食べることが出来た。
次女は母と姉妹お揃いのクッションをプレゼントしてくれた。
その後母が3つの箱を持ってきた。
「これは形見分け。どれか選んで。」
指輪だった。三姉妹で好きなのを選んだ。
私にとって忘れられない誕生日会になった。

10月第1週
今後のことで三姉妹でランチをした。これから大変だけど頑張っていこうと私は話した。
母の余命について2人に話した。
「お母さんは10月いっぱい持つか持たないかと思う。母の癌は元気が良すぎてなぁ。」
このことを伝えると三女は大泣きした。
「そうなん。そんなに早いの。私は今年いっぱいは大丈夫かと思っていた。今日は調子悪いけど明日には少し気分がいい日ってないの。そんなんお母さんがかわいそうや。」
泣きながら話した。
次女は
「わかってるよ。妹はわかってないやろなと思ってたわ。」
三女は
「お父さんは知ってるの。」
わかってるよと伝えた。
母が生きてる日はもう短い。
だから精一杯のことしよう。妹たちに話した。
母はだんだんベッドからトイレまで行くのが歩行器がないと行けなくなってきた。
ポータブルトイレに移るのが精一杯だった。
訪問看護も、毎日2回になった。
そんな時、妹から緩和ケア病棟に入院したいと母が話していると聞き、母にも聞いた。
「入院したい。病院入る。」
その日は往診だったので先生に伝えたらと話した。
母は癌特有の痛みは少ないものの倦怠感が大きく、
眠れないのもキツイと話した。
医師から話をしてもらった。
「お母さん、病院入っても今とおんなじことだよ。
病院入ったら今のだるさとかがマシになるんじゃないかと考えてないかな。」
母は黙って聞いていた。
医師の話は続く。
「緩和ケア病棟も、こちらが話をしてもすぐには入院できないのよ。休息入院で他の病院入っていても今コロナで面会禁止なんよ。面会できないのはつらいよ。それだったら今おうちにいて娘さんやお父さんがそばにいるのがええと思うんやけどなぁ」
そう、コロナ禍でほとんどの病院は面会禁止。
緩和ケア病棟も、付き添いや面会は時間が決まっている状況だった。
そのことを踏まえても母は
「入るぅ。」
か細い声で話した。医師はそうだったら緩和ケア病棟に連絡するけどと、話した。入院決まれば明日連絡が来ることを伝えられた。

次の日に実家に行くと母が
「こんなにしんどかったら
病院行けへんからここにいる。」
と話した。その後往診があり、医師にも伝えた。
緩和ケア病棟からの連絡はなかった。
自宅で過ごす旨を医師からも病院に連絡することが伝えられた。
ポータブルトイレに移るのが体力的に無理になり
オムツするかと聞くと頷いた。
日に日に衰える母の姿見るとこんなに癌の進行が早いのかと、驚きとつらさが湧いてきた。
10月第2週
1日目
朝6時45分に母から電話がかかってきた。
「智子…しんどい…。」
か細い声、そして息切れがきつい。わたしはすぐには行くことはできないので訪問看護の緊急電話にかけて様子を見てもらうように依頼した。玄関も閉まっているので父にも玄関開けるように頼んだ。その日の夜、次女から電話が来た。
「お母さんバタバタ暴れて大変やった。話すこともちんぷんかんぷんだし大変やったわ。ちょっとこの状態ではお父さん夜1人やし大変やと思う。」
ついに意識障害、せん妄が出てきてしまった。
もう病院に頼むしかないかなと話すと
「病院やろ。大変やで。夜お父さんだけでは持たないしな。とりあえず今日は眠り薬飲んでもらったし。今まで私ら頑張ったよ。精一杯のことしたんじゃないかな。」
ありがとうと話して電話を切った。

もう限界かなと考えた。やっぱり家で看取るのは大変なことだ。この状況で娘たちは一緒に住んでない家では父1人で、夜が心配だ。明日は往診だから相談しよう。

2日目
実家に着いたら父が憔悴していた。元気印の母が弱っていく姿を見るのが辛いだろうなと感じた。
母のところに行くと私たち三姉妹の名前を呼んで「しんどい〜しんどい〜。」
と叫んでいた。
父にお母さん病院に頼もうかと話した。
「いや、ここまで来たら家でみよう。」
と話した。自宅介護をあんなに不安に思っていた父だったのでびっくりした。訪問看護に看護学校の同期が来てくれた。
このままだと母もしんどいし、ずっと寝てもらった方がいいよねと苦痛を和らげる鎮静した方がいいかなと相談した。
「往診の先生やってくれるよ。その方が本人さんも楽だよ。」
と言ってくれた。
そして往診時鎮静をお願いしたいと医師に話した。
鎮静について医師が話している途中、
母から出た言葉は
「もうしんどい。苦しい。早く死にたい。」
癌のしんどさは死にたいほどの苦しみだったんだとショックを受けた。
「今日提案しようと思ってました。ただ鎮静をかけるとお話はできないからまだ話せる時に話したい方いらしたら明日来てください。」
子どもたちに会わせたいと一緒に聞いていた三女が話した。

そのあと次女も来た。子どもを連れて。
孫を見た母は
「大きくなったねぇ」と話した。
その後精神安定剤を注射してもらった。

3日目
孫たちと会ってから
夜から苦痛緩和のための鎮静剤を開始した。

4日目
訪問看護師さんから電話。血圧低下と便がでたが、肛門の締まりが悪い、亡くなるのはこの2、3日であろうと。
姉妹に電話、夫に電話、職場に連絡して実家に向かった。父と三姉妹揃った。母はいびきをかいて寝ていたが、足の浮腫がひどい。三女は一旦家に戻り
私と次女が泊まることになった。父も覚悟をしていたが動揺していた。私と次女はこれからお葬式となったらお酒飲む暇ないから母の部屋でテレビ見ながらお酒飲んだ。いろいろ話をしながら。

5日目
訪問看護きてくれて、血圧が上が60代と伝えてくれた。ゴロゴロいっている。死前喘鳴と言われるものだ。みんなで看取りできるように私は母のそばにいた。お母さんありがとう。お疲れ様。声をかけながらそばにいた。

私と姪っ子が母のそばにいた時、閉じていた目が開いた。私は声が出なかった。姪っ子にみんな呼んできてと頼み父、次女、三女がきた。
大きく呼吸をしている時、お母さんありがとう、お疲れ様と三姉妹は声をかけた。父から
「南無阿弥陀仏、なんまんだぶ。」
それに合わせて合掌してみんなでお念仏を称えた。

母は自宅で家族が見守る中亡くなった。
みんなが称えるお念仏を聴きながら。

父が泣きながら
「もうここで一通り泣いたら、次に取り掛かろう」
と声をかけた。
医師の死亡確認の後、訪問看護師さんと一緒にお着替えをした。
遺影と同じ布袍、輪袈裟を最後に着せてくれと母は私に言ったから。
母のお化粧。少しでも母の顔が血色良くなるように
綺麗に見えるように。チーク強めにしたから乙女感が強めだったけど。
お葬式の準備の中、母の遺影をはじめてみた。
笑顔作りたいけれど、無理矢理作ろうとしている。
でもなんだかホッとしているような感じもした。
お葬式の時叔母が、遺影を見て
「泣いてるやん。泣いている顔やん」
確かに泣きそうな顔。
癌告知の前の日、自分の命がもう終わるかもしれないかもと思いながら、だけど間違いであって欲しいと感じながら撮影した写真。

母が自分の命と向き合った写真だった。

お通夜の後、父が言った。
「家でお母さん看取ることできてよかったなあ。」

お父さん、妹たち、
母の看取りに関わってくれた皆さんへ
支えていただきありがとう。


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