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多様性の体現者は激レア

浮世は多様性の時代。

個々人の意思が尊重され、ハラスメントには厳しい時代となりました。
就活をしていた当時、いろいろな企業がダイバーシティへの取り組みを資料に載せていたり説明会で言及したりしていたことを思い出します。

「自分らしい」生き方を実現させよう、そういう空気感があります。

僕はこれ、劇薬だと思うんですよ。

今日は多様性というテーマで記事を進めていきます。


自由と責任と信頼

僕は高校生のときに何度か怒られた経験があるのですが、1回だけ反省文フェーズまで行ってしまったことがあります。

そのときに書いたこと、「自由には責任が付きまとうことを知った」。
バカやって痛い目を見て、このときに初めて責任というものを理解しました。

自習を抜け出して、体育館で遊びまくっていたところを目撃され、そこにいたメンバーは全員反省文を書くことになりました。
僕の通っていた高校は割と自由な校風で、自習監督はいませんでした。
そこに甘えて、抜け出して遊んでしまったんですね。

どれくらいの自由度が与えられるかにもよりますが、支配の及ばない場で人間は自分で管理できる範疇を超えた行動を取ることができます。

その行為の責任は、全部自分で背負わなければなりません。

先ほどの自習を考えましょう。
自習監督の先生がいるにもかかわらず抜け出した場合、僕は当たり前に怒られますが、先生も監督不行き届きで責任を被る可能性が極めて高いです。

実際、中学生時代に、体育館掃除を盛大にサボってみんなでハンカチ落とししていたこともありまして。
校長先生が鋭いまなざしで僕らを見ていたのを観測したときの焦り。
鮮明に、思い出せます。
ただ、このとき校長に直接叱られたのは僕らではなく担任の先生(清掃の監督)でした。(その後もちろん担任から叱られました)

そして、これらは「僕らがサボらない」という信頼への背信行為であり、先生の期待を裏切った事例です。
自由は信頼のもとに生まれ、責任と共に運営されるものなんです。

時代は、責任を背負う覚悟に先行する

さっきの例はダイレクトなミクロの信頼でしたが、現代における多様性は政府や偉い人が僕らをマクロ的に信頼して実現する自由です。

つまり、自由について回る責任を背負う覚悟を問うことなく、僕らに自由が与えられているということです。
この流れに乗り切れず、自己実現の方向性を見失ったとき、誰が責任を負うのか。
己自身なんですよ。

社会や企業が用意したテンプレートから不可抗力でドロップアウトしたとき、彼らは少なからず何か救いの手を伸ばす準備はあったと思うんです。
今はそれが無い。
そもそも企業に属せずにフリーランスで生計を立ててたら組織の後ろ盾もありませんからね。

企業に属していても、企業年金は自分たちで運用しなくてはいけなくなっていたり。
そもそも終身雇用の牙城は少しずつ崩壊しつつあって、転職の繰り返しでステップアップしていくこの風潮が続くのならどんどん自己責任で片付けられるものは増えていくでしょう。

何もしなくても、僕らは背負う責任がどんどん膨れ上がっているんです。

多様性の実現

増税メガネとか、検討使とかいろいろな言葉で揶揄される現政権。
では、小さい政府が実現したときに国民は満足するのでしょうか。

僕はもっと不満が出ると思います。

健康保険とか、公共の福祉とか、これらが失われたときに1つのミスで人生が瓦解するんですよ。
健康保険が無い状況で貰い事故したら、多分えぐい金額が請求されます。
年収格差はより顕著に現れるでしょうね。

就活を経験したので、この観点で考えてみましょうか。
僕らが多様性を得るならば、企業側も相応の多様性を得ることができます。
髪色とか働き方の自由とかを得るのはいいですが、そうなると短い時間でより高い生産性を実現しなくてはいけない。
企業は多様性の大義のもとで、本当に取りたい人材だけ取るようになっていくでしょう。
取りたいと思える人材、それは短時間で成果を出せる実力ある者です。
結果どうなるか?多くの人は年収レンジが何個か下がるってことです。

つまるところ多様性ってのは「バカでかい覚悟か、圧倒的実力のもとに実現するもの」だというのが僕の意見です。
んで、これらを持ち合わせている人ならばどんな時代でも自己実現できるんじゃないかとも。

この考えに従うなら、真に多様性の時代が実現する社会は、覚悟を持たせる社会や実力を伸ばすことのできる社会でなくてはいけません。
でも全体的に実力が伸びるならば差がつかないので、結局覚悟を自覚させる社会構造ただ1つに絞られます。

しかしながら、甘えを容認する方向に社会は向かっていると僕は感じるんですね。

だから、冒頭で劇薬って表現を使ったんです。
覚悟を醸成しないといけないのに、甘えを許容する社会になろうとしているから。
そんな中で人間解放宣言をしてみてください。
東京は廃人で溢れるでしょう。

前時代では実力があっても声が小さい方は虐げられてきたかもしれません。
そういった方は間違いなくこの時代の流れが背中を強く押してくれます。
劇薬がうまく作用する人間です。
でも、このタイプの人間しか恩恵は無いんです。
そして覚悟できず、現状に甘んじる人間は間違いなくえげつない向かい風となって時代が牙を剥いてくるでしょう。

甘えることは決して悪くないですし、僕もそっちになびくことは多々あります。
多様性の実現や自由度の高い社会という点において、過度な期待や甘えってのが自分の首をジワジワ絞める真綿になりかねない、って話でした。


結局僕らは、覚悟を持って外に飛び出すか、実力でねじ伏せるしかないんです。
そんな強い人間は、そう多くないはずなんだけどね。
『憧れのままに』を聞きながら、ここらで失礼します。

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