見出し画像

経済成長を完了したあとの時代をどう生きるか

長年考え続けているテーマがある。ざっくりいうと、

日本ってほぼベーシックニーズは満たされていて、人口が減っていて、経済成長はほぼ頭打ちで、でも成長しないといけないことになっているからさらなる新市場とか生産性って話なんだけど、

どの国もいずれ日本のような成熟期がやってくるなかで、このまま拡大と成長のベクトルだけを中心軸に置いていていいんだっけ?みたいなお話。

ましてや、日本は「生産性」が苦手なようだし、経済がたとえ停滞の状況にあったとしても人が生き生きと誇りを持って暮らせるような社会のあり方って構想できないかな?

そんなことを掲げながらこの10年生きているっす。

そのへんのことは過去のnoteにしつこいくらい書いているので、もしよかったら読んでみていただけると嬉しいです!


弊社の社長はよく本を貸してくれたり、私は『キングダム』を貸したりしているのだけど、最近こんな本を借りた。

見田宗介著『現代社会はどこに向かうか−−高原の見晴らしを切り開くこと』(岩波新書)。

これが、読んでみると上のような問いに対して社会学の見地から答えようとしている本だった。


人類が全く経験したことのない、成長を完了したあとのたそがれの時代。それはどんな時代で、この先どんなビジョンを持っていくべきなのか。

自分の備忘録がてら、要旨を紹介していきたい。


人類が今置かれているところ

大局的に人類の系譜を捉えてみたときに、今私たちはどんな段階に立っているのか。本書の全体を通じてキーとなる「ロジスティック曲線」を最初に紹介する。


ロジスティック曲線

ある動物種を閉じられた空間(森)に放つ。そうするとその生き物は始めゆっくりと増える(①)が、ある時から急速な増殖期を迎える(②)。そして森の環境容量が限界に達しそうになると、増殖をやめ一定のところで数が安定するようになる(③)。(もしくは、森を失いすぎて、自らも絶滅へと向かう。)

基本的にどの動物種もこの法則に則っており、人間も例外ではない。

画像2

では、人間はこの法則でいうところの、どの段階に位置するのだろう?

正解は、②の終盤といったところ。


地球全体で見ればまだ人口はすごい勢いで増えているように見えるので、ちょっと意外かもしれないけど、実は人口の「増加率」を全体でみた場合には、1960年代をピークに、減少傾向をたどっているのだ。

画像1


つまり、②の急速な増殖期はすでに終えて、まもなく③安定期に差しかかろうとしているというのが、人間という動物種が今いる段階なのである。


近代とはどんな時代か

近代の流れを受けての現代(今)がある。ではまず、近代とはどんな時代だったのか。本書によると、近代には以下のような特徴がある。


人類の大増殖期

近代という時代は、上のロジスティック曲線でいうところの②のど真ん中、つまり人類にとって一度限りの大増殖期にあった。

人類が今後ロジスティック曲線を欺いて、二度目の急速な増殖を迎えるようなことは、ない。はず。(生物学を飛び超えて話を展開した場合は知らんよ。)


無限に成長する生産=消費システム

①情報によって消費を自己創出するシステムを発明(買い替え需要の開発)することによって、市場を「無限化」した( ="情報化 / 消費化資本主義")

②資源を域外から調達する/廃棄物を域外へと排出するグローバルなシステムを構築することによって、環境容量の無限化による生産の「無限化」を実現した。


手段主義的な生の合理化

近代においては、「生存の物質的な基本条件を確保すること」が切実な課題であった。

そのために、人間の生の全領域において「生産主義的な手段化」が行われた。

「手段主義的」とは、

現在の生をそれ自体として楽しむのではなく未来にある『目的』のための手段として考える

ということである。

未来へと意味を求めて現在の生を手段化する禁欲と勤勉の精神によって自然を克服し、他社と競合し、世界の果までをもその版図とする強い繁栄を実現してきた

それが近代という時代であったということだ。


現代の課題①環境容量の「限界」が立ち現れること

ロジスティック曲線の②局面においては、森(環境容量)は「無限」にあるように見えるし、実際そこに身を置く動物種は”可能な限り”森を征服し自らの個体数を増やし続けようとするようだ。

しかし、何らかの自然の摂理に従うようにして、環境容量の「有限性」が立ち現れると自分たちの生を永続するために、森は「共生」の対象になるという。

画像3


人間の世界に置き換えてみると、私たちは常にグローバルに資源を調達し、自分たちの豊かな暮らしを成り立たせている。

それこそかつては、「どれだけ掘ってもまだまだある」状態だったかもしれないし、「どれだけ廃棄物を外へ排出したとしても、まだまだ地球は大丈夫」な状態だったかもしれない。

余裕ぶっこき〜である。

警鐘を鳴らす専門家はもちろんいただろうけど、「生存のための物質的な条件の確保」と経済成長への圧力に逆らうことはほぼ無理だったはず。


そうして今、環境資源の底は見えつつあるし、環境廃棄物の排出による地球の温暖化現象などは私たちの生活にも実際に影響を及ぼしうる様々な問題を引き起こしつつある。

②の最終局面にあって、私たちは真面目に環境との共生に向き合わないと、環境容量を喰い尽して種としての存続が危ぶまれることになるかもしれない。

(もしくは、今目に見える環境資源を喰い尽くしても存続していけるよう、人類をサイボーグ化し、火星へ移住するシナリオも真面目に語られているが...)


現代の課題②目的の消失=生のリアリティの消失

繰り返しになるが、「生存のための物質的な基本条件の確保」を追求し、見事に達成してきたのが、②の局面(近代)であったという。

そのために「現在の生」の「手段化」が行われた。

現在の生のリアリティを漂白するが、この空虚は未来の「成功」によって十分に補うことができる


しかし、「生存のための物質的な基本条件の確保」という課題が達成されたとなれば、現在の生を犠牲にしても未来にその意味を回収することができると信じられるような自明の目的が失われることになってしまう。

未来未来へとリアリティの根拠を先送りしてきた人間は初めてその生のリアリティの空疎に気づく。


「生産主義的・未来主義的・手段主義的」な合理化への圧力が解除されたとき、「単純な至福を感受」する能力の獲得が必要になると筆者は言う。


<持続可能な幸福の世界>を目指して

私たちは今、ロジスティック曲線の②の最終局面に立っている。高度成長が完了したあとの、③局面はどのような世界として構想されるべきなのか。

③局面においては、「生の<合理化>=現在の空洞化>」の圧力が一挙に弱まる。

そのとき人間は、未来ばかりへと目を向けるのではなく、現在の生において「単純な至福」を感受できるようにならなければならない。

<持続可能な幸福の世界>は、他者や自然との<交歓>と言う単純な祝福を感受する能力の獲得をとおして、<現在>の生が、意味に飢えた目を未来にさし向ける必要もなく充実してあることによって初めて可能である



以上、大きく割愛した部分もあるが、ざっくりとした要旨である。


おわりに

現代はかつてない、物質的に満ち足りた時代であり、それでいて精神的な空虚感がいくらか蔓延する時代でもある。

この時代について筆者は以下のようにも言っている。

「現代社会」の矛盾に満ちた現象は、「高度成長」をなお追求しつづける慣性の力線と安定平衡期に軟着陸しようとする力線とのダイナミズムである


正直この本を読むまでは、私たちはまだまだ「高度成長」を追求する力線の上に乗っかって走り続けなければならないのではないかと、考えていた。

私にできることは、その線の上においても別のベクトルを志向するような人たちにとってのせめてもの「選択肢」を提示することくらいなのではないかと。

それこそ7年前くらいまでは、根本から何かを変えてやろうと熱意を持っていたものだが、大人になるにつれて自分の中での妥協も生まれていった。


しかしこの本を読んで気づくことができたのは、世界の大潮流さえも変わるべき潮目にきているということだ。

それは世論的に、環境への重要性が高まっている、といったレベルではなく、人間という種のレベルで、この先存続していけるかどうかを左右する手綱をいま握らされているということである。

しかも、高い知能と感情をもつ人間にとっては、ただ生きながらえるだけではなく、「幸福」ということが追求されなければならない。


私たちはいま、未だかつて経験したことのない、種としての安定平衡期に差し掛かろうとしている。

当然のことながら、正解が記されたシナリオなんて存在しない。せめてできるのは他の生き物から学ぶことであり、また自分たちの直感を大切にしながら道を切り拓いていくことである。

「高度成長」という未来の目的がなくたって今において幸せな生を送ることができるかどうか。

それがもっとも難しい問題だ。

でもそこにこそ希望がある。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?