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夏目漱石『坊っちゃん』解説#2

#2 敗者の文学・・・・・・それとも




勧善懲悪のヒーロー小説

 #1では夏目漱石や『坊っちゃん』の基礎知識や一般的な読まれ方について扱ってきました。まだ読んでいないよ、という方はぜひ#1の記事から読んでみてください!
 #1を読んだだけでも結構深めに、または多角的に『坊っちゃん』が読めるようになるんじゃないかなあと思っているんですが、いかがでしょう?
 少なくとも、読書感想文を書くレベルでは無双間違いなしです!笑

 #2では一般的な『坊っちゃん』の読み方ではなく、『坊っちゃん』についての作品研究によって進められてきた、一風変わった『坊っちゃん』の読み方を主軸にして考えていきたいと思います。ここからは『坊っちゃん』の先行研究を用いながら、僕の考える『坊っちゃん』論に踏み込んでいくことになります。

 『坊っちゃん』研究でよく問題とされることとして、「坊っちゃんは敗者ではないか」という考え方があります。
 一般的な読み方では#1で指摘したように、坊っちゃんと山嵐が「勧善懲悪」を果たした、坊っちゃん側が「勝者」であるとして物語が読まれてきました。

「坊っちゃん」は敗者だった!?

 一方で、一九七〇年代以降の『坊っちゃん』研究では、坊っちゃんを「敗者」として捉える読み方が主流となっています(1)。
 坊っちゃんが敗者であるというのはどういうことでしょうか?

 坊っちゃんと山嵐は、赤シャツと野だいこに鉄拳制裁を加え、「不浄の地」である松山を離れ互いの故郷へと帰りました。確かに字面通りに考えれば、坊っちゃんは「勝者」のように思えますし、軽妙な坊っちゃんの語り口は、あたかも英雄の凱旋のような心地よさがあります。

 しかし、よくよく考えてみれば「敗者」である赤シャツや野だいこは殴られた痛み以上の被害を被ったでしょうか?

 赤シャツからすれば、山嵐に殴られたことは不本意でしょうが、うらなりを遠方にやりマドンナを手に入れるという計略が頓挫したというわけでもなければ、むしろ邪魔な山嵐を松山から追い出し、自身のエリートの地位を盤石なものにしたといえます。
 一方で、坊ちゃんと山嵐は松山を逃げ去るわけであり、結果として坊ちゃんは月給四十円の中学校教師から月給二十五円の鉄道の技手に転職することになります。
 実利を考えてみれば勝者は赤シャツであり、敗者は坊ちゃんたちであるといえます。松山を「不浄の地」と表現したのは坊ちゃんの江戸っ子らしい意地といえるのではないでしょうか。

 典型的な江戸っ子が主人公で、その仲間が会津出身であり、明治エリートたちを懲らしめる『坊っちゃん』は、明治政府によって打倒された幕府に同情を寄せる「佐幕派小説」の典型といえます。
 もちろん、単なる「佐幕派小説」というだけで『坊っちゃん』を片付けてしまっては、作品の持つ面白さに迫ることはできませんが、漱石が「旧体制VS新体制」の構図を意識したであろうことは疑いようのないことだと思います。むしろ、『坊っちゃん』が発表された明治四十年当時においては、この構図を意識しない読者はいなかったはずです。
 そのように考えれば、『坊っちゃん』という小説は幕府側の人たちへのレクイエム的な小説といえるかもしれません。

 日本文学にはレクイエム的な性格を持つ物語、即ち敗者に焦点を当てた文学が数多くあります。
 代表的なものとしては、「源平合戦」に破れた平家を描いた『平家物語』や、台湾を拠点とし清朝に破れた明朝の復興運動を行った鄭成功に題を取った、近松門左衛門の『国性爺合戦』などがあります。近代に入ってからも日本人に好まれてきた『忠臣蔵』もその性格を強く帯びています。あとは、「判官贔屓」という言葉の元ネタであり、源義経を中心に描いた『義経記』もその典型でしょう。これらに共通することは、歴史上の敗者への鎮魂の意味合いが強いということです。

 この特徴は、象徴的な次元において『坊っちゃん』にもあてはまります。『平家物語』などと違い、歴史的事実を元にした物語ではありませんが、登場人物の性格や生い立ちに、佐幕派、明治政府側といった特徴を付与していることは明らかです。
 そして、『坊っちゃん』は坊っちゃんや山嵐、うらなり、清といった佐幕派の方を応援したくなる造りになっています。実は敗者の文学かもしれないという点も一致します(表面上は勝者であるのは漱石の小説家としての手腕ですね)。
 『坊っちゃん』は書かれた当時においては、幕府に同情的だった人たちに受け入れられた小説だったのではないでしょうか。

成長物語としての「坊っちゃん」

 と、ここまで『坊っちゃん』が実は敗者の文学で、日本文学によく見られる史実上の敗者へのレクイエム的小説であると指摘してきましたが、ここでもうひと展開加えます。むしろここからが僕の考える『坊っちゃん』論の肝です。

 ここで加える展開、それは、『坊っちゃん』が敗者の文学であるとして、「坊っちゃん」は本当に敗者だったか、です。
 物語の表面上や、主人公の語りの中では勝者であったにもかかわらず、俯瞰的に物語を見てみると敗者に過ぎなかったというのは今まで話してきたとおりです。しかし、これらの読み方を受けてもなお、「坊っちゃん」自身は勝者であると読める気が、僕にはするのです。

 『坊っちゃん』という作品は、江戸っ子や会津っぽの精神を貫く人々が狡猾に新しい時代に適応するエリートに敗れ、新時代の片隅に追いやられる、という当時の社会でよく見られた状況を描写しています。坊っちゃんは時代の敗者の典型的な存在ですが、坊っちゃん自身はこの物語を通して不幸になったでしょうか?

 私見を述べるならば、それはNOです

 坊っちゃんは松山での教師の仕事を辞め、東京で鉄道の技手に再就職することで、月収十五円分の損益を被っています。これは偽りなく坊っちゃんにとってのマイナスです。それでも、東京に戻ってくることで清と暮らし、清の死に目にも会うことができた。
 おそらく、松山にいたままでは、最期まで清に会うことは叶わなかったでしょう。そりの合わない松山の学生や教師連中といるよりも、貧しくとも清と暮らすことの方が坊っちゃんにとって幸せであったはずです(と思うのですが、どうでしょう。僕は夏目漱石じゃなければ、坊っちゃん本人でもないので本当のところは分からないけれど(それを言いだしたら文学研究は何もできなくなるわけですが)、これが正しいという体で進めます)。

 教師生活を送り様々な人々と接しながら、坊っちゃんは清という人間の素晴らしさをくどいくらいに繰り返し力説します。月給四十円につられ、清と別れてまで近代社会のシステムに馴染もうとした坊っちゃんは、一ヶ月と半月の松山での教師生活(実は坊っちゃんは一ヶ月半しか教師生活を送っていないそうです。結構驚きですよね)を経て自分にとって重要なことを理解し、清の元に戻ってきた。
 この物語は坊っちゃんの成長物語と捉えることができるのです。

坊っちゃんは夏目漱石の憧れ!?

 この考えは、文明開化を遂げた近代日本社会や近代的個人という問題と密接に関わっています。そこで、夏目漱石の考える近代文明論について見ていきましょう。『現代日本の開化』は『坊っちゃん』を書いた約五年後に行った講演の内容で、漱石の日本の文明開化に対する考えが色濃く出ています。その中で、漱石は日本の文明開化を以下のように批判しています。

  あたかもこの開化が内発的でもあるかの如き顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです、宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。自分はまだ煙草を喫っても碌に味さえ分からない子どものくせに、煙草を喫ってさも旨そうな風をしたら生意気でしょう。それを敢えてしなければ立ち行かない日本人は随分悲惨な国民といわなければならない。(中略)我々が強ければあっちにこっちの真似をさせて主格の位置を易(か)えるのは容易のことである。がそう行かないからこっちで先方の真似をする。(中略)我々の遣っている事は内発的でない、外発的である。これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。(中略)しかしそれが悪いからお止しなさいというのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないというのです。

三好行雄編『漱石文明論集』(岩波書店、一九八六年)p.33~p.34

 煙草の例えは本当に上手いなあとこの文章を読む度に思ってしまいます。「自分はまだ煙草を喫っても碌に味さえ分からない子どものくせに、煙草を喫ってさも旨そうな風をしたら生意気でしょう。」こんな見事な比喩表現、一度でいいから使ってみたい!笑 比喩表現のスペシャリストと言えば村上春樹ですが、漱石先生も決して引けを取りませんね。

 まあ、僕の感想はいいとして、この文章からは、日本の文明開化を我がものと思い、したり顔でいるエリートを批判しながら、自分達のものではない文明を受け入れざるを得ない日本や自分の境遇を嘆く、漱石の悲壮な想いが窺えると思います。
 本当は自分達のものではない文明を受け入れたくない、距離を置きたいと考えているにもかかわらず、近代日本のエリートとして社会に組み込まれている(2)からにはそれを受け入れなければならない。このことが漱石を苦しめていたようです。

 エリートとして西洋文明の束縛から逃れられない漱石に対して、坊っちゃんは文明開化以降の西洋的システムから距離を置くことを選びます。その結果、坊っちゃんは愛すべき清との生活を送ることができた。文明社会の生きづらさに苦しんだ漱石からすれば、坊っちゃんの生き方こそ、正しいものに映ったのではないでしょうか。

 中期以降の漱石の著作は、近代的個人を描くことに重きが置かれるようになります。『坊っちゃん』は表面的には近代的個人のテーマ性は薄いように思われますが、見方によっては近代日本のシステムから距離を置いた個人を描いたといえます。意図した意図していないは別としても、『坊っちゃん』は漱石が望んだ、「文明的社会の中心から距離を置き、自分のいるべき居場所を求める」個人の生き方を描いた作品なのかもしれません。

まとめ

 今回は、坊っちゃんは敗者なのか、それとも勝者なのか、という問いを論じて見ました。
 『坊っちゃん』研究としては、敗者の文学として読むことに妥当性があると考えられていて、僕としても、なるほど頷けるなあ、と考えています。
 一方で、読者として『坊っちゃん』に相対してみると、やはりヒーローであったと思いたくなる。そしてヒーローだと考えているのは我々読者だけでなく、夏目漱石もそうだったのではないか?
 これが今回の結論になります。

 みなさんの考えも、ぜひコメントしてください。めちゃめちゃ楽しみにしています!

 夏目漱石『坊っちゃん』解説は、次回をもって一区切りにしたいと思います。
 次回は『坊っちゃん』の持つ、コミカルな要素、すなわちサブカルチャー性について考えていきます。ここまで読んで下さった方なら、面白くて仕方ない内容になっていると思いますので、ぜひ続けて読んでほしいと思います。

それでは、また!


(1)代表的なものとして平岡敏夫『漱石 ある佐幕派子女の物語』(おうふう、二〇〇〇年)がある。

(2)『坊っちゃん』の中で、校長の狸は月給八十円であると坊っちゃんがグチグチ嫌味を言っていますが、漱石は中学校教師時代、月給百六十円もらっていたそうです。帝国大学出身、英国留学経験者、漱石は紛う事なき明治のエリートです。


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