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胸骨正中切開で縦隔腫瘍を摘出した話(6:手術)

手術前

病院は夜も早いが朝も早い。
6時に起床し、洗顔や髭剃りなどの身支度を整える。その後ナースステーションに体重を測りに行き、病室に戻った後に血圧と体温と脈拍、血中酸素濃度を測る。本来は7時頃から朝食なのだが、13時から手術のため当日は絶食。水分は10時までしか摂れない。
手術当日もなかなかに忙しい。まずは昨日入ったばかりの部屋を空の状態にする必要がある。荷物が入っているスーツケースや貴重品、スマホはロッカーに預けて鍵を立会人に渡す(術後、部屋に戻った際に看護師さんが荷物を取ってきてくれる)。その間にも麻酔科医や主治医、呼吸器外科の担当医(新人)が様子を見に来たり、手術に使用する点滴をあらかじめ打ってもらったりと時間は早く過ぎる。
気分はずっとふわふわしていて現実感が無かったが、「思えば9月上旬に胸の痛みを覚えてからやっとここまで来たな。こんな事になるとは思わなかったな」とぼんやりと考えていた。渡された青い手術着に着替え、また意味もなく自分の顔や胸の写真を撮っているうちに手術室の看護師から呼び出された。

手術

呼吸器外科の入院病棟は10階で、手術室は同じ建物の2階にある。
職員専用の通路を通って専用のエレベーターで手術室の階に降りるのだが、病棟と比べると雰囲気が全く違う。病棟はクリーム色や茶色を多用した明るい雰囲気のインテリアなのだが、手術エリアは青と緑とステンレスの光沢が主役だ。そして本来なら立会人も一緒にエレベーターホールまで見送りが可能のだが、コロナの影響でそれも叶わない。看護師が気を遣って明るい話をし続けてくれたのがありがたかったが、それでも周囲の雰囲気はとても寒々しく無機質なものだった(機能性や清潔を重視しているので当たり前なのだが)。
看護師と2人、ストレッチャーが2、3台は入れそうな広さのエレベーターで一気に2階まで下降する。横目で見たが、やはり4階には何も書かれていなかった。これだけ大きな病院なのだから利用していないわけはないので、何に使っているのか聞いておけばよかったと後悔している。

手術エリアの2階はまるで清潔な工場や研究所のように、先程のエレベーターホールに輪をかけて無機質な内装だった。音や臭いは無い。様々な機器が保管されている大部屋の横を通り、手術室が多数並んでいるフロアに出た。ここもドラマで見るような「手術室」という赤いランプがついたものとは全く違い、分厚いステンレス扉が多数並ぶ研究所のような印象だった。聞けば手術室は10部屋以上あり、常に何らかの手術が行われていると言う。自分の手術室の前では麻酔助手の女性が待機していて、名前と誕生日を確認されて中に入った。中にはもう1人女性の助手がいて、それぞれ挨拶してくれた。
手術室の中はテレビで見るものよりもかなり広く感じた。
部屋の中央にベッド……と言うよりは人がようやく横になれる程度の金属の板があった(おそらく寝返りを打てば落ちる)。
これはベッドではなく、まさに作業台だなと思った。
落ちないように気をつけて横になるように指示され、その通りに寝た。「手術台は暖かい」という事前情報があったが、特に冷たいとも暖かいとも思わなかった。無影灯は目に入らない位置にどかしておいてくれたらしい。
「55さん。よろしくお願いしますね」と、昨日詳しい説明をしてくれた男性の麻酔科医がマスクの中から笑顔で挨拶をして、あらためて名前と生年月日、どのような手術をするのか確認された。
「胸骨正中切開で、縦隔の腫瘍を取り除いてもらいます」
自分がそう言った瞬間、メインの麻酔科医と助手2人で麻酔の儀式が始まった。「儀式」と書いたが、本当に脈々と続く儀式のように、ある意味恐ろしさを感じるほど洗礼された素早い動きだった。
助手2人が左右から暖かい毛布のようなものをかけてくれたと思ったら、「○○確認、首外します。肩、腕まで外します。次、腰まで──」と言いながら、恐ろしい速さで左右対称に自分の手術着を脱がしていく。その間に酸素マスクを当てられ、脳波系を取り付けられ、パルスオキシメーター(指に挟んで血中酸素濃度を測る器具)を確認しながら深呼吸をし続けるように指示される。いつの間にか腕に取った点滴が何かの機械に繋がれていた。
体感で30秒ほどしか経っていないように思ったが、あまりの手際の良さに急に手術の実感が湧いてきた。よほど自分の顔が強張っていたのか、自分から見て右側の女性が話しかけてくれた。
「あ、55さん血圧170超えてますよ! 緊張してますか?」
冗談っぽく笑顔で言われたので、思わず自分も明るく振る舞おうとする。
「いやぁ、そりゃこの状況ですからね。なんたってこれから胸開けられるわけですから緊張もしますよ」
「それもそうですよね! でも次に目を開けたら全部終わっていますから大丈夫ですよ」
「こんなに血圧上がる人は珍しいんじゃないですか?」
「上がる人は200超えますよ! もっと緊張すると手術室に入った瞬間に立てなくなっちゃう人だっていますから」
「それは大変だ」
看護師さん達もそうだが、こうして明るく話しかけてくれる気配りの何とありがたいことか。自分の場合は治る見込みのある病気という事で気持ちに多少の余裕があるからかもしれないが、何か話をすることで人はかなり気が紛れる。それがたとえ素っ裸で手術台に寝かされた後でもだ。
「では55さん、酸素も十分取り込めましたので、そろそろいきますよ。安心してくださいね」と、男性の麻酔科医が静かに言った。自分がお願いしますと答えると、麻酔科医は姿勢を正して「これより全身麻酔を開始します」と部屋に響くような声で宣言した。
いよいよだ。
助手の方も言っていたが、次に目が覚めた時には全てが終わっている。
上大静脈は出血しないだろうか。
気管挿入の抜管は意識が無い時に終わるだろうか。
宣言から数秒、いろいろな事を考えたが、まぁ死ぬことはあるまいと言い聞かせた。9月からずっと唱えていたが、自分は「俎上の鯉」だ。ようやく、まな板の上で捌かれる時が来たのだ。
点滴からは特に薬が入ってくる感覚はなかったが、ゆっくりと目の前が霞んできて、一気に意識が遠のいた。

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