我々は皆、市川崑である。

'墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 'マルコによる福音書 16:5-8

'天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 'マタイによる福音書 28:5-8
引用はいずれも新共同訳 
※歴史的には、マルコによる福音書が、マタイによる福音書よりも成立が古いとされている。

先日、わたしは昔お世話になった人の死について書いた(「空席は語りかける」)。その人の信仰と死について、わたしなりの仕方で回想したものである。当然、同じ人物について、彼の家族、それも妻か子供か、孫かによって、回想の内容はまったく異なるだろうし、仮に同じ出来事について回想したとしても、その表現は一人ひとり、ぜんぜん違うだろう。

一人の人が死ぬ。その人の生涯は一冊の書物として閉じ/綴じられる。生きているあいだは本人からのコメントがあるから、わたしが落ち着いてその人の生涯を回想することはできない。その人と会える距離なら「あのとき、あんなことがありましたね」とわたしはその人に言うだろうし、その人も「ちがうわい。こうじゃ」と訂正したりするだろう。そして相変わらず、一緒に酒を酌み交わすだろう。

だがその人は亡くなった。反論ができない。その人は静かなる書物になった。わたしは厳粛な想いで、その書をひもとく。しかし、その書は他人に見せることができない。他の人にしてもそうだ。その人の妻、子、孫それぞれが、他人には見せることのできない、その人について書かれた書物を持っている。そしてその人について回想するときには、各々自分の書物からの引用を行うのである。同じ個所(同じ出来事)についての文章がそれぞれ異なっているのは、それぞれの書物が異なるからである。

映画『犬神家の一族』を観たことがあるだろうか。この作品には1976年版と2006年版がある。2006年のものはリメイクである。だが面白いのは、監督が二作品とも同じ市川崑であり、主役を同じ石坂浩二が演じているということである。他の監督が「自分ならこうやる」とリメイクしたのではないのだ。同じ監督が同一の物語を再話したのである。
我々は誰もが市川崑である。人生のなかで大切にしている、あるいは忘れようにも忘れられない記憶が、誰でも一つくらいはあるだろう。人によってはそれをトラウマとして、苦しみのうちに焼き付けられているかもしれない。その記憶がよいものであれ悪夢であれ、その人は信頼する誰かに、その記憶について語ることがあるだろう。しかも一度だけではない。
厳密に言えば、語るか語らないかは問題ではないのかもしれない。語ろうが語るまいが、その人は人生のなかで、その記憶を何度も反芻することになるだろう。

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