神のオルゴール

それにしても音楽や映像の「PLAY」を、いったいだれが「再生」と翻訳したのだろう?すばらしいではないか。
レーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』という小説のなかに、保存された遺体の脳に電気が流されると、死者がその生前にもっとも強く記憶している行為を再現するという、不気味な場面が登場する。通電するたび、死者は今初めてその場面に遭遇したかのように、何度でもその行為を繰り返すのである。だから死者自身はそれを「繰り返している」とは知らない。初めての体験として、今まさにそれを行為し始める。だがそれを観ている側の人々は、これがもうすでに何度も繰り返された行為であることを知っているのである。
レコードやCD、映像ソフトなどを「再生」するというのは、ルーセルの小説から不気味さを取り除いたものである。ソフトに記録された演奏者や俳優たちは、ソフト内の世界では初めてそれを演じている。なるほど練習やリハーサルはしてきたかもしれないが、作品に残す本番としてはこれが唯一の、一度限りの表現である。だがそれを味わう人は、もう何度も視聴しているのである。ソフト世界内で演じている人間たちは、今回がもう100回目の「再生」だったとしても、それに気づくことはない。

父に初めてジャズ喫茶に連れて行ってもらったときの興奮を想いだす。店内に大音量でジャズのレコードが流れていた。次々にかけられるレコードたち。トランペットやピアノ、ウッドベースやドラム。渋い女性のヴォーカル。重いヴィブラホン。ライヴ盤からは拍手が聴こえる。もう50年以上も昔のレコードたち。演奏者のほとんどはこの世にいない。そして拍手をしているお客さんたちも、その多くはすでに世を去っただろう。ライヴ会場には、みずみずしいカップルがいたかもしれない。あるいは独り、傷心を慰めに来た客がグラスを傾けていたかもしれない。そこにはそれぞれの人生があった。ほんらいなら決して顔を合わせることもないはずの人々が、たった一度限り、同じ時間を共にしたのだ。彼らは共に拍手をし、歓声を浴びせた───その人たちも今や、みんなお墓の下に眠っているのだ。
だがレコードが回される限り、彼らは何度でも「再生」する。レコード内部の世界では、彼らは今、初めて、そこでデートをしており、傷心を慰めているのだ。そして演者に向かって、手のひらが痛くなるほど拍手喝采を浴びせているのである。レコードが再生されるたび、彼らの手のひらの痛みもそこにある。

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