天国と地獄
聖書を読んでいると、神による最後の審判とか、天国と地獄のような描写がしばしば登場する。イエスも次のような譬え話をしている。
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」 ルカによる福音書 16:19-23 新共同訳
傲慢な金持ちは陰府すなわち地獄に堕ち、永遠の業火に焼かれることとなった。そして今生で報われなかったラザロは今や、天の宴でアブラハムの隣にいる。分かりやすい設定である。イエスがどんな人たちにこの譬え話をしていたのかに想いを馳せるならば、彼の話が人々に熱烈に受け入れられたであろうことも理解できる。
ところで今日、こうした「天国と地獄」とか「最後の審判」といった概念はしばしばカルト的とされたり、排他的な選民思想と同一視されたりする。だから牧師も、礼拝のなかで天国と地獄とをセットで語ったり、ましてや地獄に堕ちる(堕とされる)話をすることは難しい。いわゆる「リベラルな」教会ではとくにそうである。今日的な視点から、教会で語るべきは愛であって裁きではないとされる。悪いことをすれば地獄に堕とされる、などというのは脅迫であり、福音でも何でもないのだと。
だが、ここで立ち止まって考えてみよう。わたしは法律の専門家ではないが、裁判をイメージしてみたいと思う。裁判には原告と被告がおり、検察や裁判長、裁判員や証人、弁護人などがいる。そこではなんらかの容疑をめぐって有罪や無罪の判決が下されたり、損害に対しての責任の有無が争われたりする。民事であれ刑事であれ、事実としての罪責の有無が問われるし、罪責が被告側にあるとの判決が最終的に下されれば、被告はそれ相応の責任を果たさねばならなくなる。それは賠償金の支払いであったり、服役であったり、究極的には日本では死刑もありうる。
そこで裁判長と原告に話を絞る。裁判長は被告が憎いとか、個人的に嫌いだとか、そういうことで判決を下すだろうか。もちろん違う。裁判長は裁判で争われてきた事柄の一連の経緯を鑑み、法に従って、人間が下しうる限り最高度の客観性をもって判決を宣告するはずである。裁判が裁判長の、個人的好悪の感情に流されてしまうならば、それはもはや法治国家の営みではない。そして裁判とは何よりも、原告の損害および名誉の回復のためにあるはずだ。不当に失われた命や財産、そして名誉。それらを「決して失われるべきではなかった」ものと断定し、それ相応の償いを被告に求めること。それが完遂されれば(限定的にではあれ)原告の慰めとなる。
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