それはほんとうに「お気持ち」だけなのか

牧師として現場で遭遇する諸問題から、あくまで実践的な関心に衝き動かされて、日本やアメリカなどのフェミニスト、あるいはフェミニズムに重点を置いた研究者の本を、少しずつ読んでいる。

ツイッターにおいてフェミニズムは非常にウケが悪い。「フェミ」と省略形で語られるとき、ほとんど良い評価は出てこない。「フェミ」という言葉で語られるときはもっぱら、以下のような意味が込められている。つまり、女性は自分の主観的な気分で男性を攻撃しているに過ぎないのだが、それを「自分は男性から不当なハラスメント/差別被害を受けている」として正当化していると。

もちろん、わたしはそのような批判がまったく的外れとは思わないし、実際にそういう人がかなりの数いるとも感じている。ただ、わたしとしては、だからといってフェミニズムという知見が培ってきたものが無意味であるとは、どうしても思えない。上記のような、自分の不機嫌をとりあえず男性のせいにするというのは、フェミニズムの副作用であり、あるいはフェミニズムの「結果」の一つでもあるという意味で、たしかにフェミニズムそのものでさえある。しかしそれがフェミニズムの全てだと片付けられることには、わたしは同意できない。

そもそもフェミニズムは女性の話だけをする営みではない。フェミニズムの本を読んでいると、頻繁にゲイやレズビアン、場合によってはサディズムやマゾヒズム、ペドフィリアなど、性のありようから欲望の現象まで、あらゆるセックス、あるいはジェンダーにまつわる言及が登場する。そこで問われているのは性とは何か、「性」という言葉は染色体や性器以上の、いったい何を言わんとしているのかということである。

もちろんフェミニズムは女性参政権運動などに端を発している以上、その性質として、しばしば「男性が女性を抑圧してきた」という厳しい言葉も登場する。だが、それは気分の話ではない。少なくともアメリカでの文脈においては、性による差別は人種や社会階層などによって強化され、しかもキリスト教会において宗教的・組織的に正当化・社会化されてきた。州によっては同性愛が法的に禁止さえされてきたのである。同性愛者がリンチにあったり殺されたりすることも起こった。

先日わたしは映画『ある少年の告白』を観てきた。原題は「消された少年」。牧師である父親に「自分はゲイだ」と告白した少年が、父親の判断によって同性愛を「信仰的に治療する」施設へと送られてしまう。その判断に母親すなわち女性が口を差し挟む余地は一切ない。ことのすべてはヘテロセクシャルな男性の、それも敬虔なクリスチャンのみによって決定される。

フェミニズムはこうしたアメリカの社会的背景のなかで、同性愛者や女性が自分の決断によって自分で意思表示をするための具体的な抵抗運動として発展してきた。そして問題の所在をより明らかにするために学問的にも研究され、その語彙や定義が議論されてきたのである。およそ千数百年の昔、迫害を受けたキリスト教徒たちは、自らの信仰の正当性を弁護するために神学を鋭く発展させた。弁証論あるいは護教論のなかで、彼らは「自分たちの信仰とは何か」を自覚していったのである。フェミニズムもまた、ホモフォビアあるいはマイノリティを黙らせる教会や社会への、マイノリティやその協賛者たちによる弁証論かつ護教論から始まっているのだ。フェミニストたちは「性的な我々とは何者か」を明らかにするために「人間とは何者か」を問うているのである。

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