経過観察:モニョーンな日々
ここ数日、モニョーンとしています。
やる気はおきません。
でも食欲はあるので、結果、パンとか出来合いのものを食べています。せいぜいソーセージに火を通すとかですかね。
さっきは、一昨日の夜の一人鍋で残ったおつゆに、docomoからLINEモバイルに変更する時にdポイントを使い切るためにもらった生うどんってやつを投入して昼ごはんにしました。
しかし、どうやらそのおうどんは大量の水で15分弱茹でないといけなかったやつみたいで、気付いたら、小さい一人鍋の中でまわりの水分をほぼ吸ってデロデロ状態に。
差し湯などでなんとか食べられる状態まで持っていったけど、おつゆはとろみが付いていました。
昨日とある頼れる人に時間をもらって、いまのわたしの状態を整理してもらいました。また、この前の土日にはひととあっていろんなことを聞いたり、一人で自分のモニョーンを分析したりしました。
そのたびに気持ちがふわっと浮いたり、じょーんと落ちていったり。
そしてまたそれを観察し、分析するのです。
なんでこんなにも、わたしはわたしに執着するんだろう。
って、思います。
もしわたしがわたしに対して執着を抱かなければ、もっと物事をラクに捉えられるんじゃないか、人生かるく楽しくなれるんじゃないか?
たぶんわたしは敏感。
微かな動きや変化が気になります。それは対自分だけではなく、というよりもむしろ、対他人にはたらく感覚。
小学生か中学生の頃。複数人で、ケラケラとおしゃべりしていて、ある子が他愛もない発言をしたとき
「あ、いまの言葉で、何々ちゃんはチクッときたかもしれへんなぁ。」
とかっていうのをなんとなーく持ちます。
それで、その後、頼まれてもないのに何々ちゃんの顔色を伺って、場合によっては「一緒に帰ろう」なんて言ってみたりする。何々ちゃんは必要あれば、帰り道で胸のもやもやを打ち明けてくるし、そうじゃなければ何も起こらない。
そんなようなことをずっとしてきたし、少し形を変えて、会社の中や仕事中でもしてしまう。
自分の内側でチクッが起こると、わたしはそれを分析するらしい。
チクッの原因がどんな出来事(例えば、悩んで選んだ昼ごはんのカレーがいまいちだった)だったか。
さらにはその出来事のどういう構造(例えば、ただの昼ごはんといえど納得いかない食事は不機嫌になる、もったいないという根本がある)がわたしにとって刺激になりうるのか。
構造が見えた段階で、「わたしにはこういう癖がある」という点が掴めて一息つく。
まあ、それは疲労するのです。
対外的にも対内的にも、そんな繊細性というか敏感さを用いて日々動き回り、自分の内側を枯渇させてしまった結果が、休職なんだろなあ。
わたしがわたしに執着しちゃわなければ、ラクでしょう。
そんなに敏感でなければ、ラクでしょう。
でも、その繊細性や敏感さはわたしのアイデンティティだから。
それをころしてしまいたいなんて、思えません。
わたしはわたしのアイデンティティとの付き合い方を増やしましょう。
十分なエネルギーを保ちながら、自分を枯渇させない、付き合い方をあたらしく拓くとき。
あたらしく、拓く。
開拓。
まずは、土作りからです。
きっといまはそんなときです。モニョーン、は土の中にみみずがやってきた音かも。
あれ、なんか落ち込んでいるけれど、豊かじゃないですか、モニョーン。
この度は読んでくださって、ありがとうございます。 わたしの言葉がどこかにいるあなたへと届いていること、嬉しく思います。