冴羽獠がもっこりをやめる日 ~フィクション作品におけるハラスメント表現を考える~

TBSドラマ「不適切にもほどがある!」が、令和の現代におけるコンプライアンスやハラスメントの現状を昭和との対比においてシニカルに描き、話題を集めたことは記憶に新しい。

実社会の倫理観や価値観が変われば、フィクション作品における表現も影響を受ける。古くはシェイクスピア作品の「ヴェニスの商人」では、悪役の高利貸しシャイロックが反ユダヤ的価値観のもとで描かれているが、これは今日では許されない描き方だろう。また、ディズニープリンセスに目を向けると白雪姫もシンデレラも人魚姫もみんな白人だったけれど、最近の人魚姫の実写化は非白人が演じ、モアナやミラベルのような非白人のヒロインも増えている。これは多様性を重視する価値観への変化がフィクション作品に現れている例と言える。

「不適切にもほどがある!」は職場やメディア、SNSなどの実社会におけるコンプライアンス・ハラスメントに関する価値観の変化を描いていた。さて、ではコンプライアンスやハラスメントについての価値観の変化は、フィクション作品にどんな影響を及ぼしていくのか。今回はフィクション作品におけるハラスメント表現というものについて考えてみたい。

3つの事例における考察

今回この記事を書こうと思ったのは、いくつかの作品やそれに対する反応を見たことがきっかけだった。ここでは3つの作品を事例としてとりあげ、それに対する反応なども含めて考察していきたい。

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー

人気ゲームの2023年公開の映画化作品。なんでハラスメントの話題でこの作品?って思われるかもしれないし、実際に自分が観たときもそんな視点は全くなかった。

で、何が問題なのかというとクッパというキャラクターの造形。マリオブラザーズはもともとファミコンとかの頃からの古い作品で、クッパというキャラクターはマリオが冒険に出る理由としてピーチ姫をさらうという役目を持っていて、深みはほとんどない悪役だった。ただ、ゲームも技術の進歩で色々描けるようになったし、映画化ということで物語性を増さないといけないという状況の中でクッパがやっていることは変わっていない。
ただピーチ姫に執着し、我が物にしようとする。象徴的なのが↓の映像

描かれ方のベクトルとしては、振り向いてくれないピーチ姫を一途に思い行動する愛すべきキャラクターっぽい味付けになっているのがわかると思う。ひと昔前であれば、女性にフラれても「一回断られたくらいで諦めるな。男なら振り向いてもらえるまでアプローチするんだ」みたいな価値観は確かに存在した。それで実際に上手くいったケースがどの程度あったのかは知る由もないが、現代においてこれは既にNGになっていると言っていいだろう。ほぼストーカーと紙一重だし、一度拒絶した相手に繰り返しアプローチされるのは女性の側からして恐怖の対象になり得るのは理解できる。

そうした価値観の変化のもとで、本作のクッパの造形のように力づくで女性に迫るクッパというキャラクターを、愛すべき純情男のような描き方をするのはどうなのかという指摘をこの映画の感想の中で述べておられる方がいて、私としては価値観の変化ってもうそこまで来ているのかとかなりびっくりした。↓の動画の37分あたりからその話なので興味のある方は観てみて欲しい。

Netflix版 シティーハンター

つい最近配信が始まったNetflix版のシティーハンター。鈴木亮平の素晴らしい役作りや気合いの入ったアクションシーンはよくできている作品だと思う。ただシティーハンターという作品は、普段は女性にセクハラしまくりのダメ男が、ここぞという場面でカッコ良く決めるというのが大きな魅力である以上、もっこりと表現されるセクハラ部分をどう描くかが問題となる。

結論から言うと、この作品はもっこりの描写についてはかなり及び腰であった。女好きやスケベであるということの描写は入れているものの、ハラスメントと呼べるレベルの行為はほとんどしていない。Netflixという媒体は表現に関する制限はTVなんかよりずっと緩いので、表現できなかったわけではないと思う。ただ現代の実写化でセクハラしまくりが大衆に受け入れられるかというと怪しいので、意図的に避けたと考えられる。その判断自体は間違っていたとは思わないが、結果として冴羽獠という男のメリハリから来るカッコ良さは一定程度失われていると感じたし、もっと言ってしまえばシティーハンターである必然性みたいなものも薄れていると言っても過言ではないかもしれない。

偶然であるが、マリオ映画のクッパの造形についてコメントされていたフリーライターの山田さんが、シティーハンターについてのレビューを書かれているのでこちらも興味があればご一読あれ。もちろんもっこりについての記述もある。

宝塚版 鴛鴦歌合戦(おしどりうたがっせん)

3つ目は宝塚の舞台作品の鴛鴦歌合戦。作品自体は1939年の映画作品の舞台化で、原作の楽曲やセリフなどもかなり用いられている。これも作品自体というよりは、ファンの方の反応についての考察になる。作中で放蕩なバカ殿が街中で娘を見て「腰の丸みのちょうど良い」と形容する場面が何度かあり、とあるファンの方がどうしてもそれが許せない、そんな台詞をそのまま現代作品で採用するなんて意識が低すぎると言っていた。個人的にはその意見にはあまり共感できていないのだけど、そういう意見もあるのかという点で一度考えてみたい。

まず「腰の丸みのちょうど良い」という表現が女性を評するのに妥当かという意味では当然NGであろう。ただ本作品での用いられ方は、放蕩バカ殿を放蕩バカ殿として描くために使われているのであり、いわばダメな表現として登場しているわけだから、そういうセリフを残すこと自体がダメというのは行き過ぎではないかと思うのだ。むしろ宝塚においては、女性が演じファンも女性が多いという世界ながら、男役が娘役よりも優位な男尊女卑という歪さが個人的には気になる。最近の作品でも、男性役がヒロインや女性に相手の同意を得ずにいきなりキスするところから恋が始まるというような描写が普通に出てくる。バランスを考えれば、こうした行為の方が社会的によっぽど許容されない行為であり、ちょっとした表現をあげつらうよりも価値観のアップデートが求められるところは他にあるのでは?というのが個人的な意見。

まとめ

いくつかの題材でフィクション作品におけるハラスメント表現を見てきた。考えてみれば、ドラえもんでのび太はしずかちゃんのお風呂を覗き、ドラゴンボールで亀仙人はセクハラじじいだったし、ルパン三世は峰不二子のベッドにダイブしていた。ひと昔前には大衆向けの作品であっても、スケベキャラはたいていの作品には登場するし、覗きやセクハラなどの社会的にはNGな行為も普通に描かれていたわけだ。これが現代においてどうなのかというと、今回の3作品の考察でも見えてきたように、非常に微妙な時期であると思う。キャラ付けとして比較的使いやすいということで、鬼滅の刃の我妻 善逸のように比較的最近の作品でも女好きやスケベキャラは出てきている。一方で、社会通念上許されないハラスメント行為がフィクションで普通に描かれるのはどうなのかという意見は次第に強くなっている。

個人的な感覚としては、作中でハラスメント行為が罰される(セクハラ行為→100tハンマーみたいな)のであれば、社会通念上許されない行為であることは示されているわけだし、まだフィクションにおける表現としてセーフなのかなと思う。ただこのラインが変わりつつあるのは強く感じるし、あと何年かして状況がすごく変わっていてもおかしくはない気がする。

良い悪いという観点はこの問題に対してはそれほど持っていない。ラインは個人ではなく社会が決めるものだ。タバコを吸うという表現がフィクション作品で昔と比べてすごく減ったのも、社会におけるタバコの立ち位置が変わったから。ハラスメントに関する価値観が変われば、当然フィクションにおける表現も変わってくる。ただラインが今どのあたりにあるのかということは、各個人が気にしておく必要があることで、きちんとアンテナを立てておきたいところだ。


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